伊集院レイは、伝説の木の下で少女になる   作:エーアイ

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新作になります。
初稿の1人称から3人称に変更しています。


伊集院レイは、秘密を強要する

 体育の授業が終わった後の校舎は、いつも少しだけ騒がしい。

 

 グラウンドから戻ってきた男子たちの声。

 体育館の方から聞こえるボールの跳ねる音。

 汗を拭きながら次の授業のことを話す生徒たち。

 誰かが購買のパンの話をして、誰かが小テストの存在を思い出して悲鳴を上げる。

 

 きらめき高校の日常だった。

 

 高瀬悠人も、その中にいた。

 

 体育着から制服に着替え、次の授業の教科書を取りに教室へ戻ろうとしていた。

 だが、下駄箱近くで友人に声をかけられ、少しだけ足を止めた。

 

 「なあ、悪い。体育館裏に置いてきたタオル、見なかった?」

 

 「タオル?」

 

 「白いやつ。名前書いてある」

 

 「知らないけど……どこに置いたんだよ」

 

 「たぶん、外の水道の近く」

 

 「それ、もう誰か持っていったんじゃないか?」

 

 「頼む、ちょっと見てきてくれない? 俺、次の授業の準備まだなんだよ」

 

 「いや、俺もなんだけど」

 

 そう言いながらも、結局、悠人は引き受けていた。

 

 こういう時、強く断れないところがある。

 別にお人好しというほどではない。

 ただ、目の前で困った顔をされると、まあいいか、と思ってしまうだけだ。

 

 廊下を抜け、体育館の横を通る。

 

 体育の授業が終わったばかりだから、周囲にはまだ生徒の気配が残っていた。

 だが、少し奥へ入ると急に静かになる。

 

 水道の近くを探す。

 ベンチの下。

 フェンスのそば。

 体育館裏の壁際。

 

 「あった」

 

 白いタオルが、植え込みの横に落ちていた。

 泥は少しついていたが、名前もある。間違いない。

 

 悠人はタオルを拾い上げ、軽く払った。

 

 そのまま戻ろうとして、ふと近道を思い出した。

 

 体育館裏から校舎へ戻るには、通常なら来た道を戻る。

 でも、奥の通路を抜ければ、特別教室棟の横に出られる。

 そこからなら教室まで少し近い。

 

 普段はあまり使わない道だった。

 

 理由は単純で、時々、伊集院レイがそこを使っているからだ。

 

 伊集院レイ。

 

 きらめき高校で、その名前を知らない者はいない。

 

 成績優秀。

 容姿端麗。

 家柄も申し分ない。

 女子からは憧れられ、男子からは少し煙たがられる存在。

 

 伊集院家の御曹司。

 

 そんな言葉が、彼にはよく似合っていた。

 

 実際、伊集院の周囲にはいつも人がいた。

 特に女子の人気はすごい。廊下を歩くだけで視線が集まる。

 本人はそれを当然のように受け流しているが、あれを自然にできるのは相当なものだと悠人は思っていた。

 

 ただ、伊集院には妙なところもあった。

 

 体育の後、いつも決まった区域に人を近づけない。

 

 特別教室棟の奥にある、小さな更衣室のような部屋。

 本来は用具置き場として使われていたらしいが、今はほとんど使われていない場所だ。

 

 なぜかそこだけ、体育の後になると立ち入り禁止になる。

 

 「伊集院様が使用されますので」

 

 と、彼の取り巻きらしき生徒が言うこともあれば、教師から「そこは使うな」と言われることもあった。

 

 正直、面倒なやつだと悠人は思っていた。

 

 男子更衣室を使えばいいだろうに。

 わざわざ特別扱いされるあたりが、いかにも伊集院らしい。

 

 そう思っていた。

 

 その日も、たぶん同じだったのだろう。

 

 ただ、悠人はそれを忘れていた。

 

 本当に、ただ忘れていただけだった。

 

 タオルを片手に、奥の通路へ入る。

 

 誰もいない。

 

 そう思った。

 

 いや、実際、入口に人はいなかった。

 普段なら誰かが立っていることもあるのに、その日はたまたま見張りのような生徒がいなかった。

 

 だから悠人は、何も考えずに通路を進んだ。

 

 特別教室棟の裏側は、昼間でも少し薄暗い。

 校舎の影になっていて、風も通りにくい。

 壁に沿って歩くと、奥の部屋の扉が少し開いているのが見えた。

 

 その時点で、引き返せばよかった。

 

 でも悠人は、そこが伊集院の使っている部屋だということに、まだ気づいていなかった。

 

 扉の前を通り過ぎようとした時、中から物音がした。

 

 衣擦れの音。

 

 人の気配。

 

 「あれ?」

 

 思わず足を止めた。

 

 誰かいるのか。

 

 そう思った瞬間、半開きの扉の向こうで、白いシャツの袖が揺れた。

 

 そして――悠人は見てしまった。

 

 伊集院レイがいた。

 

 いつもの制服ではない。

 体育着から着替えている途中らしく、上着はまだ羽織られていない。

 

 細い肩。

 華奢な背中。

 いつもの伊集院からは想像できないほど、やわらかい線。

 

 そこで、悠人の頭が止まった。

 

 見てはいけないものを見た。

 

 それはわかった。

 

 けれど、理解が追いつかなかった。

 

 伊集院レイが、そこにいた。

 

 でも、そこにいたのは、悠人が知っている“伊集院くん”ではなかった。

 

 男では、なかった。

 

 彼は――いや。

 

 彼女は、女性だった。

 

 「……え」

 

 声が漏れた。

 

 ほんの小さな声だった。

 

 けれど、その声は静かな通路では十分すぎるほど大きかった。

 

 中の伊集院が、弾かれたように振り返った。

 

 目が合う。

 

 その瞬間、時間が止まった気がした。

 

 伊集院の顔から、血の気が引いていくのがわかった。

 

 いつもの余裕。

 いつもの気品。

 誰も寄せつけない微笑。

 

 それらが、一瞬で消えた。

 

 そこにいたのは、きらめき高校の伊集院レイではなかった。

 

 秘密を見られた、一人の少女だった。

 

 「……っ!」

 

 伊集院は、すぐに制服の上着を掴んで身体を隠した。

 

 悠人はようやく、自分が何をしているのか理解した。

 

 「ご、ごめん!」

 

 反射的に背を向ける。

 

 心臓が変な音を立てていた。

 

 何を見た。

 自分は今、何を見た。

 

 伊集院が、女?

 

 いや、違う。

 違わない。

 

 見間違いではない。

 

 でも、そんなことがあるのか。

 

 伊集院レイは、男として学校に通っている。

 女子たちから憧れられている。

 男子更衣室には来ないが、それは伊集院家の特別扱いだと思っていた。

 

 でも、そうじゃなかった。

 

 あれは、隠していたからだ。

 

 「……入れ」

 

 背後から声がした。

 

 低く、冷たい声だった。

 

 いつもの伊集院の声。

 だが、わずかに震えていた。

 

 「いや、俺、戻る。今のは本当に――」

 

 「入れと言った」

 

 その声に、悠人の足が止まった。

 

 振り返っていいのか迷った。

 

 「振り返るな。そのまま入れ。扉を閉めろ」

 

 命令だった。

 

 いつものような、誰も逆らえない響き。

 

 悠人は言われた通り、視線を逸らしたまま部屋へ入り、背後の扉を閉めた。

 

 気まずい沈黙が落ちる。

 

 衣擦れの音が聞こえた。

 伊集院が制服を整えているのだろう。

 

 悠人は壁の一点を見つめたまま、息を詰めていた。

 

 「……もういい。振り返れ」

 

 恐る恐る振り返る。

 

 伊集院は、すでに制服を着ていた。

 

 いつもの制服。

 いつもの立ち姿。

 いつもの、きらめき高校の伊集院レイ。

 

 けれど悠人には、もう同じには見えなかった。

 

 さっき一瞬見えたものが、頭から離れない。

 

 伊集院は、悠人をまっすぐに見ていた。

 

 鋭い目だった。

 

 「君は、今、何を見た」

 

 「……」

 

 答えられなかった。

 

 何を見た、と言われても。

 

 見たものをそのまま言えば、彼女を傷つける気がした。

 かといって、何も見ていないと言うのは明らかに嘘だった。

 

 黙っていると、伊集院の目が細くなった。

 

 「答えろ」

 

 「……伊集院が、着替えているところを見た」

 

 「それだけか」

 

 「……」

 

 「それだけか、と聞いている」

 

 声は冷たい。

 けれど、悠人は気づいてしまった。

 

 伊集院の指が、わずかに震えている。

 

 強がっている。

 

 いや、強がるしかないのだろう。

 

 秘密を見られた。

 それも、絶対に知られてはいけない秘密を。

 

 今、この場で一番怖いのは伊集院のはずだった。

 

 そう思うと、悠人は下手な言い訳ができなくなった。

 

 「……伊集院が、女だってことを知った」

 

 言った瞬間、部屋の空気がさらに冷えた。

 

 伊集院は表情を変えなかった。

 

 だが、目だけが少し揺れた。

 

 「そうか」

 

 短く言う。

 

 その声は、驚くほど静かだった。

 

 静かすぎて、逆に怖かった。

 

 「ならば、話は早い」

 

 伊集院は一歩近づいた。

 

 「今見たことは、忘れろ」

 

 「忘れろって……」

 

 「忘れられないなら、記憶に鍵をかけろ。誰にも言うな。友人にも、教師にも、家族にもだ」

 

 「言わないよ」

 

 反射的にそう答えた。

 

 伊集院の眉がわずかに動く。

 

 「ずいぶん即答するな」

 

 「いや、言うわけないだろ。こんなの、俺が面白半分で話していいことじゃない」

 

 自分で言ってから、悠人は少し驚いた。

 

 まだ混乱していた。

 正直、頭の中はぐちゃぐちゃだった。

 

 なぜ伊集院が女なのか。

 どうして男として学校にいるのか。

 伊集院家は何を考えているのか。

 教師は知っているのか。

 

 聞きたいことはいくらでもあった。

 

 でも、それより先にわかったことがある。

 

 これは、自分が軽く扱っていい秘密ではない。

 

 それだけは、はっきりしていた。

 

 伊集院は悠人を見ていた。

 

 疑うように。

 測るように。

 値踏みするように。

 

 「信じられると思うか?」

 

 「思わない」

 

 悠人は正直に答えた。

 

 「昨日までただの同級生だったやつに、いきなり秘密を知られて、言わないって言われても信用できるわけないだろ」

 

 伊集院は少しだけ目を見開いた。

 

 「ならばなぜ、そう答える」

 

 「言わないって決めたから」

 

 「決めた?」

 

 「うん。俺が言うべきことじゃないと思った」

 

 自分でも、うまく説明できなかった。

 

 ただ、本当にそう思った。

 

 これは伊集院の秘密だ。

 伊集院が隠してきたものだ。

 

 悠人が勝手に覗いてしまった。

 だったら、せめてこれ以上傷を広げるようなことはするべきじゃない。

 

 伊集院はしばらく黙っていた。

 

 それから、薄く笑った。

 

 いつもの伊集院の笑みだった。

 

 余裕があるようで、人を見下すようで、隙のない笑み。

 

 けれど、さっきより少し無理をしているように見えた。

 

 「君の善意に期待するほど、私は愚かではない」

 

 「だろうな」

 

 「だから、念のために言っておく」

 

 伊集院の声が低くなった。

 

 「もし、このことを誰かに漏らしたら――君をこの学校から退学させる」

 

 「……退学?」

 

 「ああ」

 

 伊集院は、はっきりと言った。

 

 「伊集院家にとって、それは難しいことではない。君の些細な失言、行動、成績、生活態度。探せば材料はいくらでも作れる。教師も学校も、伊集院家と事を荒立てたいとは思わないだろう」

 

 冗談には聞こえなかった。

 

 脅しだった。

 

 露骨で、冷たくて、容赦のない脅し。

 

 でも、不思議と腹は立たなかった。

 

 いや、少しは立った。

 退学させるぞ、なんて言われて平気なわけがない。

 

 でも、それ以上に、伊集院がそこまで言わなければならないほど追い詰められているのだと、悠人は感じてしまった。

 

 「わかった」

 

 「……ずいぶん素直だな」

 

 「退学は困るし」

 

 「それだけか?」

 

 「それだけじゃないけど」

 

 悠人は少し迷ってから言った。

 

 「言わないって言っただろ。脅さなくても言わない」

 

 伊集院の表情が、一瞬だけ崩れた。

 

 本当に一瞬だった。

 

 すぐに元に戻ったが、悠人は見逃さなかった。

 

 彼女は、安心しかけたのだ。

 

 たぶん。

 

 それを認めたくなくて、すぐに伊集院レイの顔に戻った。

 

 「勘違いするな」

 

 「何を?」

 

 「私は君を信用したわけではない」

 

 「わかってる」

 

 「君は私の秘密を知った危険人物だ」

 

 「危険人物って……俺が悪いのか?」

 

 「立ち入り禁止の場所に入っただろう」

 

 「知らなかったんだよ」

 

 「知らなかったで済むなら、校則はいらない」

 

 「それはそうだけど」

 

 「それに、見た」

 

 「……それは本当に悪かった」

 

 そこは謝るしかなかった。

 

 伊集院はじっと悠人を見ていた。

 

 怒っている。

 当然だ。

 

 だが、その奥に別の感情も見えた気がした。

 

 恐怖。

 不安。

 それを隠すための威圧。

 

 学校中が知っている伊集院レイが、こんな顔をするのかと思った。

 

 悠人は、少しだけ視線を落とした。

 

 「伊集院」

 

 「何だ」

 

 「本当に、誰にも言わない」

 

 「……」

 

 「信じろとは言わないけど。少なくとも、俺はこれを誰かに話して笑うようなことはしない」

 

 伊集院は黙ったままだった。

 

 部屋の外から、遠くチャイムの予鈴が聞こえた。

 

 次の授業が始まる。

 

 悠人ははっとした。

 

 「やばい、授業――」

 

 「待て」

 

 伊集院が言った。

 

 悠人の足が止まる。

 

 「今後、君の行動は私が監視する」

 

 「は?」

 

 「当然だ。秘密を知った以上、君を野放しにはできない」

 

 「監視って、具体的に?」

 

 「必要があれば呼び出す。質問する。行動を確認する。君には協力する義務がある」

 

 「義務って……」

 

 「拒否権はない」

 

 伊集院は、当然のように言った。

 

 強引すぎる。

 理不尽すぎる。

 

 でも、なぜかその言い方に少しだけ違和感があった。

 

 呼び出す。

 質問する。

 確認する。

 

 まるで、自分の不安を消すために、悠人を近くに置こうとしているみたいだった。

 

 「それ、監視っていうより……」

 

 「何だ」

 

 「いや、何でもない」

 

 言ったら怒られる気がしたので、やめた。

 

 伊集院は悠人を睨んだ。

 

 「今日のことは、忘れろ」

 

 「無理だろ」

 

 「ならば、忘れたふりをしろ」

 

 「……わかった」

 

 「私に対する態度も変えるな。学校では今まで通りに接しろ」

 

 「今まで通りって、俺たちそんなに話したことないけど」

 

 「ならば、話しかけるな」

 

 「難しい注文だな」

 

 「余計な口を利くな」

 

 いつもの伊集院の口調だった。

 

 だが、少しだけ戻ってきたその調子に、悠人はなぜか安心してしまった。

 

 少なくとも、さっきの真っ青な顔よりはずっといい。

 

 「最後にもう一度だけ言う」

 

 伊集院は、まっすぐ悠人を見た。

 

 「この秘密を漏らせば、君の高校生活は終わる」

 

 「……わかってる」

 

 「そして、私の高校生活も終わる」

 

 その一言だけ、声が少し違った。

 

 脅しではなかった。

 

 本音に近いものだった。

 

 悠人は何も言えなかった。

 

 伊集院はすぐに視線を逸らした。

 

 「行け」

 

 「伊集院は?」

 

 「少し遅れて行く。君と一緒に出る理由がない」

 

 「……わかった」

 

 悠人は扉に手をかけた。

 

 その時、背後から声がした。

 

 「君」

 

 「何?」

 

 「名前は」

 

 「え?」

 

 「君の名前だ。知ってはいるが、確認しておく」

 

 「高瀬。高瀬悠人だ」

 

 悠人は自分の名前を言った。

 

 伊集院は、それを一度だけ口の中で転がすように繰り返した。

 

 それから、ふっと冷たく笑った。

 

 「覚えておこう。私の秘密保持者として」

 

 「その呼び方、やめてくれないか」

 

 「嫌なら秘密を知らなければよかったな」

 

 「それは本当にそう」

 

 伊集院は少しだけ目を細めた。

 

 ほんの少し。

 

 怒っているのか、呆れているのか、わからない顔だった。

 

 悠人は扉を開け、通路へ出た。

 

 外の空気が、やけに普通だった。

 

 昼休み後の校舎。

 遠くから聞こえる生徒の声。

 廊下を急ぐ足音。

 いつものきらめき高校。

 

 何も変わっていない。

 

 でも悠人だけが、変な場所に迷い込んだような気分だった。

 

 伊集院レイは、女だった。

 

 学校中が憧れる伊集院くんは、本当は少女だった。

 

 そして悠人は、その秘密を知ってしまった。

 

 誰にも言えない。

 

 言うつもりもない。

 

 けれど、知らなかった頃には戻れない。

 

 次の授業に向かいながら、悠人はふと振り返った。

 

 特別教室棟の奥。

 伊集院がいる部屋。

 

 扉はもう閉まっていた。

 

 その向こうにいるのは、きらめき高校の伊集院レイなのか。

 それとも、さっき一瞬だけ見えた、秘密を見られて青ざめた少女なのか。

 

 悠人には、まだわからなかった。

 

 ただ一つだけ、わかったことがある。

 

 悠人の高校生活は、今日から少し面倒なことになった。

 

 それも、伊集院レイという、学校で一番面倒そうな相手によって。

 

 そして、たぶん。

 

 彼女の高校生活もまた、今日から少しだけ変わってしまったのだ。

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