パーティが終わった後、屋敷は少しだけ違う静けさに包まれていた。
つい先ほどまで、会場には音楽が流れていた。
笑い声があり、挨拶があり、グラスの触れる音があり、誰かが伊集院家の華やかさを褒める声があった。
今は、その残響だけが廊下の奥に薄く残っている。
使用人たちは静かに後片付けをしていた。
慣れた手つきでグラスを下げ、テーブルを整え、花を片づける。
誰も大きな音を立てない。
伊集院家の夜は、いつもそうだった。
整っている。
乱れない。
余韻さえ、節度を持って片づけられていく。
伊集院レイは、自室へ戻った。
扉を閉める。
そこでようやく、肩から少しだけ力が抜けた。
大きく息を吐いたわけではない。
椅子に崩れ落ちたわけでもない。
疲れた、と口にしたわけでもない。
ただ、背筋を張っていたものが、ほんのわずかに緩んだだけだった。
それでも、自分にはわかった。
疲れている。
会場に立つことには慣れている。
伊集院家の者として挨拶を受けることにも。
女子生徒たちの憧れの視線にも。
大人たちの期待を含んだ言葉にも。
完璧な伊集院くんとして微笑むことにも。
慣れている。
だが、慣れていることと、疲れないことは同じではない。
レイは鏡の前に立った。
そこには、今日のパーティで求められた伊集院レイが映っていた。
整えられた装い。
崩れていない髪。
まだ会場の空気をまとったような表情。
華やかな場所に立つための伊集院くん。
それは、必要な姿だった。
必要だから演じる。
必要だから笑う。
必要だから、期待される言葉を返す。
そうしていれば、誰も疑わない。
誰も、この姿の奥に何があるかなど考えない。
それでよかった。
そうでなければならなかった。
レイは机の上に、二つの包みを置いた。
ひとつは、もう空になった細長い箱。
高瀬悠人に渡したペンのものだ。
もうひとつは、高瀬から受け取った小さな包み。
栞が入っている。
まず、レイはペンの箱を見た。
あれは記念品だ。
参加者用に用意されたものが余った。
そう説明した。
あるいは、確認協力への対価。
秘密保持者としての機能を補助するための道具。
高瀬悠人の記憶力には不安がある。
必要事項を記録させるため、実用的なペンを渡すのは合理的だった。
それだけだ。
選んだ理由など、いくらでも説明できる。
派手すぎず、安っぽすぎず、日常で使いやすいもの。
高瀬が持っていて不自然ではなく、学校でも使えるもの。
必要以上に意味を持たず、しかし使えないものでもないもの。
合理的な選択だった。
レイはそう結論づけようとした。
しかし、その説明は少しだけ余計だった。
ただの余り物なら、そこまで考える必要はない。
確認協力への対価なら、もっと事務的なものでもよかった。
わざわざ高瀬が使いやすそうなものを選ぶ必要など、なかった。
「……機能を補助するためだ」
レイは小さく呟いた。
自分に言い聞かせるように。
高瀬悠人は不用意なところがある。
嘘も上手いとは言えない。
時々余計なことを言う。
しかし、秘密保持者として最低限の機能は果たしている。
その機能を維持するための道具。
だから渡した。
それだけだ。
レイはペンの箱から視線を外した。
そして、高瀬から受け取った包みを手に取った。
庭で渡された時のことを思い出す。
――じゃあ、俺からも。
――俺も一応、用意してきた。
あの瞬間、完全に予想していなかった。
高瀬が何かを用意しているなど、考えていなかった。
彼は招かれた側だ。
伊集院家のパーティに参加させられた側だ。
自分が呼び、自分が確認と言い張り、自分が庭へ呼び出した。
だから、渡すのはこちらだけだと思っていた。
記念品。
対価。
補助具。
どんな言葉を使うにせよ、主導権はこちらにあるはずだった。
なのに、高瀬は小さな包みを差し出した。
まるで、それが自然なことのように。
レイは包みを開く。
中から栞を取り出した。
落ち着いた色合いの栞だった。
派手ではない。
高価すぎるわけでもない。
けれど、雑に選ばれたものではない。
革と薄い金具を組み合わせた、静かな品のあるもの。
本に挟めば、きっと目立ちすぎない。
だが、ページを開くたびにそこにあることはわかる。
使いやすそうだった。
そして、腹立たしいことに。
自分の本に合うと思ってしまった。
――本、よく読んでるから。
――資料室でも読んでるし、前に本屋でも買ってただろ。
――使うかなと思って。
高瀬の声がよみがえる。
レイは栞を見つめたまま、少しだけ黙った。
高瀬は、見ていた。
資料室で本を読んでいたこと。
駅前の本屋で外国文学の文庫を手に取ったこと。
本棚の前で少し立ち止まったこと。
会話の合間に、何気なく本へ視線を落とすこと。
そういう小さなことを、覚えていた。
見られていた。
けれど、それはいつもの「見られる」とは少し違った。
学校での伊集院レイは、いつも見られている。
女子生徒たちからは憧れの対象として。
男子生徒たちからは、どこか距離のある存在として。
教師や大人たちからは、伊集院家の者として。
パーティ会場では、華やかな中心として。
見られることには慣れている。
だが、それは役割を見られることだった。
伊集院くん。
伊集院家。
完璧な生徒。
違う世界の人。
高瀬が見ていたのは、それとは少し違う。
資料室で本を読む自分。
本屋で文庫を選ぶ自分。
喫茶店でケーキを少し気にする自分。
夏祭りでラムネの構造を確認していただけの自分。
そのどれも、伊集院家の者として見られるための姿ではなかった。
見られていた。
けれど、暴かれたわけではない。
評価されたわけでもない。
憧れられたわけでもない。
ただ、覚えられていた。
そのことが、レイには扱いづらかった。
「……余計なところを見る」
そう言った声は、少しだけ弱かった。
栞を机に置く。
置いても、視線はそこから離れなかった。
高瀬の言葉が、もうひとつ戻ってくる。
――俺、去年は来てなくてよかったかもしれない。
――去年の俺がここに来ても、たぶん伊集院のこと、ただすごいやつだと思って終わってた。
――今は、少し違って見える。
あの言葉。
庭の冷たい空気。
屋敷の中から聞こえる音楽。
会場の灯り。
高瀬の声。
レイは目を伏せた。
去年の高瀬が来ていたら。
彼は会場の中で、完璧な伊集院くんを見ただろう。
女子生徒に囲まれ、教師に挨拶し、伊集院家の者として振る舞う自分を見ただろう。
そして、他の生徒と同じように思ったかもしれない。
すごい人だ。
違う世界の人だ。
近づきがたい人だ。
それで終わっていた。
それなら、それでよかったはずだ。
伊集院レイとは、そう見られるために立っている存在なのだから。
なのに高瀬は、今年の自分を見て、少し違って見えると言った。
華やかな会場に立つ伊集院くんを見た。
伊集院家の重さを見た。
それでも、資料室で言い張る自分や、夏祭りで少しだけ笑ってしまった自分を忘れなかった。
会場の中心にいる伊集院くんだけを、本物だとは思わなかった。
そのことが、妙に胸に残っている。
レイは、机の引き出しに手をかけた。
開ける。
中には、いくつかのものが入っていた。
喫茶店のレシート。
紅茶。
コーヒー。
ケーキセット。
夏祭りの射的の景品。
小さな箱菓子。
伊集院家の部屋には似合わないもの。
けれど、捨てられなかったもの。
どちらも、本来なら残す必要のないものだった。
確認結果でもない。
正式な記録でもない。
価値のある品でもない。
ただ、捨てるには少しだけ惜しかった。
レイは、栞をその横に置こうとした。
喫茶店のレシート。
夏祭りの景品。
クリスマスの栞。
並べれば、すっきりする。
高瀬悠人に関わるものを、同じ場所にしまえる。
そう思った。
けれど、手が止まった。
栞は、引き出しにしまうものではない。
本に挟むものだ。
それは、しまっておくための記念品ではない。
使うものだ。
レイは、しばらく栞を見つめていた。
そして引き出しを閉めた。
本棚の前に立つ。
何冊も並んだ本の中から、一冊を取り出した。
以前、駅前の本屋で買った外国文学の文庫だった。
高瀬と一緒に出かけた時に買ったもの。
あれも確認だった。
外部環境での対応確認。
高瀬の口の堅さを確かめるための行動。
そう説明できる。
けれど、今となっては、その説明だけでは少し足りない。
レイは文庫を開いた。
途中まで読んでいたページ。
そこへ、高瀬からもらった栞を挟む。
栞は、思ったより自然にその本に収まった。
まるで、最初からそこに置かれるために選ばれていたかのように。
レイは本を閉じる。
机の上に置く。
そして、しばらくそれを見ていた。
なぜ、高瀬は栞を用意していたのか。
クリスマスだから。
パーティに参加した礼儀として。
自分が何かを渡すことを予想していたから。
ただの気遣い。
あるいは、深い意味などなく、たまたま目についたから。
説明はいくつも考えられる。
けれど、どれも完全には合わなかった。
高瀬は、伊集院が本を読むことを覚えていた。
そして、それに合うものを選んだ。
それだけのことだ。
本当に、それだけのことかもしれない。
でも、その「それだけ」が、妙に消えない。
贈られた理由を考える必要などない。
レイは自分に言い聞かせる。
使えるものだから使う。
実用性があるから使う。
高瀬悠人にしては悪くない選択だったから、評価して使う。
それだけだ。
そこに、それ以上の意味を見出す必要はない。
「……使えるものだから、使うだけだ」
声に出す。
そう言えば、少しだけ整理できる気がした。
レイは文庫を手に取り、もう一度開いた。
ページの間に、栞が静かに挟まっている。
喫茶店のレシートや夏祭りの景品のように、引き出しにしまわれたものではない。
これから開くページの中にある。
次に本を読む時、必ず触れる場所にある。
レイはその事実に気づき、少しだけ視線を逸らした。
贈られた理由は、まだわからない。
高瀬が何を考えていたのかも、完全にはわからない。
ただ、その栞は確かに本に挟まれていた。
伊集院レイは本を閉じた。
けれどそのページには、高瀬悠人から贈られた栞が、まるで最初からそこにあるべきものだったかのように、静かに残っていた。