パークアドラにて二度目の更新を終えた、彼の肉体は初日とは隔絶した差があることは明白だった。しかしそれはアケムにとっては気にする事柄では無いこともまた事実だった。
「おはよう、アケム少年。お目覚めが早いですね。モーニングでも食べます?」
目を開けて、暫くこの隠れ家にて何かすることは無いかと思案していた所に声をかけられる。
いつの間に起きていたのか、ルシリアは既に白い外套を整え、朝の支度を終えていた。
「……おはよう」
「フフ、元気の良い挨拶ですね。悪くありませんよ」
「それで今日はどうするの?」
「食事を取ってからは、アケム少年の性能確認ですね」
「性能確認?」
「えぇ。流石に、軽い検査だけで実戦に投入はしたくないので」
「戦うの?」
「そうですね、存分にアケム少年の身体性能を見せて下さいね、では前準備として料理に取り掛かりましょうか」
ルシリアはそう言いながら、部屋の奥にある簡素な調理台へ歩いていく。金属製の棚には乾燥肉や缶詰、見たこともない色の香辛料瓶が整然と並んでいた。
「料理できるんだ」
「失礼ですね。潜入、毒殺、長期逃亡……生き延びる技術を覚えていけば、自然と料理も上達しますよ」
さらりと物騒な単語を混ぜながら、彼女は手際良く鍋へ火を入れる。
アケムはその背中をぼんやり見つめていた。
殺人狂。
そう呼ばれる人物の生活感というものが、彼には少し不思議だった。昨日も感じたが、ルシリアは人を殺したいと言いながら、同時に妙に丁寧に生きている。
やがて、香ばしい匂いが部屋へ広がり始めた。
「はい、出来ましたよ」
机へ並べられたのは、焼いた薄切り肉と黒パンと缶詰の果物、それに湯気を立てるホットミルクだった。
「毒入ってる?」
「大丈夫ですよ、私の真心以外は混入していません」
アケムはしばらく料理を見つめ、それから素直に席へ着いた。
黒パンは少し硬かったが、噛むほど僅かな甘みが広がる。肉には強めの香辛料が使われていたが、不思議と嫌な味ではない。ホットミルクの熱が喉を落ちていくと、身体の奥側がゆっくり解けていく感覚があった。
ルシリアは向かい側で頬杖をつきながら、楽しそうに彼を眺めている。
「警戒しながらも、ちゃんと食べるんですね」
「出されたものは食べないと、それとだけど」
「なんでしょうか?」
「美味しいよ」
「そうですか、良かった」
静かな食卓だった。外では相変わらず配管の唸る音が響いているというのに、この部屋だけ切り離されたみたいに穏やかだ。
「では食べ終わったら、行きましょうか」
「……何処に」
「訓練場ですよ。安心してください、コチラの世界ではありませんよ、少し便利な場所へ向かいます」
穏やかな笑顔のまま告げられた内容に、アケムは静かに瞬きをした。
ルシリアは空になった食器を手際よく重ねると、そのまま壁際の棚へ歩み寄った。
白い指先が、古びた金属板の一部へ触れる。
すると、微かに空気が震えた。
次の瞬間、壁面へ淡い紋様が浮かび上がる。まるで水面の裏側へ光を流し込んだみたいに、青白い線が幾重にも広がっていった。
「異界?」
アケムが小さく呟く、ルシリアは感心したように振り返った。
「ほう、見ただけで分かりますか」
「なんとなく、昨日の孔と似てる」
「似ていますとも。ですが、こちらは制御済みです。人類の叡智は偉大なんですよ」
そう言いながら、彼女は靴音を鳴らして門の前へ立つ。
空間は静かに揺らぎ続けていた。その奥には景色が無い。暗闇とも違う、ただ物理的な構成物質の部屋の様な空間が存在している。
「訓練用小規模異界《グラウンド》……まぁ、R.A.I.D.や企業系武装組織もよく利用しています」
「便利なんだね」
「便利ですよ。多少暴れても、現実の建物が吹き飛びませんから」
ルシリアはくすりと笑った、その笑みのまま、彼女はゆっくりアケムへ視線を向ける。
「ではアケム少年、一つだけ忠告を」
「?」
「私、手加減した経験があまり無いんです」
穏やかな声音だった。部屋の空気が微かに冷えた気がした、ルシリアの赤い瞳が、静かに細まる。
「死なない程度には気を付けますが、アケム少年も全力で気をつけて下さいね?」
瞬間、ルシリアの姿が消えた。否、技術的な気配の抹消と魔術の併用だろう、だが実体としては有るだろうと推測を立てる
アケムは目を閉じた、第六、第七の感覚を研ぎ澄ます、 空気が、薄く裂ける。
ほとんど音は無かった。ただ僅かに、首筋へ冷たいものが触れる気配だけが走る。
アケムは反射的に身体を捻った、白い閃光みたいな何かが、頬のすぐ横を通過する。そして、背後の空間へ細い裂傷が刻まれている。
「ほぉ、今のを避けますか」
アケムは答えなかった。代わりに静かに呼吸を整える見えてはいない、だが、居る。
近い、すぐそこまで近づいて来ている。アケムは床を蹴った、直後、先ほどまでアケムが立っていた場所へ白い影が音もなく落ちる。
ルシリアだった。細い指の間へ、いつの間にか黒い針が挟まっている。
「正解」
彼女は楽しそうに笑う。
「今のは本命でした」
言葉と同時に針が消える、投擲だ。
アケムは咄嗟に腕を振る。金属音。針が床へ弾かれ、石材へ深々と突き刺さった。
「……毒?」
「はい。神経系です」
ルシリアは再び姿勢を沈める。アケムの感覚が、妙な違和感を捉える。反射的に振り向き、腕を振るう。
空中で何かが砕けた、透明化していた小型の刃物が、床へ散らばる、ルシリアが僅かに目を見開いた。
「……成程。視覚じゃなく、空間そのものから情報を得て動いていますね」
ルシリアの姿が、再び掻き消える。
直後、アケムの周囲で空気が軋んだ、方向展開から踏み込み、放った拳が、白い外套の残像を掠める。
「良い反応です」
声だけが右側から響いた。
次の瞬間、床へ細い糸みたいな光が走る。アケムは咄嗟に跳んだ。遅れて、先ほどまで立っていた場所が音もなく崩落する。
「……切れた」
「高周波術式糸です。人間くらいなら簡単に輪切りになりますよ」
穏やかな解説だった。
だがその最中にも、ルシリアの殺意だけは絶えず移動している。上、違う、横、それも囮、本当は、正面。
アケムは身体を沈めた。直後、首筋のすぐ上を黒い短刃が通過する。髪が数本、宙へ舞った。
アケムは反射的に刃を振るい伸びた腕を掴みにいく。だが、触れる直前でルシリアの姿勢が崩れるように沈み込んだ、人間離れした体捌きだった。流れるように懐へ潜り込まれる。
「おっと」
軽い声。同時に、アケムの脇腹へ白い指先が触れた、瞬間、全身へ嫌な痺れが走る。
「……ッ」
「感電毒です。象程度なら止まります。ですが、アケム少年は止まりませんね?」
今度はアケムから前へ出た、毒は既に全身へ回し分散する事で対応する。空気が弾ける。拳圧だけで周囲の砂塵が吹き飛び、ルシリアの黒髪が大きく揺れた。彼女の瞳が、初めて僅かに見開かれる。
「……予想以上ですね、素晴らしい」
ルシリアは床を滑るように後退しながら、細い指先で外套の裾を払った。その動作には一切の乱れが無い。しかし彼女の赤い瞳だけは、先ほどまでより明確な熱を帯び始めていた。
「良いですねぇ……本当に、面白い」
囁くような声と同時に、空間へ淡い魔術光が散る。次の瞬間、周囲の壁面から無数の白い線が伸びた。それは糸だった。
髪の毛ほどの細さしかないにも関わらず、空気へ触れただけで微かな焦げ臭さを残している。アケムは即座に身を沈めた。頭上を通過した糸、当たれば昨日の怪獣の腕も切れていたかもしれない。
昨日までのアケムなら、恐らく視認すら出来なかっただろう。しかし今の彼には、ルシリアの動きが攻撃が消えているのではなく、余分を削ぎ落としているのだと理解できた。
呼吸も、重心移動も、殺気すらも最小限へ圧縮されている、だからこそ恐ろしい、ルシリアの掌が、静かにアケムの喉元へ伸びる、触れれば終わる。
理由も分からぬまま、アケムの身体が先に動いた。床を踏み砕きながら半歩だけ踏み込み、相手の腕ではなく肩口へ拳を振り抜く。
「──ッ」
初めて、ルシリアの表情が変わった。
拳が触れる寸前、彼女は強引に身体を捻り、その衝撃を逃がしながら後方へ跳ぶ。しかし完全には殺し切れなかったらしい。白い外套の肩部分が裂け、その奥から白い肌が覗く。
宙へ舞った布片を見つめながら、ルシリアは数秒ほど沈黙した。やがて、彼女は小さく息を吐く。
「……驚きました。まさか、私へ真正面から威嚇として圧を掛けて来るとは」
その声音は、呆れと歓喜が半分ずつ混ざっていた。
アケムは何も答えない。ただ静かに呼吸を整えながら、ルシリアを見つめ返している、すると彼女は、不意に喉の奥で笑った。
「フフ……なるほど。アケム少年、アナタ──戦闘経験は何度か積んでいたのですね。恐らく研究所で」
「うん、沢山したよ、たくさん」
ルシリアは裂けた外套の肩口へちらりと視線を落とし、それからゆっくりと口元を吊り上げた。獲物を前にした肉食獣とも、未知の実験結果へ興奮する研究者とも違う、もっと純粋な愉悦がその瞳に滲んでいる。
「良いですねぇ……実に良い。アケム少年の様なタイプの人間は始めてかもしれません」
白い糸が空間へ淡く揺れながら消えていく中、彼女はゆっくりと歩き出す。先ほどまでの高速機動とは真逆の、散歩でもするみたいな自然な歩調だった。
だが、それでもアケムの感覚は警鐘を鳴らし続けている。近づいて来る。静かに危険が。
「アケム少年、今のアナタは未完成です。技術も甘いし、思考も直線的だ。ですが、その肉体だけは異常な速度で環境へ適応している」
ルシリアの声と同時に、彼女の指先から小さな黒球が転がった。瞬間、破裂音も無く白煙が広がる。視界が塗り潰されるより先に、アケムは身体を横へ滑らせた。直後、先ほどまで首があった位置を銀線が通過し、背後の壁面へ深い裂傷を刻む。
「しかも、経験を吸収する速度まで速い」
煙の奥から声だけが響く。アケムは呼吸を落としながら、空気の流れを読む。左上、そこではない。その更に奥。
刹那、音すら無くルシリアが、白い手袋を付け直した彼女の掌が、静かにアケムの胸元へ触れようとしている。
だが今度は、アケムの方が先だった。踏み込みと同時に肩をぶつけるように身体を捻り、真正面からルシリアの軌道を押し潰す。ルシリアの身体は軽くあえてアケムの動きに合わせる形で受け身を取り宙で回転しながら床に着地する。
「……最後と行きましょう、殺すつもりは有りませんが全力を殺意を込めます」
「じゃあ僕も全力で、迎え撃つよ」
「嬉しいです」
ルシリアが静かに息を吐くと同時に、周囲の空気が変質した。先ほどまで研ぎ澄まされた刃物のようだった殺気が、更に深い底へ沈み込み、逆に何も感じ取れなくなる。
だが、その無こそが危険だった。アケムの背筋へ、本能的な悪寒が走る。
分からない
アケムですら軌道を追い切れなかった。ただ、右側の空間が僅かに歪み、遅れて死の気配だけが迫る。アケムは反射だけで腕を振り上げた。金属音にも似た衝撃が炸裂し、白い手袋越しの指先と彼の腕が真正面から噛み合う。
「……ッ!」
床が陥没した。衝突だけで石材が砕け、衝撃波が白煙を吹き飛ばしていく。その中心で、ルシリアは至近距離から愉しそうに笑っていた。
「素晴らしい反応速度です。今ので首を落とすつもりだったのですが」
囁きと同時に、彼女の膝が音もなく跳ね上がる。アケムは咄嗟に身体を捻ったが、回避し切れず脇腹へ衝撃が突き刺さった。軽い一撃のはずなのに、巨獣に殴られたみたいに身体が吹き飛ぶ。
しかし空中で姿勢を立て直しながら、アケムは逆に床を蹴り返した。砕けた石片が爆ぜ、銀髪の少年が一直線に踏み込む。その速度に、今度はルシリアの瞳がわずかに細まる。
「成程、もう適応していますか」
アケムの蹴りが迫り、ルシリアの白い外套が大きく翻る。当たれば重傷は免れない一撃。そう理解しながらも、彼女は嬉しそうに愛くるしいものを眺める少女の様に口元を歪めていた。
観象連盟《オブザーバーズ》
都市パークアドラ内部に存在する、超常上位者達による緩やかな観測・交流組織。表向きには研究会、情報交換機関、あるいは異界文化保存団体を名乗る事もあるが、実態は暇を持て余した怪物達の社交場に近い。構成員には『星見』『狂賢』『盤楽王』『千里眼』『喜泣公』など、三字名以上の危険人物が多数所属しており、人類以外の存在も少なくない。