怪物になれなかった少年は人外魔境にて進化を続ける 作:プーリとベルト
ここ一日二日のアケムにとって「上を見る」ということは下層の錆びついた天蓋を見上げる行為と同義だった。しかし、違法転移ゲートの青白い光の渦を抜けた先で待っていたのは、網膜を焼き切るような圧倒的な白光だった。
「太陽の光は、やはり良いですねぇ……」
「うん。……なんだか、生き返るみたいだ」
今この場で二人の正体に気付く者はいない。
目の前の銀髪の少年と金髪の女性こそ、昨夜下層を震撼させた『鉄騎士』討伐者と『黒冠』殺しだなどと、誰も想像しないだろう。
二人が今立っているのは、パークアドラの
頭上を覆っていた無数の配管も、肺を灼く濁った化学煙も、視界を狂わせる毒々しいネオンもここにはない。代わりに広がっているのは、どこまでも高く、どこまでも突き抜けた本物の青空だ。洋上に位置するこの都市ならではの、わずかに潮の香りを孕んだ風が、白く整備された街路と高層建築の間を吹き抜けていく。
アケムは細めた目で、二日ぶりに見る中層の景色を眺めていた。研究所という無機質な檻を出て、彼が最初に世界の広さを知ったのは、他でもないこの中層だった。
「本当に、元気が湧いてきますねぇ」
隣でルシリアが気持ち良さそうに両腕を広げ、陽光を浴びていた。今の彼女は、最近の下層の住人を震え上がらせていた黒髪赤眼の殺人鬼ではない。
腰まで流れる見事な金髪に、秋の空のように澄み渡る碧眼。血塗れの白外套はどこへやら、上品な仕立ての旅装に身を包んだその姿は、前の妖しげな面影など微塵も感じさせなかった。
どこかの中層の金持ちか、あるいは
「バンディアさん、楽しそうだね」
「ええ。何しろ、随分と久しぶりですから」
「中層に来るのが?」
「いいえ。こうして──誰かと並んで、同じ景色を歩くのが、ですよ」
アケムは少しだけ目を瞬かせた。ルシリアは相変わらず、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべている。けれど、今こぼれ落ちた言葉だけは、彼女という底知れない異常者の内側から生じた、妙に純度の高い本音だった気がした。
「さあ、感傷はここまでです。アケム少年、まずは情報収集から始めましょうか」
本人は気恥ずかしさを誤魔化すように、軽やかに踵を返す。アケムはその背中に向かって、自身の胸の奥で最も大切に守ってきた、二つの名前を告げた。
「うん。……ルカ・キサラギと、ユイナ・キサラギ。その名前の兄妹を見つけたい。バンディアさん、頼めるかな?」
「ええ、もちろん。そして可能であれば、彼らを探す前に『美味しい昼食』と『安全な拠点』も探しますよ」
「昼食と、拠点?」
「ええ。探し人も大事ですが、人間は空腹と睡眠に抗ってはベストコンディションを保てませんので。それに……」
ルシリアは一度言葉を切り、中層の喧騒を見つめた。多種族、多文化、多企業が混在し、日常のすぐ裏側に違法改造犯や異界流入事件が転がっている人口密度最大のエリア。人々が慣れによって狂気と付き合うこの層は、下層ほど露骨ではないにせよ、十分に厄介な場所だ。
「アケム少年が美味しいと思えるものを食べておかないと、機嫌が悪くなって、また街を一つ壊してしまいかねませんからね?」
「そんなこと、したことないし、これからもしないよ」
「フフ、どうだか。では行きましょう」
ルシリアの楽しげな笑い声に導かれるように、二人はアドルタス商業区へと続く巨大な人波の中へと歩き出した。
中層の街路は活気に満ちていた。
通り沿いには洒落た飲食店や大型商業施設が立ち並び、買い物袋を抱えた人々が絶え間なく行き交っている。アケムは中層を一度目にした事はあるもののやはり見たこと無いものが多く物珍しそうに周囲を見回していたが、不意に一軒の店先で足を止めた。
ガラス越しに並ぶ料理の見本。その中から漂ってくる香ばしい匂いに、思わず視線が吸い寄せられてしまう。
「おや」
隣を歩いていたルシリアが、その反応を見逃すはずもなかった。
「早速、良さそうなお店を見つけましたねぇ」
悪戯を見つけた子供のような笑みを浮かべる。
「ですが、その前に──少々お客様のようです」
「お客様?」
アケムが首を傾げた瞬間だった。
賑やかな雑踏の向こうから、規則正しい足音が近付いてくる。
石畳を踏み鳴らす軍靴の音。人混みの喧騒に埋もれないほど統制されたそれは、一般人のものではなかった。
やがて人波が自然と左右へ割れ、その中心から数人の武装警官が姿を現す。
胸元には中層治安維持局の紋章。
腰には警棒と拘束具。
そして手には、下層のギャングが扱う粗悪な武器とは比較にならない高性能な武装が握られていた。
「──そこのお二人。少々足を止めていただこう」
先頭の警官が低い声で告げる。
「先ほど外縁部の廃棄区画において、異常な魔力反応および空間歪曲現象が観測された」
鋭い視線が二人へ向けられる。
「君たちはその方向から歩いて来たな。違法転移ゲート利用、あるいは下層からの不法流入の疑いがある。身分証の提示をお願いしたい」
周囲の空気が僅かに張り詰めた。
アケムは何となく状況を察し、指抜きグローブを嵌めた右手を僅かに動かす。
だが、その前に。
「あら……」
ルシリアが一歩前へ出た。
先ほどまでの飄々とした雰囲気は消え失せている。代わりにそこにいたのは、突然警察に呼び止められて戸惑う、ごく普通の旅行客だった。
「お巡りさん。私たちがそのような危険な犯罪者に見えますか?」
困惑したように胸元へ手を添える。声は柔らかく、表情は不安げに、けれど決して不自然ではない。
その全てが恐ろしく計算され尽くしていた。 ルシリアは懐から一枚の電子カードキーを取り出す。
中層有数の高級ホテルのロゴが刻まれた認証媒体。当然ながら、本物と区別が付かない水準で偽装された身分情報だった。
「私たちはアドルタス商業区へ買い物に来ただけなのですが……何か問題でも?」
碧眼を潤ませ、小さく首を傾げる、その姿はあまりにも無垢で、あまりにも善良で。
昨夜、王すら殺した異常者であることなど、誰一人として想像できないほどだった。警官たちの視線が僅かに揺らぐ。演技か、美貌か、あるいはその両方か。
ともあれ、彼らの警戒心は確かに薄れていた。
警官は受け取ったカードキーへ視線を落とし、その表面を流れる認証光を確認した。携帯端末へ接続された照合術式が静かに起動すると、周囲には数秒の沈黙が流れる。
アケムは何も言わず隣に立ちながら、その様子を眺めていた。しかしルシリアの横顔には微塵の緊張も見当たらない。むしろ昼食の店でも探しているかのような穏やかさすら漂っていた。
やがて端末が短く電子音を鳴らす。
「……認証情報に異常は確認出来ない」
警官の一人がそう報告すると、先頭の男は僅かに眉を寄せたものの、すぐに二人へ向き直って頭を下げた。
「失礼した。だが現在、この周辺では原因不明の空間異常が発生している。可能であれば近辺への立ち入りは控えてもらいたい」
「もちろんですわ。治安維持局の方々も大変なのですね」
ルシリアは柔らかく微笑みながら答える。その声音には相手を責める色も苛立ちもなく、むしろ職務へ理解を示す上流階級の女性らしい余裕が滲んでいた。
警官は軽く会釈すると、今度はアケムへ視線を向ける。
「そちらの少年は?」
「弟です」
間髪入れず返された言葉に、アケムは思わずルシリアを見た。しかし彼女は視線一つ寄越さない。
あまりにも自然だった。まるで本当にそういう関係であるかのように。
「弟さんか」
「ええ。少々人見知りが激しくて」
「え……そうなんだ?」
反射的に口を開いたアケムへ、ルシリアがちらりとだけ視線を向ける。その碧眼は微笑んでいたが、同時に「話を合わせてくださいね」と雄弁に語っていた。
「ほら、この子ったら旅先でも食べ物ばかり見てしまうのです」
「だって、お腹空いてたし」
本音に近い返答だったが、それがかえって自然だった。アケムは演技そのものは得意ではない。しかし周囲の空気や声色へ無意識に馴染む感覚を持っている。その結果、警官たちの表情からも僅かに緊張が抜けた。
「はは、それは仕方ありませんね」
「成長期ですから」
短い笑いが生まれるとともに張り詰めていた空気は少しだけ和らぎ、少なくとも彼らの目には、少し世間知らずな姉弟か親族同士の旅行者にしか映っていなかった。
警官たちは最後に周囲へ視線を巡らせると、「協力感謝する」とだけ告げて踵を返した。部下たちもそれに続き、人混みの中へ消えていく。
その背中が完全に見えなくなったところで、ルシリアは小さく息を吐いた。
「危ないところでしたねぇ」
「全然そんな風に見えなかったけど」
「フフ、演技ですので」
彼女は悪戯っぽく笑いながら肩を竦めたが、その直後には僅かに声の調子を落とした。
「身分証そのものは問題ありません。あれも偽造品ではありますが、少なくとも中層の警官程度では見破れない水準です」
「じゃあ何が危なかったの?」
「簡単な話ですよ」
ルシリアは通りの向こうへ視線を向けながら続ける。
「もしあの場に、私の特徴を詳細に知っている人間が一人でも居たなら面倒だったのです」
「そんなに有名なの?」
「有名というより悪名ですねぇ。殺人者という異端を生業としており、恨みを買うことも多いので」
本人は冗談のように言ったが、その内容は全く笑えなかった。
アケムが何とも言えない表情を浮かべていると、ルシリアは再び明るく手を叩く。
「さて、それはそれとして今は空腹の方が重大な問題です。アケム少年、先程見ていたお店ですが、なかなか評判が良さそうでしたよ」
「評判って分かるの?」
「店員の動き、客層、滞在時間、匂い、後は客同士の会話の空気ですね」
「僕も何時かは見分けられるかな」
「アケム少年なら十数件程飲食店を巡れば審美眼が養えるかと」
「そっか、積み重ねが大事なんだね……」
アケムがそう言って歩き出すと、ルシリアは楽しげにその後ろへ従った。
先ほどアケムが目を止めたのは、木目調の落ち着いた佇まいの洋食店だった。ガラス越しに見える店内は温かみのある光に満ち、来客たちが穏やかな笑顔で談笑しながら、白い湯気の立つ皿を囲んでいる。
店内に一歩足を踏み入れると、香ばしいバターと煮込まれた肉の甘い匂いが一気に鼻腔をくすぐる。
「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」
店員の丁寧な出迎えに、ルシリアは「ええ、窓際の席をいただけますかしら」と、すっかり上品な姉の顔で微笑んだ。案内された席に座り、二人は手渡されたメニュー表を眺める。
「アケム少年、何にするか決まりましたか?」
「……これ。この、オムライスとハンバーグのセットかな、パンが付いてるやつ」
「オムライスにハンバーグのトッピングですね。ふふ、やはり育ち盛りです。私はこちらのスープとサラダのセットにしましょう」
注文を終えてしばらくすると、運ばれてきた料理から立ち上る匂いにアケムは僅かに反応する。スプーンで卵を割ると、中からとろりとした中身と、肉汁が溢れ出す。
「いただきます」
一口、口に運んだ瞬間、濃厚な旨味と優しい甘さが一気に広がった。アケムの表情が目に見えて和らぐのを見て、ルシリアは満足そうに目を細める。
「お気に召したようで何よりです」
「うん、すごく美味しい。……ルカとユイナにも、食べさせてあげたいな」
もぐもぐと口を動かしながら呟いたアケムの言葉に、ルシリアはハーブティーのカップを傾けながら笑顔を見せる。
「さて……これからの予定ですが」
ルシリアはカップを静かに置きながらそう切り出した。
「まずは拠点の確保。そして情報収集です。幸い、中層には私の知り合いも何人か居ますので、ルカ・キサラギさんとユイナ・キサラギさんについて調べること自体は難しくありません」
「本当?」
「ええ。ただし時間は掛かります。人探しというのは案外地道な作業なのですよ」
アケムは少しだけ肩を落としたが、それでも頷いた、会える可能性があるだけで十分だった。
その時だった店内の大型情報端末から、軽快な電子音が流れた。
『速報です。昨夜未明、下層血冠城周辺にて発生した大規模災害について──』
アケムとルシリアは同時に視線を向ける。画面には崩壊した城郭の映像と共に、無数の調査員が行き交う様子が映し出されていた。
『なお現在、現場付近から複数の未確認人物の目撃情報が寄せられており──』
ルシリアは静かに目を細めた。
「早いですねぇ」
「僕たちのことだよね」
「さて、どうでしょう」
画面が切り替わる。崩壊した血冠城を背に映像が映し出された。
『なお、現場周辺では複数の人物が目撃されております』
そこに映ったのは、一人の銀髪の少年だった。
だが映像は酷く不鮮明だった。
輪郭は揺らぎ、顔立ちは判然としない。まるで映像そのものが彼の存在を正しく捉えられていないかのように、少年の姿だけが朧げに滲んでいる。
『こちらは回収された監視映像の一部です』
店内の客たちが興味深そうに画面を見上げる。
しかし誰一人として、その少年が今まさに同じ店内でオムライスを頬張っているとは気付かなかった。アケムはスプーンを止め、静かに呟いた。
「……僕だ」
「ええ、間違いなくアケム少年ですね。しかしここまで乱れてるのは恐らくアケム少年の体質のせいでしょうか。前に身体検査を求めた時、許可を取っていて良かったです」
ルシリアは愉快そうに目を細めた。
『現在、治安維持局では身元の特定を進めていますが──』
そこで映像が途切れる。アケムは残っていたオムライスを口へ運びながら、小さく呟いた。
「見つかるかな」
「さて、どうでしょうねぇ」
少年は探し人を求めて、殺人鬼は退屈を紛らわせるために。二人は中層の雑踏へと足を踏み入れた。だが運命というものは、往々にして人の都合など考えない。
彼らがルカとユイナへ辿り着くよりも先に。
新たな事件の方が、彼らを見つけてしまうのだから。
プロフィール
ナハセカ観光区
パークアドラ中層に存在する大規模観光区画の一つ。居住区としての機能は限定的で、街並みの大半をホテル、旅館、娯楽施設、商業モールが占めている。海上都市特有の景観を活かした展望施設や水族館、水上庭園なども多く、外から訪れた旅行者が最初に足を踏み入れる区域として知られている。
一方で、その華やかな表層の裏側には複雑な事情も存在し外縁部に位置する一部の安価な宿泊施設では身元確認が極めて杜撰であり、下層からの密入者や指名手配犯、企業犯罪者の潜伏先として利用されることも少なくない。観光客の多さから人の流れに紛れやすく、治安維持局による摘発も後を絶たない。