伊集院レイは、伝説の木の下で少女になる   作:エーアイ

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幕間:伊集院レイは、来年を否定できない

 屋敷に戻ると、音が消えた。

 

 つい先ほどまで耳に残っていた太鼓の音も、屋台の呼び声も、子どもたちの笑い声も、提灯の下を行き交う人々のざわめきも、伊集院家の門をくぐった瞬間に遠くなった。

 

 広い庭。

 磨かれた玄関。

 静かな廊下。

 等間隔に置かれた花。

 必要以上の音を立てない使用人たち。

 

 ここには、夏祭りの熱気がない。

 

 焼きそばの匂いもない。

 ラムネの瓶が鳴る音もない。

 射的の軽い銃声もない。

 小さな花火を見上げる人々の歓声もない。

 

 ただ、整えられた静けさだけがあった。

 

 「お帰りなさいませ、レイ様」

 

 使用人が深く頭を下げる。

 

 レイは、いつものように答えた。

 

 「ああ」

 

 声は落ち着いていた。

 

 少なくとも、そう聞こえたはずだった。

 

 屋敷の中を歩く。

 

 夏祭りの人混みでは、肩が触れそうな距離で人がすれ違った。

 提灯の光が顔に落ち、屋台の灯りが視界の端で揺れていた。

 高瀬悠人が隣にいて、必要以上に近すぎず、けれど離れすぎず歩いていた。

 

 それに比べて、屋敷の廊下は広すぎる。

 

 静かすぎる。

 

 誰も近づきすぎない。

 誰も無遠慮に声をかけない。

 誰も、手首を取って人混みの端へ引いたりはしない。

 

 レイは自室へ入ると、扉を閉めた。

 

 部屋の中も、やはり静かだった。

 

 整った机。

 本棚。

 鏡。

 きちんと畳まれた衣服。

 乱れたものは何もない。

 

 その静けさの中で、今日の祭りの記憶だけが、まだ少し騒がしかった。

 

 レイは小さく息を吐き、バッグを机の上に置いた。

 

 中から、射的の景品を取り出す。

 

 小さな箱菓子だった。

 

 伊集院家の部屋には、まったく似合わない。

 

 高価なものではない。

 珍しいものでもない。

 おそらく、店で買えばいくらもしない。

 景品として並んでいたから取っただけのもの。

 

 それなのに、レイはしばらくそれを見つめていた。

 

 景品の配置。

 重心。

 支点。

 狙うべき場所。

 

 それらを確認しただけだ。

 

 射的という遊戯の構造を把握し、実際に景品を落とした。

 ただそれだけのことだ。

 

 「……当然だ」

 

 小さく呟く。

 

 初めてでも、落とせる。

 

 観察すれば、狙う場所はわかる。

 何も難しいことではない。

 

 そう考えたところで、高瀬の声が思い出された。

 

 ――うまいな。

 ――射的も確認済みなのか?

 ――初めてだ。

 ――初めてでそれなのかよ。

 

 驚いていた顔。

 

 少し呆れたようで、けれど素直に感心していた声。

 

 レイは、景品の箱を机に置いた。

 

 「大げさな反応をする」

 

 そう言った声は、自分でも少しだけ不機嫌に聞こえた。

 

 不機嫌になる理由などない。

 

 高瀬が下手だっただけだ。

 狙いが甘かった。

 重心を見ていなかった。

 腕も安定していなかった。

 あれでは当たるものも当たらない。

 

 ――下手だな。

 ――初めてなんだから仕方ないだろ。

 ――狙いが甘い。

 ――伊集院が上手すぎるんだよ。

 ――当然だ。

 

 そこまで思い出して、レイは眉を寄せた。

 

 なぜ、そんな会話を細かく覚えているのか。

 

 ただの確認だった。

 人混みにおける秘密保持対応の確認。

 屋台周辺での行動確認。

 不測の遭遇に対する回避行動の確認。

 

 射的も、ラムネも、その一部にすぎない。

 

 それだけだ。

 

 レイは自分にそう言い聞かせた。

 

 だが、次に思い出したのはラムネだった。

 

 瓶を渡された時、自分は少しだけ手を止めた。

 

 本当に少しだけだ。

 

 構造を確認していただけで、決して開け方に迷ったわけではない。

 

 にもかかわらず、高瀬はすぐに気づいた。

 

 ――開け方、わかるか?

 ――知っている。

 ――今、完全に迷ってただろ。

 ――構造を確認していただけだ。

 

 レイは、わずかに顔をしかめた。

 

 「迷ってなどいない」

 

 部屋には誰もいない。

 

 それなのに、言い訳のような声が出た。

 

 ラムネの瓶。

 

 ビー玉の音。

 

 炭酸の刺激。

 

 高瀬が少し笑いをこらえていた顔。

 

 あれも不愉快だった。

 

 いや、不愉快というほどではない。

 

 ただ、少しだけ調子が狂った。

 

 学校では、誰も伊集院レイにそんな顔を向けない。

 

 女子生徒たちは憧れを込めて見上げる。

 男子生徒たちは対抗心か反感を隠す。

 教師たちは伊集院家を意識する。

 

 高瀬悠人だけが、時々、まるで普通の同級生にでも向けるような顔をする。

 

 それが、扱いづらい。

 

 そして、完全に不快ではないことが、もっと扱いづらかった。

 

 レイは机の前に立ったまま、自分の手首に視線を落とした。

 

 そこに何かが残っているわけではない。

 

 赤くなっているわけでもない。

 痛みがあるわけでもない。

 痕があるわけでもない。

 

 それでも、あの瞬間の感触だけが、妙に残っている気がした。

 

 人混みが横から押し寄せた。

 遠くに、きらめき高校の女子生徒たちがいた。

 伊集院レイに憧れている者たち。

 もし近くで見られれば、何かに気づかれたかもしれない。

 

 その瞬間、高瀬が手首を取った。

 

 ――こっち。

 

 短い言葉。

 

 強すぎる力ではなかった。

 乱暴でもなかった。

 けれど、迷いはなかった。

 

 レイを人混みの端へ引き、屋台の裏手へ誘導した。

 

 判断としては正しかった。

 

 実際、あれは合理的な行動だった。

 

 自分でもそう言った。

 

 ――判断としては、悪くない。

 

 それ以上の意味はない。

 

 緊急時の誘導。

 秘密保持上必要な回避行動。

 不測の接触を避けるための処置。

 

 言葉にすれば、いくらでも説明できる。

 

 だが、説明できることと、思い出さずにいられることは別だった。

 

 レイは手首から視線を外した。

 

 「……合理的だっただけだ」

 

 そう呟く。

 

 けれど、その言葉も、どこか薄かった。

 

 高瀬は、あの時すぐに手を離した。

 

 必要な場所まで誘導した後、余計に触れ続けることはしなかった。

 謝った。

 見られたらまずいと思った、と言った。

 

 だから、怒る理由はなかった。

 

 怒る理由がなかったから、余計に困った。

 

 レイは椅子に座り、机の上の景品を見つめた。

 

 夏祭り。

 

 人が多かった。

 危険もあった。

 確認すべき事項は多かった。

 

 けれど。

 

 花火を見た時の静けさが、ふいに戻ってくる。

 

 神社の境内から少し離れた石段の近く。

 人混みから外れた場所。

 夜空に上がる小さな花火。

 

 大きな花火ではなかった。

 

 見事と言うほどのものでもない。

 伊集院家の庭で用意される催しの方が、規模だけならずっと立派だろう。

 

 それでも、あの花火の光は、妙に残っていた。

 

 高瀬が隣にいた。

 

 近すぎず、遠すぎず。

 

 花火を見上げる間、いつものような言い合いは少なかった。

 ただ、並んで見ていた。

 

 ――思ったより、人が多かった。

 ――確認としては?

 ――……有意義だった。

 ――楽しかったって言えばいいのに。

 ――確認として有意義だったと言っている。

 

 レイは、机の上に置いた指をわずかに握った。

 

 楽しかった。

 

 その言葉は、以前よりもはっきりと耳に残るようになっていた。

 

 最初の喫茶店の時は、認めること自体が不快だった。

 高瀬と過ごした時間を楽しかったなどと言うのは、あまりに不用意で、危険で、馬鹿げていた。

 

 今も、認めるつもりはない。

 

 しかし、完全に追い払うことも難しくなっている。

 

 高瀬といる時、自分は時々、伊集院くんではなくなる。

 

 命令はする。

 確認とも言う。

 必要だとも言い張る。

 

 けれど、その言葉の隙間から、何か別のものが出てしまう。

 

 喫茶店で笑った時のように。

 射的で少し得意になった時のように。

 ラムネで迷ったことを指摘されて不機嫌になった時のように。

 花火を並んで見た時のように。

 

 「確認として、有意義だった」

 

 レイはもう一度、そう言った。

 

 だが、その言葉は自分を完全には納得させてくれなかった。

 

 そして何より。

 

 帰り道の言葉が、まだ胸の奥に残っていた。

 

 ――来年も、この祭りあるんだろうな。

 ――毎年開催されているようだからな。

 ――じゃあ、来年も確認できるな。

 

 来年。

 

 その言葉を聞いた時、レイはすぐに否定できなかった。

 

 来年などない。

 必要ない。

 君と来る理由はない。

 確認など不要だ。

 

 そう言えばよかった。

 

 いつもの伊集院レイなら、そう言えたはずだった。

 

 それなのに、言えなかった。

 

 口から出たのは、別の言葉だった。

 

 ――必要があればな。

 

 逃げた言葉。

 

 否定でも肯定でもない。

 可能性を完全には閉じない言葉。

 

 なぜ、そう答えたのか。

 

 レイは、わからないふりをした。

 

 来年のことなど、今考える必要はない。

 

 まだ二年生の夏だ。

 来年の夏に、自分がどうしているかなどわからない。

 高瀬悠人がどうしているかもわからない。

 この秘密がどうなっているかもわからない。

 

 それなのに。

 

 ほんの一瞬、想像してしまった。

 

 来年も、提灯が灯る。

 同じ坂道を下りる。

 屋台が並ぶ。

 花火が上がる。

 高瀬が隣にいる。

 

 そして自分は、伊集院くんではない姿でそこに立っている。

 

 その想像が、あまりに自然に浮かんだことに、レイは動揺した。

 

 「馬鹿な」

 

 すぐに否定する。

 

 そんな予定はない。

 約束もしていない。

 必要があるかどうかもわからない。

 そもそも、来年の確認など今から考える必要がない。

 

 合理的ではない。

 

 伊集院レイらしくない。

 

 だが、否定しても、その景色は完全には消えなかった。

 

 夏祭りの帰り道。

 提灯の光。

 高瀬の声。

 来年、という言葉。

 

 それらが、屋敷の静かな部屋の中で、いつまでも小さく残っている。

 

 レイは机の上の景品に手を伸ばした。

 

 捨てるべきか。

 

 そう考えた。

 

 ただの祭りの景品だ。

 

 伊集院家の部屋には似合わない。

 飾るようなものでもない。

 残す理由もない。

 

 確認結果として保管する必要もない。

 

 なら、捨てればいい。

 

 レイは景品を持ち上げた。

 

 屑入れの方へ向かおうとして、足が止まった。

 

 指先の中にある小さな箱菓子。

 

 射的で落としただけのもの。

 高瀬が「うまいな」と言った時のもの。

 夏祭りの夜のもの。

 

 レイはしばらくそれを見つめた。

 

 それから、机の引き出しを開けた。

 

 そこには、以前しまった喫茶店のレシートがあった。

 

 紅茶。

 コーヒー。

 ケーキセット。

 

 あの日の紙切れ。

 

 捨てるつもりだった。

 意味などないはずだった。

 ただ、捨てるには少しだけ惜しかった。

 

 その横に、射的の景品をそっと置く。

 

 箱菓子は、引き出しの中でひどく場違いだった。

 

 けれど、レシートも同じだった。

 

 伊集院家の部屋にあるには、どちらも不釣り合いなもの。

 

 それでも、なぜかそこにある。

 

 レイは引き出しを閉めた。

 

 小さな音がした。

 

 来年など、まだわからない。

 

 必要があるかどうかも、今決めることではない。

 

 高瀬悠人とまた夏祭りに行く理由など、今のところ存在しない。

 

 そう考える。

 

 考えた上で、レイはもう一度、閉じた引き出しを見る。

 

 「必要があれば、だ」

 

 自分に言い聞かせるように呟いた。

 

 来年を約束したわけではない。

 

 否定しなかっただけだ。

 

 ただ、それだけだ。

 

 伊集院レイはそう結論づけた。

 

 けれど、引き出しの中には、喫茶店のレシートと夏祭りの小さな景品が、静かに並んでいた。

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