アルベルトとの喧嘩から数日間、
宝泉和臣は珍しく次の相手へすぐには向かわなかった。
理由は単純だ。
身体が動かなかった。
肩は上がりきらず、脇腹には鈍い痛みが残り、
拳を握るだけで関節の奥が軋むような感覚があった。
あの巨体を倒した代償は、思った以上に重かった。
だが、それが不快だったわけではない。
むしろ宝泉は、その痛みを噛み締めるようにして過ごしていた。
アルベルトは強かった。
本当に強かった。
今まで潰してきた連中とは明らかに違った。
あいつに勝ったという事実は、宝泉の中の自信をさらに膨らませた。
同時に、身体が万全でなければ次の相手には届かないという、
苛立たしい現実も突きつけてきた。
次に狙う相手は決まっていた。
天沢一夏。
女だ。
だが、ただの女じゃない。
あの身のこなし。
あの余裕。
あの相手を玩具のように見る目。
須藤や龍園より強いのは間違いない。
場合によってはアルベルト以上かもしれない。
そう考えた時、宝泉の口元は自然と歪んだ。
女だからどうこうじゃない。
強いなら潰す。
それだけだ。
数日後。
身体の痛みがようやく引き、
拳を握った時に余計な鈍さが消えたと感じた朝、宝泉は天沢へ声をかけた。
「おい、天沢」
彼女は振り返ると、すでに何かを察したように笑っていた。
「なぁに、宝泉くん。怖い顔して」
「体育館裏に来い」
「へぇ」
天沢の目が楽しげに細くなる。
「もしかして、あたしと遊んでくれるの?」
「遊びで済むと思うなよ」
「強い男の人ってだぁい好き♡」
その言葉に、宝泉は鼻で笑った。
「なら満足させてやるよ」
放課後。
体育館裏は、校舎裏や寮裏とはまた違う空気を持っていた。
遠くから部活動の声が聞こえる。
床を蹴る音。
ボールの跳ねる音。
笛の音。
だが、この裏側だけは妙に静かだった。
天沢はそこに立っていた。
軽い足取り。
緊張感のない姿勢。
まるでこれから喧嘩をするのではなく、気まぐれな散歩でもするような顔。
それが宝泉の神経を逆なでする。
「随分余裕じゃねぇか」
「だって楽しみなんだもん」
「後悔すんなよ」
「宝泉くんこそ」
次の瞬間、宝泉は踏み込んだ。
最初から様子見はしない。
アルベルト戦で分かった。
強い相手に中途半端な攻撃をしても意味がない。
潰すなら最初から全力で圧をかける。
拳が天沢の顔面へ向かう。
だが、当たらない。
天沢の身体が、ふわりと横へ流れた。
避けた、というより消えたような感覚だった。
直後、宝泉の脇腹に鋭い衝撃が入る。
「ぐっ……!」
速い。
軽い一撃ではない。
細い身体から放たれたとは思えない重さがある。
宝泉は振り返りざまに拳を振るう。
天沢は笑いながら後ろへ跳ぶ。
「おっかないなぁ」
「チッ……!」
宝泉は追う。
拳。
蹴り。
掴み。
だが、天沢はことごとく回避する。
七瀬とも違う。
七瀬は最小限の動きで攻撃を捌いた。
天沢はもっと自由だ。
まるで宝泉の攻撃が来る場所を最初から知っているかのように、
わずかな差で外し、すぐに鋭い反撃を入れてくる。
肩。
肋骨の下。
太もも。
顎先。
一撃一撃が的確で、しかも重い。
女の力じゃねぇ。
少なくとも、宝泉が知っている普通の人間の動きではない。
「テメェ……」
宝泉は笑みを消した。
天沢は楽しそうに首を傾げる。
「どうしたの?もっと来なよ」
その声が、宝泉の中の闘争心に火をつける。
宝泉はさらに踏み込んだ。
真正面から圧をかけ、逃げ場を潰す。
天沢が横へ抜けようとした瞬間、宝泉は足を出して進路を塞ぐ。
一瞬、天沢の動きが止まった。
そこへ拳を入れる。
今度は当たった。
肩口。
だが天沢は大きく崩れない。
むしろ笑った。
「いいねぇ」
次の瞬間、宝泉の腹に膝が入った。
完全に見えなかった。
呼吸が止まる。
さらに首元を引かれ、体勢が崩される。
視界が回った。
気づいた時には、宝泉は地面に片手をついていた。
ダウン。
自分が、倒された。
一瞬、何が起きたのか理解が遅れた。
宝泉和臣が、先に地面へ落ちた。
堀北でも伊吹でもない。
須藤でも七瀬でも龍園でもアルベルトでもない。
天沢一夏が、宝泉を倒した。
「……っ」
胸の奥で、何かが鋭く軋んだ。
痛みではない。
屈辱だ。
天沢は少し離れた場所で笑っていた。
「ねぇ、宝泉くん。今の顔、ちょっと可愛かったよ」
その一言で、宝泉の中の何かが切れた。
「……舐めてんじゃねぇぞ」
低い声が漏れる。
身体を起こす。
腹は痛い。
呼吸も乱れている。
だが、それ以上に怒りが勝った。
ダウンしてから再び立ち上がるのに10数秒かかった。
もしこれが公式試合だったら宝泉は敗北していたことになる。
その屈辱的な事実が余計に神経を逆なでした。
「本気で潰す」
「うん。そういうの待ってた」
そこから先は、喧嘩というより削り合いだった。
宝泉はもう天沢を女として見ていなかった。
相手は強敵。
ただそれだけ。
拳を振るう。
避けられる。
反撃を受ける。
それでも前へ出る。
また拳を振るう。
今度は当たる。
天沢が笑う。
その笑みが、宝泉をさらに前へ進ませる。
何度も、何度も、攻撃は交錯した。
天沢の一撃は鋭く、宝泉の身体を確実に削っていく。
宝泉の一撃は重く、天沢の余裕を少しずつ奪っていく。
最初は笑っていた天沢の呼吸が、少しずつ乱れ始めた。
だが宝泉も同じだ。
アルベルト戦以上に神経を使う。
力で押すだけでは当たらない。
速さだけでも届かない。
相手の逃げる先を読み、反撃を受ける覚悟で踏み込み、
多少の痛みを無視して距離を潰すしかない。
「しつこいねぇ、宝泉くん」
「倒れるまでやるに決まってんだろ」
「そういうところ、嫌いじゃないよ」
天沢が笑いながら拳を繰り出す。
宝泉はそれを肩で受け、強引に間合いを詰めた。
脇腹へ拳。
入った。
天沢の顔から、初めて少しだけ笑みが薄れる。
「……へぇ」
宝泉は見逃さない。
効いた。
確かに効いた。
ならば続ける。
宝泉はさらに攻めた。
だが天沢も止まらない。
宝泉の拳を受けながら、彼女は鋭く打ち返してくる。
受けて、返す。
避けて、返す。
崩れても、戻る。
何度も繰り返すうちに、宝泉の体力は限界へ近づいていった。
足が重い。
腕も上がりにくい。
肺が焼ける。
それでも止まれない。
ここで止まれば負ける。
天沢も同じだった。
さっきまで軽かった足取りが、わずかに鈍っている。
呼吸が荒い。
髪が乱れ、目の奥の楽しげな余裕が消えかけている。
だが、それでも彼女は倒れない。
「……宝泉くん」
天沢が静かに言った。
その声から、笑いが消えていた。
「思ったより、ずっとしぶといね」
「あ?」
「ちゃんと強い」
その言葉を聞いた瞬間、宝泉は笑いそうになった。
だが笑う余裕はなかった。
天沢の目が変わっていた。
遊びではない。
完全に倒しに来る目だ。
次の瞬間、天沢が踏み込む。
速い。
今までよりさらに鋭い。
宝泉は反応する。
拳を受ける。
衝撃で腕が痺れる。
続く蹴りを半身でかわす。
だが、肩に当たる。
痛みが走る。
それでも宝泉は前へ出た。
天沢の攻撃が終わる直前。
ほんの一瞬、彼女の重心が浮いた。
隙。
本当に小さな隙だった。
だが、ここを逃せばもう次はない。
宝泉は全力で踏み込んだ。
足が悲鳴を上げる。
腕も限界だ。
それでも拳を振るう。
天沢は避けようとした。
だが、ほんのわずかに遅れた。
宝泉の拳が、天沢の胴へ深く入る。
天沢の身体が止まった。
宝泉はさらに肩で押し込む。
天沢が一歩下がる。
もう一撃。
腕を振るう力はほとんど残っていなかった。
だが、全体重を乗せた。
天沢の足が崩れた。
彼女の身体が、ゆっくりと地面へ落ちる。
倒れた。
天沢一夏が、倒れた。
宝泉はしばらく動けなかった。
立っているだけで精一杯だった。
呼吸が荒い。
視界が揺れる。
身体中が痛い。
勝った。
勝ったはずなのに、いつものように笑えない。
喉の奥から高笑いが出てこない。
それどころか、少しでも気を抜けば自分も倒れそうだった。
天沢は地面に倒れたまま、うっすらと目を開けていた。
そして、かすかに笑った。
「……やるじゃん」
その言葉に、宝泉は何も返せなかった。
返す余裕がなかった。
正直、負けたかと思った。
初めて地面に落とされた瞬間。
何度も反撃を受けた瞬間。
最後の最後まで、天沢の動きは読めなかった。
アルベルト以上の強敵だった。
少なくとも、宝泉の中で天沢一夏は、
間違いなく今まで戦った誰よりも危険な相手だった。
宝泉は荒い息を吐きながら、拳を握った。
指が震えている。
疲労か。
痛みか。
それとも、紙一重の勝負を終えた後の興奮か。
自分でも分からなかった。
「……辛勝、ってやつかよ」
そんな言葉が、口の中で転がる。
気に入らない言葉だ。
だが否定できない。
今回は圧勝ではない。
蹂躙でもない。
本気で危なかった。
それでも最後に立っていたのは宝泉だった。
その事実だけが、今の宝泉を支えていた。
宝泉はゆっくりと背を向ける。
いつものように笑い飛ばすことはできなかった。
だが、胸の奥には確かな熱が残っている。
勝った。
天沢一夏に勝った。
その重みを、宝泉は無言で噛み締めるしかなかった。
しかし同時に、心の奥のどこかで小さな違和感も芽生えていた。
アルベルトで限界に近かった。
天沢では、本当に負けてもおかしくなかった。
なら、その先にいる奴らは何なんだ。
八神。
高円寺。
綾小路。
名前を思い浮かべた瞬間、宝泉は無意識に拳を握り直した。
恐怖ではない。
そう自分に言い聞かせる。
ただの興奮だ。
まだやれる。
まだ勝てる。
宝泉和臣は、そう思い込むように体育館裏を後にした。
だがその背中には、いつもの獰猛な笑みはなかった。
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