十二月に入ると、きらめき高校の空気は少しだけ浮き足立った。
期末試験の話。
冬休みの予定。
街に増えたイルミネーション。
そして、伊集院家のクリスマスパーティ。
それは、学校の中でも有名な行事だった。
誰でも参加できるわけではない。
けれど、毎年何人かの生徒が招かれる。
伊集院家の屋敷で開かれる、華やかなクリスマスパーティ。
女子生徒たちは、その話題でよく盛り上がっていた。
「今年も伊集院様のパーティ、あるんだよね」
「去年行った子、すごく綺麗だったって言ってた」
「一度でいいから参加してみたいな」
そんな声を、悠人は廊下で何度か聞いた。
伊集院家のクリスマスパーティ。
去年も、その噂は知っていた。
けれど悠人にとって、それは自分とは違う世界の話だった。
伊集院レイという、学校中の注目を集める存在。
その家で行われる華やかな行事。
選ばれた生徒たちが参加する特別な場。
自分が行く場所ではない。
去年の悠人は、そう思っていた。
だから参加しなかった。
そして今年。
悠人は、旧校舎三階の資料室に呼び出されていた。
十二月の資料室は冷えている。
窓の外は早くも薄暗く、夕方の光は弱かった。
机の上には、伊集院が用意した温かい缶コーヒーが一本置かれている。
最近では、それも珍しくなくなっていた。
もちろん伊集院は、差し入れなどとは絶対に言わない。
「寒さによる集中力低下を防ぐ対策だ」
と言う。
悠人は、その言葉の裏をもう少し読めるようになっていた。
「高瀬」
伊集院が言った。
「何だ?」
「去年のクリスマスパーティに、君は参加したのか」
悠人は少しだけ意外に思った。
「伊集院家の?」
「他に何がある」
「いや、参加してない」
伊集院は黙った。
ほんの少しの沈黙だった。
けれど、悠人にはそれがただの間ではないように感じられた。
「……そうか」
伊集院は短く言った。
表情は変わらない。
いつものように涼しい顔をしている。
だが、その沈黙が安心なのか、残念なのか、悠人にはわからなかった。
「気になるのか?」
「確認だ」
「去年俺がいたかどうかを?」
「今年の行動確認に関わる」
「本当に?」
「当然だ」
伊集院は迷いなく答えた。
だが、その理屈はかなり苦しかった。
最近の伊集院の「確認」は、だんだん範囲が広がっている。
夏休みの行動範囲。
夏祭りの人混み。
文化祭の校内動線。
駅前のクリスマス飾り。
そして今度は、去年のパーティ参加歴。
悠人は少しだけ笑いそうになった。
「で、今年は?」
「今年は参加しろ」
あまりにも自然な命令だった。
「……何で?」
「伊集院家の行事における君の行動を確認する必要がある」
「俺が行く必要あるのか?」
「ある」
「理由は?」
「私が必要と判断した」
「またそれか」
「不満か?」
「いや、伊集院らしいなと思って」
「余計な感想は不要だ」
伊集院は机の引き出しから一枚の封筒を取り出した。
白く上質な封筒だった。
悠人に差し出す。
「招待状だ」
「命令じゃなくて?」
「形式上は招待だ」
「形式上は、か」
「実質は確認だ」
「そこは曲げないんだな」
悠人は封筒を受け取った。
伊集院家の紋章が小さく入っている。
いかにも、自分の日常には縁のなさそうな封筒だった。
「服装は?」
「派手でなくていい。最低限、場に合うものを着てこい」
「難しいな」
「君の服装には過度な期待をしていない」
「ひどいな」
「事実だ」
伊集院は何でもない顔で言った。
けれど、少しだけ視線を逸らした。
「……遅れるな」
その声は、いつもの命令口調だった。
だが、悠人には少し違って聞こえた。
来い。
そう言っているようにも聞こえた。
クリスマスパーティ当日。
悠人は伊集院家の屋敷の前で、しばらく立ち止まっていた。
大きな門。
整えられた庭。
外からでもわかる明かり。
屋敷の窓から漏れる華やかな光。
正直、想像以上だった。
去年、参加しなかった理由を、悠人は少し思い出した。
ここは、自分が自然に立てる場所ではない。
そう感じたからだ。
実際、門の前には何人かの生徒がいて、少し緊張した顔で中へ入っていく。
女子生徒たちは華やかな服を着て、どこか期待したような表情をしていた。
悠人も招待状を見せ、屋敷の中へ入った。
会場は広かった。
高い天井。
きらめく照明。
壁際に並ぶ料理。
飾られた大きなクリスマスツリー。
上品に流れる音楽。
生徒だけではなく、教師や関係者らしき大人の姿もある。
伊集院家。
その言葉の重さが、会場そのものから伝わってくるようだった。
周囲の生徒たちは、どこか浮かれている。
「すごい……」
「本当に映画みたい」
「伊集院様、どこにいるんだろう」
そんな声が聞こえた。
悠人は会場の端に立ち、少しだけ居心地の悪さを覚えていた。
華やかすぎる。
自分がここにいることが、少し不自然に感じる。
だが同時に、去年とは違った。
今の悠人は、伊集院レイの秘密を知っている。
学校中が伊集院くんとして見ている彼が、本当は少女であることを知っている。
資料室で命令してくる伊集院を知っている。
夏祭りで射的をして少し得意げになった伊集院を知っている。
ラムネの開け方に迷って「構造を確認していただけだ」と言い張った伊集院を知っている。
だから、この華やかな会場の中心に立つ伊集院を、去年と同じようには見られない。
ざわめきが少し変わった。
人々の視線が、一方向へ向かう。
伊集院レイが現れた。
パーティ用の装いだった。
いつもの制服ではない。
けれど、男子として完璧に整えられた姿。
立ち姿、歩き方、微笑み方。
すべてが隙なく整っている。
女子生徒たちが息をのむ。
「伊集院様……」
誰かが小さく呟いた。
伊集院は、穏やかに微笑んでいた。
優雅で、落ち着いていて、華やかな会場の中心に立つことが当然であるかのように。
悠人はその姿を見て、少し息を止めた。
そこには、夏祭りの伊集院はいなかった。
射的で景品を落として、少しだけ得意げになっていた伊集院はいない。
喫茶店でケーキを自分で頼み、普通だと言いながら食べていた伊集院もいない。
資料室で缶コーヒーを置いて、「対策だ」と言い張っていた伊集院もいない。
ここにいるのは、完璧な伊集院くんだった。
けれど悠人は、もう知っていた。
あれだけが伊集院レイではない。
その奥に、別の顔があることを。
周囲では、伊集院についての声が聞こえてくる。
「やっぱり伊集院様って、違う世界の人だよね」
「将来は伊集院家を背負うんでしょう?」
「あれだけ完璧だと、近づくのも緊張するよ」
そういう言葉が、あちこちから自然に出ていた。
誰も悪気はない。
むしろ称賛している。
だが悠人には、その言葉が少し重く聞こえた。
伊集院は、ずっとこういう視線の中にいるのだ。
すごい人。
完璧な人。
違う世界の人。
伊集院家の人。
そう見られることを求められ、そう振る舞うことを当たり前にされている。
学校での伊集院くんは、ただ格好つけているわけではなかった。
この場所では、そうでなければならないのだ。
伊集院は会場を歩き、教師や関係者に挨拶をする。
女子生徒たちにも、穏やかに声をかける。
誰に対しても丁寧で、隙がない。
悠人は会場の少し離れた場所から、それを見ていた。
その時、伊集院と目が合った。
ほんの一瞬だった。
伊集院は完璧な笑みを浮かべたままだった。
だが、目だけが少し違った。
資料室で「確認だ」と言い張る時の目。
夏祭りで「必要があればな」と答えた時の目。
悠人だけが知っている、ほんの少し素に近い伊集院の目。
それは一瞬で消えた。
伊集院はすぐに別の相手へ視線を向ける。
けれど、悠人にはその一瞬で十分だった。
この華やかな会場の中にも、二人だけが知っているものが確かにあった。
パーティが終盤に差しかかった頃、悠人は使用人に声をかけられた。
「高瀬様でいらっしゃいますね」
「はい」
「レイ様がお庭でお待ちです」
庭。
悠人は少しだけ驚いたが、すぐに頷いた。
会場の外へ出ると、空気が一気に冷たくなった。
庭には控えめな明かりが灯されている。
屋敷の中の華やかな音楽や話し声が、少し遠くに聞こえた。
庭の奥、冬の木々のそばに伊集院が立っていた。
会場の中と同じ装い。
けれど、少しだけ肩の力が抜けているように見えた。
「遅い」
第一声はいつも通りだった。
悠人は少し笑った。
「呼ばれたばかりだ」
「私を待たせた」
「庭でもそれなんだな」
「当然だ」
伊集院は屋敷の方をちらりと見た。
「会場での行動確認は、おおむね問題なかった」
「確認されてたのか」
「当然だ」
「俺、何かしたか?」
「特に大きな失態はない」
「それはよかった」
「ただ、料理の前で少し挙動不審だった」
「場違い感がすごかったんだよ」
「慣れろ」
「無茶言うな」
伊集院は少しだけ目を細めた。
庭の冷たい空気の中では、会場での完璧な笑みが少し薄れているように見えた。
悠人は、ふと口にした。
「大変なんだな」
伊集院の視線がこちらへ向く。
「何がだ」
「伊集院くんってやつ」
伊集院はしばらく黙った。
それから、短く言った。
「慣れている」
「そうか」
「そうしなければならないだけだ」
その声は静かだった。
弱音ではない。
けれど、完全な強がりでもない。
悠人は会場の方を見た。
あの光の中で、伊集院はずっと完璧に振る舞っていた。
誰もが見たい伊集院くんとして。
「俺、去年は来てなくてよかったかもしれない」
悠人が言うと、伊集院は少しだけ眉を寄せた。
「なぜだ」
「去年の俺がここに来ても、たぶん伊集院のこと、ただすごいやつだと思って終わってた」
伊集院は何も言わなかった。
悠人は続けた。
「今は、少し違って見える」
庭に沈黙が落ちた。
屋敷の中から聞こえる音楽だけが、かすかに届く。
伊集院の表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。
驚きなのか。
戸惑いなのか。
あるいは、それ以外の何かなのか。
悠人にはわからなかった。
伊集院はすぐに視線を逸らした。
「君の観察力が、以前より多少改善しただけだ」
「褒めてる?」
「評価だ」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
いつものやり取り。
だが、伊集院の声は少しだけ落ち着かなかった。
それをごまかすように、彼女は小さな包みを差し出した。
「これを」
「何?」
「記念品だ」
「俺に?」
「参加者用のものが余った」
悠人は包みを受け取った。
細長い箱だった。
開けてもいいかと目で尋ねると、伊集院は軽く頷いた。
中には、上質なペンが入っていた。
派手ではない。
けれど、手に持つとしっかりした重みがある。
悠人は少し驚いた。
「これ、参加者用にしては良すぎないか?」
「余ったものだ」
「本当に?」
「確認協力への対価でもある」
「どっちなんだ」
「どちらでもいい」
伊集院は顔をそむけた。
「君の記憶力には不安がある。必要事項を記録するために使え」
「それ、俺のために選んだってことじゃないのか?」
「違う」
「違うのか」
「君の機能を補助するための道具だ」
「秘密保持者用装備みたいだな」
「そう解釈しても構わない」
悠人はペンを見た。
伊集院らしい言い訳だった。
でも、これを偶然の余りものだとは思えなかった。
ちゃんと選ばれている。
そう感じた。
悠人は少し迷ってから、自分の上着の内ポケットに手を入れた。
「じゃあ、俺からも」
伊集院の動きが止まった。
「何?」
「俺も一応、用意してきた」
「……君が?」
「そんなに意外か?」
「意外だ」
即答だった。
悠人は小さな包みを差し出した。
伊集院は、しばらくそれを見つめていた。
まるで、どう受け取ればいいのかわからないようだった。
「受け取らないのか?」
「……受け取る」
伊集院は包みを受け取った。
いつもより少しだけ慎重な手つきだった。
中を開ける。
そこには、栞が入っていた。
金属製ではなく、革と薄い金具を組み合わせた落ち着いたもの。
派手ではない。
けれど、本に挟むと少しだけ目を引きそうな、品のいい栞だった。
伊集院は固まった。
完全に予想していなかった顔だった。
「本、よく読んでるから」
悠人は少し照れくさくなって、言葉を足した。
「資料室でも読んでるし、前に本屋でも買ってただろ。使うかなと思って」
伊集院は栞を見つめていた。
すぐに返事をしない。
その沈黙が、悠人には少し長く感じられた。
「……実用性はあるな」
ようやく伊集院が言った。
「褒めてる?」
「評価している」
「さっきから評価ばっかりだな」
「不満か?」
「いや、伊集院らしいと思って」
「余計な感想だ」
伊集院はそう言ったが、栞を包みに戻そうとはしなかった。
指先で、何度か表面を確かめている。
その仕草が、言葉よりずっと素直だった。
「まさか、君が用意しているとは思わなかった」
「一応、クリスマスだし」
「君にしては悪くない判断だ」
「それは褒めてるな」
「評価だ」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
二人は庭で向かい合ったまま、少しだけ黙った。
屋敷の中では、パーティがまだ続いている。
明るい音楽。
人々の声。
華やかな灯り。
その外側で、悠人と伊集院は小さなプレゼントを交換していた。
会場の中の伊集院は、誰からも見られる伊集院くんだった。
けれど今、庭にいる伊集院は、栞を手にして少しだけ困ったような顔をしている。
その表情を見られるのは、おそらく自分だけなのだろう。
悠人はそう思った。
伊集院は小さく息を吐き、栞を丁寧に包み直した。
「高瀬」
「何だ?」
「今日のことも、誰にも言うな」
「パーティのこと?」
「庭での確認のことだ」
「確認だったのか、これ」
「当然だ」
「プレゼント交換も?」
「記念品の授受だ」
「便利だな」
「君ほどではない」
悠人は笑った。
伊集院は少しだけ不満そうにしたが、本気で怒ってはいなかった。
「ペン、使うよ」
悠人が言うと、伊集院はわずかに視線を逸らした。
「使わなければ意味がない」
「栞も使ってくれ」
「……必要があればな」
「本読むなら必要だろ」
「君は余計なことを言うな」
「はいはい」
「返事は一回でいい」
「はい」
やがて、伊集院は屋敷の方を見た。
「戻るぞ」
「もう少し休まなくていいのか?」
「必要ない」
「そうか」
「君も、あまり長く外にいると不自然だ」
「確認として?」
「確認としてだ」
二人は庭から会場へ戻った。
扉を開ける直前、悠人は一度だけ伊集院の横顔を見た。
そこには、また完璧な伊集院くんの顔が戻ろうとしていた。
背筋が伸びる。
表情が整う。
視線が落ち着く。
華やかな会場へ戻るための顔。
けれど、その手には小さな包みがあった。
悠人が渡した栞。
その包みを、伊集院は少しだけ大事そうに持っていた。
今年のクリスマスは、確認だった。
伊集院はきっとそう言い張るだろう。
伊集院家の行事における高瀬悠人の行動確認。
パーティ会場での振る舞い確認。
庭での記念品授受確認。
いくらでも言葉はつけられる。
けれど悠人には、もうわかっていた。
今日、伊集院レイは、自分の世界の一部を悠人に見せた。
華やかで、重くて、逃げ場の少ない伊集院家の世界を。
そして、その外れにある庭で、ほんの少しだけ伊集院くんではない顔を見せた。
それを招待と呼ぶのか、確認と呼ぶのか。
伊集院がどちらを選ぶかは、もう少し先の話だった。