ようこそ暴力至上主義の教室へ 作:EXTERMINATION
八神拓也に負けた。
高円寺六助にも負けた。
その事実は、宝泉和臣の中にあったくだらない言い訳を、
むしろ綺麗に焼き払っていた。
以前の宝泉なら、負けを認めなかったかもしれない。
調子が悪かった。
身体が万全ではなかった。
相手が逃げ回っただけだ。
まともな喧嘩ではなかった。
そうやって、何かしらの理由をつけて自分を保とうとしたかもしれない。
だが、もうそんな段階は過ぎていた。
八神には攻撃が通じなかった。
高円寺には相手にすらされなかった。
上には上がいる。
それも、自分の想像していたより遥かに上にいる。
その現実を、宝泉は初めて本当の意味で思い知らされた。
だからこそ、もう躊躇いはなかった。
ここで引くくらいなら、最初から喧嘩など始めるべきではなかった。
堀北と伊吹を倒し、須藤を倒し、七瀬を倒し、龍園を倒し、
アルベルトと天沢を越え、それでも八神と高円寺に叩き落とされた。
ならば最後に行くべき場所は、一つしかない。
綾小路清隆。
最強無敵の、その先。
あの無表情で、何を考えているか分からない男。
宝泉が最初から越えるべき壁として意識していた相手。
あいつとやらずに、この戦いを終わらせることだけはできなかった。
寮裏。
夜に近い夕暮れの中、宝泉はそこに立っていた。
風は冷たい。
建物の影は深い。
周囲に人影はない。
やがて、綾小路清隆が現れた。
歩き方に力みはない。
表情にも変化はない。
宝泉を見ても、怒りも警戒も面倒臭さも浮かべない。
ただ、そこにいる。
まるで人間ではなく、温度のない機械が歩いてきたようだった。
その無機質さが、宝泉の神経を逆なでする。
同時に、背筋の奥を冷たいものが撫でた。
「来たか、綾小路センパイ」
「何の用だ」
声も平坦だった。
本当に何の感情もない。
宝泉は拳を握る。
痛みはもうない。
身体は万全だ。
言い訳はできない。
「喧嘩だ」
綾小路は少しだけ宝泉を見た。
「やる意味がない」
「俺にはある」
宝泉は低く言った。
「テメェを倒す」
「つまらないな」
それだけだった。
拍子抜けするほど淡い返事。
だが、その淡さが逆に怖かった。
八神には柔らかい笑みがあった。
高円寺にはふざけた余裕があった。
綾小路には何もない。
勝つ気配も、楽しむ気配も、見下す気配すらない。
ただ、宝泉が向かってくるなら処理する。
そんな冷たさだけがあった。
宝泉は覚悟を決めた。
絶対に勝つ。
いや、勝てなくてもいい。
一撃。
一撃だけでも食らわせる。
あの無表情を歪ませる。
そのために全力で行く。
「行くぞ」
宝泉は地面を蹴った。
最初から全力。
真正面からの拳。
綾小路は避けた。
動きは小さい。
八神よりもさらに小さい。
高円寺のような派手さもない。
本当に、必要な分だけ。
宝泉の拳が通る軌道から、身体をわずかに外しただけだった。
宝泉はすぐに二撃目を放つ。
綾小路は腕で受ける。
受けたはずなのに、手応えがない。
力を吸われたような感覚。
拳が弾かれるのではなく、流される。
宝泉は踏み込みを変える。
蹴り。
掴み。
肩からの体当たり。
だが、全部が止められる。
避けられる。
ずらされる。
こちらが一番力を出せる角度に入る前に、綾小路はその力を消してしまう。
「チッ……!」
宝泉はさらに攻めた。
八神戦で味わった屈辱。
高円寺戦で叩きつけられた無力感。
それらを全部振り払うように、拳を振るう。
だが届かない。
綾小路の防御は鉄壁だった。
大きな動きはない。
派手な技もない。
だが崩れない。
どれだけ宝泉が角度を変えても、速度を上げても、力を込めても、
綾小路は最小限の動きだけでその全部に対応する。
反射神経が異常だった。
いや、反射だけではない。
見えている。
宝泉の攻撃が始まる前に、どこへ来るのか。
どこに力が乗るのか。
どのタイミングで宝泉の身体が止まるのか。
全部分かっている。
そうとしか思えなかった。
「なんなんだよ……テメェは……!」
宝泉は叫ぶ。
だが綾小路は何も答えない。
その無言が、さらに宝泉を焦らせる。
拳を振るう。
外れる。
蹴りを出す。
止められる。
掴もうとする。
手首を外される。
逆に軽く体勢を崩される。
強烈な一撃を受けているわけではない。
だが、少しずつ削られていく。
自分の攻撃が通じないという事実が、肉体より先に精神を削ってくる。
八神以上。
高円寺以上。
そう認めざるを得なかった。
八神は技術と読みで宝泉を封じた。
高円寺は身体能力と余裕で宝泉を寄せつけなかった。
綾小路は、その両方をさらに冷たく、
さらに無駄なく、さらに完成された形で持っている。
そこに怒りも快楽もない。
ただ機械のように、宝泉の暴力を作業として処理している。
もし自分が殺傷力のある武器を持っていたとしても、結果は変わらない。
ナイフだろうと、銃だろうと。
一瞬で奪われる。
あるいは使う前に倒される。
そう思わされるだけの差があった。
その想像に、宝泉の背筋が冷える。
初めてだった。
喧嘩の最中に、自分の暴力が意味を持たないと感じたのは。
「まだやるのか」
綾小路が静かに言った。
その声には憐れみもない。
煽りもない。
ただ確認だった。
宝泉は奥歯を噛み締めた。
「当たり前だろうが……!」
最後の突進。
もう細かい駆け引きはない。
全力で踏み込み、全力で拳を叩き込む。
自分の持つすべて。
勝利への執念。
喧嘩屋としての意地。
ここまで倒してきた連中への自負。
負けてもなお残った闘争心。
それら全部を乗せた一撃だった。
だが、綾小路はわずかに動いた。
宝泉の拳は空を切る。
次の瞬間、身体の中心が崩れた。
何をされたのか、分からなかった。
足が地面から離れる。
視界が傾く。
呼吸が止まる。
地面へ叩きつけられる。
衝撃。
音が遠のく。
宝泉は起き上がろうとした。
腕に力を入れる。
だが、身体が動かない。
綾小路は目の前に立っている。
息一つ乱れていない。
表情も変わらない。
髪も、服も、呼吸も、何一つ乱れていない。
まるで宝泉との戦いなど、最初から存在しなかったかのようだった。
完敗。
その言葉が、頭の中に落ちてきた。
八神に負けた時よりも重く。
高円寺に負けた時よりも冷たく。
宝泉の中にあった最後の火を、上から押し潰すように。
勝てない。
一撃も届かない。
何をしても通じない。
自分が信じてきた暴力は、綾小路清隆の前では何の意味もなかった。
宝泉は地面に倒れたまま、綾小路を見上げた。
あの無表情。
あの冷たい目。
何を考えているか分からない顔。
そこには勝者の喜びすらない。
それが一番堪えた。
宝泉は敵として認められてすらいない。
ただ、向かってきたから制圧された。
それだけ。
「……クソ……」
声は掠れていた。
怒りが出ない。
悔しさも、いつものように燃え上がらない。
胸の奥にあった闘争心が、音もなく折れていた。
八神に負けても、まだ火は残っていた。
高円寺に負けても、綾小路を倒すという目的だけは残っていた。
だが、その綾小路にここまで完璧に敗れた今、宝泉の中には行き場がなかった。
どこへ向かえばいい。
誰を倒せばいい。
何を証明すればいい。
分からなかった。
綾小路は静かに言った。
「もうやめておけ」
その言葉は、怒鳴り声より重かった。
命令ではない。
警告でもない。
ただ事実を告げるような声。
宝泉は返事をしなかった。
できなかった。
綾小路はそれ以上何も言わず、背を向けて去っていく。
足音が遠ざかる。
寮裏に残された宝泉は、地面に倒れたまま、暮れた空を見上げていた。
身体はまだ痛む。
だが、それ以上に心が動かなかった。
今まで感じていた怒りも、高揚も、勝利への飢えも、全部がどこかへ消えていた。
最強無敵のその先を目指す。
そう思っていた。
だが、その先には壁などなかった。
ただ、底の見えない断崖があっただけだった。
宝泉和臣は、初めて理解した。
自分は強い。
それは間違いない。
多くの相手を倒せる。
並の不良なら叩き潰せる。
身体能力に優れた相手にも勝てる。
だが、それだけだった。
本物の化け物には届かない。
綾小路清隆という男は、宝泉が拳で測ってきた世界の外側にいた。
映画や漫画の中でしか見たことのないような、異次元の強さ。
人間の形をしたマシーン。
怒らず、笑わず、昂らず、ただ勝つ存在。
そんなものを前にして、宝泉の喧嘩屋としての誇りは完全に折れた。
「……終わり、かよ」
呟いた言葉は、自分でも驚くほど弱かった。
誰も答えない。
風だけが寮裏を通り抜ける。
宝泉は拳を握ろうとした。
だが、力が入らなかった。
それは肉体の疲労だけではなかった。
もう戦う理由そのものが、手の中から抜け落ちていた。
綾小路清隆に挑んだ。
そして何もできずに負けた。
その事実だけが、重く、冷たく、宝泉の胸の奥に沈んでいった。
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