夏祭りの前日。
高瀬悠人の家の固定電話が鳴った。
夕食後、悠人が自室へ戻ろうとしたところで、母親の声が聞こえた。
「悠人、電話よ」
「誰から?」
聞く前から、なんとなく予想はついていた。
母親は少し不思議そうに言う。
「伊集院さん」
やっぱり、と思った。
悠人は階段を降り、受話器を取った。
「もしもし」
受話器の向こうから、聞き慣れた声がした。
「高瀬か」
「今度は何の確認だ?」
最近は、こちらも少し慣れてきた。
伊集院から連絡が来る時は、だいたい何かしらの「確認」が発生する。
それが本当に確認なのかどうかは、もう別の問題だった。
伊集院は当然のように言った。
「夏祭りだ」
「……確認?」
「人混みにおける秘密保持対応の確認だ」
「それ、本気で言ってるのか?」
「当然だ」
電話越しの声は、いつも通り冷静だった。
けれど、その理屈は、悠人からすればかなり苦しい。
図書館で夏祭りの雑誌を見ていた。
駅前のポスターも見ていた。
高瀬が「行ってみるか」と言った時、彼女は「必要があれば、検討する」と答えた。
そして今、わざわざ固定電話で呼び出している。
それでも伊集院は、あくまで確認だと言い張るらしい。
「で、どこに行けばいいんだ?」
「明日、夕方六時。神社へ向かう坂道の下に来い」
「駅前じゃないんだな」
「駅前は人が多い。合流地点として不適切だ」
「祭り会場も人が多いと思うけど」
「だから確認する」
「便利だな、その言葉」
「遅れるな」
「はいはい」
「返事は一回でいい」
「はい」
電話はそこで切れた。
悠人は受話器を置き、しばらくその場に立っていた。
母親が台所から顔を出す。
「また伊集院さん?」
「うん」
「夏休みにも学校の用事?」
「……まあ、そんな感じ」
嘘ではない。
少なくとも、伊集院本人はそう主張している。
悠人は自室へ戻りながら、明日の夏祭りのことを考えた。
確認。
人混みにおける秘密保持対応。
言葉だけならそれらしい。
けれど、あの伊集院が本当にそれだけのために夏祭りへ行くのか。
悠人には、もう少し違う理由があるように思えた。
もちろん、それを本人に言えば、即座に否定されるだろう。
翌日。
神社へ向かう坂道の下には、すでに提灯の明かりが見えていた。
商店街の入り口から神社までの道に、屋台が並んでいる。
焼きそばの匂い。
たこ焼きの湯気。
子どもたちの声。
浴衣姿の人たち。
金魚すくいの水音。
遠くで聞こえる太鼓の音。
夏祭りらしい賑わいだった。
悠人は待ち合わせ場所へ向かった。
そこに、伊集院が立っていた。
浴衣ではない。
薄い色のシャツに、落ち着いた紺のカーディガン。
動きやすそうなキュロット。
小さめのバッグ。
髪はいつもより少しだけ柔らかく整えられている。
夏休み2日目に会った時より、さらに少しだけ柔らかい印象だった。
けれど、完全に少女らしいわけではない。
中性的で、控えめで、伊集院らしい距離感はまだ残っている。
それでも、悠人にはわかった。
伊集院は、少しずつ変わってきている。
学校での伊集院くんとは違う。
でも、無理に隠れている感じでもない。
伊集院は悠人を見るなり言った。
「遅い」
「時間ぴったりだ」
「私より後に来た」
「祭りでもそれなんだな」
「当然だ」
いつものやり取りだった。
悠人は彼女の服装を見た。
「私服、前と少し違うな」
伊集院の目がわずかに細くなる。
「夏祭りという環境に合わせただけだ」
「つまり楽しむ気はあるんだな」
「確認に適した服装という意味だ」
「そういうことにしておく」
「その言い方はやめろ」
伊集院はいつも通り平然としているふりをしていた。
だが、悠人には少しだけわかった。
彼女は緊張している。
図書館や喫茶店とは違う。
夏祭りには人が多い。
同じ学校の生徒がいるかもしれない。
伊集院に憧れている女子たちが、偶然近くにいるかもしれない。
ここでは、誰かに見られる危険がある。
そして同時に、学校ではないこの場所で、伊集院くんではない彼女として歩ける時間でもある。
その両方があるから、伊集院は少し硬い。
「行くぞ」
伊集院が言った。
「確認開始か?」
「そうだ」
二人は商店街の入り口へ向かった。
屋台の明かりが近づくにつれて、人の流れが増えていく。
浴衣姿の女子。
子どもを連れた家族。
友人同士で騒ぐ男子。
カップルらしき二人組。
いつもの駅前よりも、人との距離が近い。
伊集院は平然と歩いているように見えた。
けれど、肩が少しだけ硬い。
人が近づくたびに、視線がわずかに動く。
悠人はそれに気づき、自然に道の端へ寄った。
「こっちの方が歩きやすい」
伊集院は一瞬だけ悠人を見た。
「……判断としては悪くない」
「褒めてる?」
「評価しているだけだ」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
そう言いながらも、伊集院はそのまま悠人の少し横を歩いた。
人通りの少ない端の方。
屋台の前を避けながら、二人はゆっくり進んだ。
伊集院は、興味がないような顔をしている。
しかし、目は動いていた。
金魚すくい。
りんご飴。
綿あめ。
たこ焼き。
ラムネ。
射的。
そのたびに、ほんの少しだけ視線が止まる。
悠人は気づいていたが、すぐには言わなかった。
言えば、伊集院はきっと「見ていない」と言う。
少し歩いたところで、射的の屋台があった。
小さな棚に景品が並び、子どもたちが楽しそうに銃を構えている。
伊集院の足が、ほんのわずかに遅くなった。
悠人は言った。
「こういうものに興味があるのか?」
「構造を確認しているだけだ」
「屋台の構造?」
「景品の配置と重心だ」
「そんな見方するやつ、初めて見た」
「観察は重要だ」
伊集院は真剣な顔で景品の棚を見ていた。
その顔があまりにも真面目なので、悠人は少し笑いそうになった。
「やってみるか?」
「必要があるのか?」
「確認だろ」
伊集院は一瞬だけ黙った。
最近、高瀬が伊集院の言葉を逆手に取ることが増えてきた。
そして伊集院は、それに対して以前ほど強く反発しなくなっている。
「……一度だけだ」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
伊集院は射的の銃を受け取ると、景品をじっと見た。
狙うのは小さな箱菓子だった。
銃を構える姿まで、妙に様になっている。
そして一発。
軽い音がして、弾が景品に当たった。
箱菓子が、あっさり棚から落ちた。
「うまいな」
悠人は素直に驚いた。
伊集院は当然のように銃を下ろした。
「当然だ」
「射的も確認済みなのか?」
「初めてだ」
「初めてでそれなのかよ」
「景品の重心と支点を見れば、狙う場所はわかる」
「祭りの射的でそんなこと考えてる人、他にいないと思う」
「君は考えなさすぎる」
「じゃあ俺もやってみる」
悠人も銃を受け取った。
景品に狙いをつける。
伊集院のように重心だの支点だのは考えない。
なんとなく真ん中を狙って撃つ。
弾は景品の横をかすめて、何も落とさなかった。
伊集院が静かに言った。
「下手だな」
「初めてなんだから仕方ないだろ」
「狙いが甘い」
「伊集院が上手すぎるんだよ」
「当然だ」
少しだけ得意げだった。
学校で見せる余裕とは違う。
何かに成功して、少しだけ嬉しそうな顔。
悠人はそれを見て、思わず言った。
「今、楽しそうだな」
伊集院の表情が固まる。
「楽しんでいない。確認している」
「射的を?」
「祭り全体をだ」
「理屈が大きくなったな」
「必要な確認だ」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
けれど、その声は本気で怒っているようには聞こえなかった。
射的の屋台を離れた後、二人はラムネの屋台へ向かった。
悠人が二本買い、一つを伊集院へ渡す。
伊集院は瓶を受け取った。
そして、一瞬だけ動きが止まった。
悠人は見逃さなかった。
「開け方、わかるか?」
「知っている」
「今、完全に迷ってただろ」
「構造を確認していただけだ」
「じゃあ確認結果は?」
「……少し待て」
悠人は笑いそうになりながら、ラムネの口に付いている玉押しを示した。
「これで押すんだよ」
「知っていると言った」
「じゃあやってみろよ」
伊集院は少し不満そうにしながら、慎重に押した。
ぽん、と軽い音がして、ビー玉が落ちる。
伊集院の目が一瞬だけ動いた。
「どうだ?」
「構造としては単純だ」
「感想が理科の実験みたいだな」
「事実だ」
伊集院はラムネを少し飲んだ。
炭酸に少しだけ目を細める。
「普通だ」
「気に入った時の普通だな」
「違う」
「もう一口飲んでるけど」
「確認が不十分だからだ」
「やっぱり便利だな、確認」
伊集院は答えなかった。
その横顔は、どこか少しだけ緩んでいた。
しばらく屋台を見て回っていると、悠人は遠くに見覚えのある制服姿ではない女子たちを見つけた。
夏休みなので私服だったが、顔に見覚えがある。
きらめき高校の女子生徒たちだ。
しかも、伊集院に憧れている生徒たちだったはずだ。
廊下で「伊集院様」と言っているのを何度か見たことがある。
彼女たちは楽しそうに屋台を見ていた。
まだこちらには気づいていない。
悠人は、すぐに伊集院の方を見た。
伊集院も少し遅れて気づいたようだった。
その表情が、ほんの一瞬だけ硬くなる。
その時、人混みが横から押し寄せた。
悠人は反射的に伊集院の手首を取った。
「こっち」
屋台の裏手へ続く、人の少ない側へ引く。
伊集院は驚いたように悠人を見た。
「高瀬」
「悪い。見られたらまずいと思って」
少し離れた場所まで移動してから、悠人は手を離した。
今さらながら、少しまずかったかもしれないと思った。
手首を取った。
それは、今までより少し踏み込んだ動きだった。
伊集院は自分の手首を見ていた。
ほんの一瞬。
それから、いつもの顔に戻る。
「……判断としては、悪くない」
「怒らないのか?」
「状況を考えれば、合理的だった」
「それならよかった」
「ただし、次からは事前に言え」
「人混みでそんな余裕ないだろ」
「努力しろ」
「無茶言うな」
伊集院は、それ以上何も言わなかった。
けれど、その手首を一度だけ反対の手で軽く触れた。
本当に一瞬だった。
悠人は気づいたが、何も言わなかった。
言えば、きっと伊集院はまた「余計な観察をするな」と言う。
二人は少し人混みから離れた場所で、しばらく歩いた。
祭りの中心から外れると、音が少し遠くなる。
提灯の明かりはまだ見える。
屋台の匂いも届く。
けれど、人の流れは少し落ち着いていた。
「今日は、確認として忙しいな」
悠人が言うと、伊集院は即座に答えた。
「有意義な確認だ」
「射的もラムネも?」
「含まれる」
「夏祭り、結構楽しんでるだろ」
「楽しんでいない」
「じゃあ何だ?」
「確認している」
「祭り全体を?」
「そうだ」
「便利だな」
「君は同じことを何度も言うな」
「伊集院も同じことを何度も言ってるだろ」
「確認は重要だ」
そのやり取りの途中で、伊集院の口元がわずかに緩んだ。
その笑顔は初めて喫茶店で見た笑顔より、少し自然だった。
ほんの一瞬、こぼれるような笑み。
悠人はそれを見て、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。
彼女は、少しずつ笑うようになっている。
学校の伊集院くんとしてではなく。
伊集院家の者としてでもなく。
ただ、今この場所で、目の前のことに少しだけ反応するように。
それは大きな変化のように思えた。
祭りの終わりが近づく頃、神社の境内の奥で小さな花火が上がるという放送が流れた。
大きな花火大会ではない。
祭りの締めに少しだけ上がる、小規模なものだ。
人々が境内の方へ向かう。
悠人と伊集院は、人混みから少し外れた石段の近くに立った。
そこなら、花火は少し遠いが見える。
人も多すぎない。
夜の空に、小さな光が上がった。
ぱん、と控えめな音がして、花が開く。
赤。
青。
白。
大きくはない。
だが、夏祭りの終わりにはちょうどいい花火だった。
二人は並んで、それを見ていた。
しばらくして、伊集院が言った。
「思ったより、人が多かった」
「確認としては?」
伊集院は少しだけ間を置いた。
「……有意義だった」
悠人は横顔を見た。
花火の光が、一瞬だけ伊集院の顔を照らす。
「楽しかったって言えばいいのに」
伊集院は即座に返した。
「確認として有意義だったと言っている」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
いつもの言葉。
けれど、どこか柔らかい。
否定はしている。
でも以前ほど強くはない。
悠人はそれ以上言わなかった。
伊集院も黙って花火を見ていた。
ほんの数分の花火だった。
最後に少し大きめの光が開き、拍手が起こる。
祭りの音が、また戻ってくる。
帰り道。
商店街の提灯はまだ明るかったが、人の流れは少しずつ駅の方へ向かっていた。
悠人と伊集院も、坂道をゆっくり下りていた。
屋台で取った小さな景品は、伊集院のバッグの中に入っている。
本人は「確認結果の一部だ」と言っていたが、捨てる気配はなかった。
悠人は何気なく言った。
「来年も、この祭りあるんだろうな」
伊集院の歩みが、ほんの少しだけ遅くなった。
「毎年開催されているようだからな」
「じゃあ、来年も確認できるな」
伊集院は黙った。
短い沈黙。
けれど、その沈黙ははっきりと意味を持っていた。
来年。
それは、今日だけの話ではない。
今だけの秘密でもない。
来年も、同じように夏が来る。
祭りがある。
提灯が灯る。
屋台が並ぶ。
花火が上がる。
その時も、二人で来るかもしれない。
そういう未来を、ほんの少しだけ含んだ言葉だった。
伊集院は前を向いたまま、ようやく答えた。
「……必要があればな」
「そういうことにしておく」
「その言い方はやめろ」
いつもの返し。
けれど悠人にはわかった。
伊集院は、否定しなかった。
来年という言葉を。
夏祭りを。
高瀬悠人と一緒にまた確認するかもしれない未来を。
坂道の下まで来ると、伊集院は足を止めた。
「今日はここでいい」
「送らなくていいのか?」
「不要だ」
「そうか」
「高瀬」
「何だ?」
「今日のことも、誰にも言うな」
「言わない」
「射的の件もだ」
「あれは言ってもいいだろ」
「不要な情報だ」
「うまかったのに」
「だから言う必要がない」
「ラムネの開け方に迷ってた件は?」
伊集院の目が鋭くなる。
「忘れろ」
「忘れたふりならできる」
「ならそうしろ」
悠人は笑った。
伊集院は少しだけ不満そうにしたが、本気で怒っているようではなかった。
「じゃあ、また必要があれば」
悠人が言うと、伊集院はわずかに視線を逸らした。
「必要があれば、連絡する」
「固定電話で?」
「他に合理的な手段がない」
「まあ、そうだな」
伊集院は背を向けた。
提灯の明かりが、彼女の横顔を一瞬だけ照らす。
浴衣ではない。
学校の制服でもない。
伊集院くんとしての姿でもない。
夏祭りの帰り道に、少しだけ楽しそうだった少女。
悠人はその背中を見送った。
今日のことも、伊集院は確認だと言うだろう。
人混みにおける秘密保持対応。
屋台周辺での行動確認。
知人遭遇時の回避判断。
長時間外出時の対応。
どれも理屈としては並べられる。
けれど、悠人にはもう、それだけではないことがわかっていた。
たぶん伊集院も、本当は少しだけわかっている。
それでも彼女は言う。
必要があれば。
確認のために。
来年も、きっと。
そう言い張るために。