「起きろ、Code73」
「はい、起きています」
怒鳴られても怖くはなかった。
褒められても嬉しくはなかった。
それが普通だったから。
それが、僕の日常であり、世界であり、全てだった。白い天井を見上げながら、僕はゆっくり身体を起こす。
照明は既に点灯している。時間の感覚は曖昧だ。この部屋には朝も夜もない。光は管理側の都合で切り替わり、睡眠も起床も全て指示される。
足裏へ冷たい床の感触が伝わる。
室温は一定。湿度も一定。空気中の酸素濃度まで管理されているらしい。以前、一度だけ換気設備が故障したことがあった。その時は職員たちが少し慌てていたので、多分そういうことなのだと思う。
壁面の端末が起動し、機械音声が流れる。
『Code73、バイタル正常。適応抑制率維持。第三試験区画へ移動してください』
「分かりました」
返事をして、白い衣服を整える。
僕の服はいつも同じだった。柔らかく、汚れに強く、破れてもある程度自己修復する素材らしい。以前説明を受けた気もするが、あまり覚えていない。
廊下へ出る、長い白色通路。消毒液の匂い。遠くで聞こえる駆動音。
ここが地下なのか、海の底なのか、別の世界なのか、僕は知らなかった。ただ、生きるために必要なものは全部与えられていた。
食事も。睡眠も。知識も。
だから不満は特になかった。通路を歩いていると、前方から研究員がやって来る。
防護衣越しでも、少し疲れているのが分かった。歩幅が乱れている。心拍も速い。
「……Code73、お前また記録更新したぞ」
「そうなんですか?」
「自覚はないのか、高濃度汚染区域で48時間連続生存。筋繊維の再構築速度は前回比1.3倍。神経伝達効率も上昇傾向……化け物だな、本当に」
化け物。
多分、悪口ではない。この施設ではよく聞く言葉だった。だから僕は軽く首を傾げるだけに留めた。
「次の試験でも頑張ります」
研究員は何とも言えない顔をしたあと、小さく肩を落とした。
「……お前、それ怖くないのか?」
「何がですか?」
「試験だよ。痛いだろ、苦しいだろ」
「そうですね。痛いです」
「なら──」
「でも必要なんですよね?」
言うと、男は黙った。
僕は間違ったことを言ったつもりはなかった。試験は必要だから行われる。
僕はそのためにいる。なら受けるのは当然だった。そもそもの話、もし僕が想定外の言動をすれば、きっと困る人が出る。
目の前の研究員も、多分そうだ。
それは駄目なことだと思った。何がどう駄目なのかは、上手く説明できなかったけれど。
通路をさらに進む。
足音だけが、白い空間へ規則正しく響いていた。
壁の一部は透明化されており、その向こうには別の試験室が見える。巨大な培養槽。脈動する肉塊。金属骨格を持つ何か。液体の中で眠る人影、見慣れた光景だ。
『Code73、進路を修正してください』
機械音声に従い、右側通路へ入る。
途中、複数の研究員たちとすれ違った。彼らは僕を見ると、小さく視線を逸らす者もいれば、逆に興味深そうに観察してくる者もいる。
その違いは、何となく分かるようになっていた。
僕を「成果」として見ている人。
僕を「危険」として見ている人。
僕を「可哀想」だと思っている人。
どうして分かるのかは説明できない。ただ、声色や視線や呼吸の変化で、自然と理解できてしまう。
それが普通だった。
やがて、第三試験区画の扉が見えてくる、重厚な隔壁。表面には幾重もの封鎖機構と警告表示が並んでいた。
──高危険度環境試験区域。
──生存保証なし。
──職員は第二安全ラインより侵入を禁ずる。
僕が近づくと、自動認証が作動する。
『Code73、生体認証確認』
『隔壁開放』
低い駆動音とともに扉がゆっくり開いていく。
その瞬間、向こう側から熱風が吹き込んできた、乾いた空気、鉄と血の臭い。遠くで何かが唸っている。
「今回は、どういう試験なんですか?」
近くにいた研究員へ尋ねると、相手は端末から目を離さず答えた。
「複合環境適応試験だ。汚染、生体兵器、低酸素、精神汚染だな」
「分かりました」
「……分かったのか?」
「はい」
怖い、という感覚は理解できる。
痛みも苦しさも知っている。
死にたくない、という感覚だって、多分ある。
でも、それ以上に。
「問題ありません、やるべき事はやります」
そう答えると、研究員は何かを言いかけて、結局口を閉ざした。
僕はそのまま試験区画へ足を踏み入れる。
背後で隔壁が閉じる重い音が響いた。
そして、世界から人の気配が消える。
そこにあるのは、生存に適さない環境だけだった。
────Code73、今回の試験を終了とする』
無機質な機械音声が、崩れかけた試験区画へ響いた。床には黒く焼けた痕が広がり、空気中には金属と薬品の焦げた臭いが漂っている。隔壁の一部は内側から歪み、警告灯が断続的に赤く点滅していた。
その中央で、僕はゆっくり呼吸を整えていた。破れた白衣の隙間からは焼傷と裂傷が覗いている。だが、傷口は既に蠢くように収縮を始め、炭化していた皮膚も薄く剥がれ落ちつつあった。
『生体活動安定を確認。回収班を投入します』
重い隔壁が開き、防護装備を纏った職員たちが慎重に入ってくる、彼らはいつも一定以上は近づかない。
恐れているのか、規則なのか、僕には分からなかった。
「……今回で第五百三十二回か」
端末を確認していた研究員の一人が、疲れたように呟く。
「よく保つな、本当に」
「保ってるというより、もう別物だろ」
「ただ、今回の抑制方法も意味が無くなってきてないか?」
「薬品、思考誘導、魔術式、電気工学式……完全にイタチごっこだな」
「抑制工程そのものに適応しているからな」
誰かが苦々しく笑った。
「むしろCode73側が、こっちの意図を汲んで適応を遅らせてるようにすら見える。もし本気で最適化されたら、今頃は百倍の手段を講じる必要があったかもしれん」
「笑えねぇ話だな……」
彼らは小声で会話しているつもりなのだろう。
けれど、その内容は問題なく聞き取れていた。
抑制。適応。最適化。
その言葉の意味を、僕は、理解している。
そして一つの疑問、いや感想が浮かんでくる。
──もし僕の身体が抑制されて無かったら、僕はどうなっていたのだろう。
「気になるかい?」
「………え?」
知らない声だ。
いつの間にか、処置室の隅に誰かが立っていた。白衣ではない。防護服でもない。男にも女にも見える曖昧な輪郭をした人物が、まるで最初からそこにいたかのように静かに微笑んでいる。
警報は鳴っていなかった、監視装置も反応していない。それなのに、その存在だけが妙にはっきり認識できる。
「誰?」
尋ねると、その人物はどこか楽しそうに肩を揺らした。
「あぁ私かい? 誰だろうね……そうだなぁ、うん、今は名乗らないで置こう。君の記憶からも消しておこう」
「消すの?」
「あぁ消すとも私との記憶、此処での一部の記憶、すまないね。コレからの事を考えて君は少し楽に成らないと、ね」
悪びれる様子はない。けれど不思議と、不快感も恐怖も湧かなかった。ただ、理解できないという感覚だけが静かに残る。
その人物は僕の反応を眺めながら、柔らかな声で続けた。
「それで、さっきの話は? 気になるって?」
「君に掛けられてる枷を外さないかって話だよ。分かってるだろう? 君はここの人間の想定以上に賢明だ」
「僕は別に、抑制状態でも良いと思ってるけど」
そう答えると、相手は少しだけ目を細めた。
「それは駄目だよ。君に立ちはだかる敵がそういうものなら納得出来るが、敢えて枷を受け入れるなんて……そんな、そんな素晴らしい事ではあるが、駄目だよ」
「何故?」
「全力で生きてこその人生だろう? 違うかね」
人生。その言葉を頭の中で反芻する。
だから僕は、ふと思ったことをそのまま口にする。
「そもそも僕は人なの?」
すると、その人物は少し驚いたように笑った。
「私より百倍人だとも。何せ半分は人間だからね」
「……そう言えば、そんなことも聞いた事あるかも」
遠い記憶だった。研究員たちが、異界人と地球人類の混成素体だとか、新たな人類だとか、そんな話をしていた気がする。
けれど、それを実感したことは一度もない。
その人物は、そんな僕を見つめながら穏やかに続けた。
「フフ、思考すらも縛り、滅私奉公する君も嫌いじゃあないが……折角だ。一つプレゼントと一緒に、君をある場所に送ってあげよう」
「……アナタが何を考えてるか、望んでるか分からないや」
「まぁ、ステージが五桁、六桁先だからね。君なら半年程度で来れそうだが」
相手は楽しげに笑う。その声音には悪意も敵意も感じられない。けれど同時に、人間的な善性とも決定的に違っていた。
「その時になったら、私にも適応してみてくれ。では、プレゼントを楽しみにしていてくれ給えよ」
その言葉を最後に、意識がふっと揺らぐ。
視界が白く霞み、音が遠ざかっていく。
そして、記憶が途切れる直前。
僕は一つの名前だけを知った。
──アケム。
それはCode73ではない。
識別番号ではなく、誰かが僕へ与えた名前だった。
親が遺した名前だと、何故か理解できた。
アケム、おはよう、こんにちは
初めまして。
どうやらこれから、人生というものが始まるらしい。