クリスマスパーティの翌日。
高瀬悠人は、自分の机に向かっていた。
冬休みに入ったばかりの朝だった。
学校はない。
旧校舎の資料室へ呼び出されることもない。
机の中に伊集院レイからのカードが入っていることもない。
それなのに、机の上には伊集院からもらったものがあった。
ペン。
クリスマスパーティの夜、伊集院家の庭で渡されたものだ。
記念品。
確認協力への対価。
秘密保持者の機能を補助するための道具。
伊集院は、そんなふうに言っていた。
悠人は箱からペンを取り出した。
改めて見ると、やはりいいものだった。
派手ではない。
いかにも高級品という感じでもない。
けれど、持つとわかる。
重みがちょうどよく、手に馴染む。
安いペンとは少し違う。
伊集院らしいと思った。
押しつけがましくない。
でも適当ではない。
妙に実用的で、理由をつけやすい。
悠人はノートを開き、冬休みの課題の端に日付を書いてみた。
思ったより書きやすい。
「……普通にいいな、これ」
そう呟いてから、少しだけ笑った。
伊集院が聞いていたら、たぶんこう言うだろう。
当然だ。
粗悪なものを渡す理由がない。
その声まで思い浮かんで、悠人はペンを指で回した。
クリスマスパーティ。
伊集院家の屋敷。
華やかな会場。
大きなツリー。
完璧な伊集院くんとして立つ伊集院レイ。
そして庭で、少しだけ違う顔をした伊集院。
悠人は、昨日のことを思い返しながら、もう一度ペンを握った。
これを、ただの記念品とは思えなかった。
けれど、それを誰かに言うつもりもなかった。
冬休みの間、伊集院から連絡はなかった。
固定電話が鳴るたびに少しだけ身構えたが、伊集院の声が聞こえることはなかった。
最初の二日ほどは、少し妙な感じがした。
夏休みには、確認だと言って呼び出された。
夏祭りにも行った。
二学期に入ってからも、何かにつけて資料室へ呼ばれた。
それが、冬休みにはぱたりと止まった。
伊集院側にも都合があるのだろう。
伊集院家の年末。
親族。
行事。
挨拶。
高瀬悠人には想像のつかない予定が、きっとある。
そう思うと、少しだけ納得できた。
同時に、少しだけ変な気分だった。
確認がない。
それは自由なはずだった。
けれど、何かが一つ抜け落ちたようでもあった。
もちろん、口には出さない。
出せば、自分でも少しおかしいと思う。
あれだけ面倒だと思っていた資料室通いがないことを、少し物足りなく感じるなど。
悠人は自分に言い聞かせた。
ただ、急に静かになっただけだ。
それだけだ。
冬休みが明けた。
三学期の教室は、寒さと眠気に包まれていた。
久しぶりに登校した生徒たちは、朝からぼんやりしている者が多い。
「休み短すぎだろ」
「課題終わった?」
「終わったことにした」
「それ終わってないやつだろ」
そんな会話があちこちで聞こえる。
悠人も席につき、ノートを開いた。
そして、自然に伊集院からもらったペンを取り出した。
使っていること自体は、もう少し慣れていた。
冬休み中、何度も使った。
課題にも使った。
メモにも使った。
だから教室で取り出すことにも、特別な意識はなかった。
だが、隣の席の友人がそれに気づいた。
「お、それいいペンじゃん」
悠人は一瞬だけ手を止めた。
「そうか?」
「なんか高そう。買ったの?」
「ああ……いや、もらった」
「誰に?」
悠人は少しだけ間を置いた。
「知り合い」
「知り合いって誰だよ」
「まあ、知り合い」
「なんだそれ。彼女?」
「違う」
即答した。
友人は面白そうに笑う。
「怪しいな」
「怪しくない」
「じゃあ誰だよ」
「秘密」
言ってから、自分で少しだけ変な気分になった。
秘密。
その言葉は、今の悠人にとって少し重い。
友人はそれ以上深く追及しなかった。
「まあいいけど。いいな、それ。書きやすそう」
「書きやすいよ」
「へえ。俺もいいペン欲しいな」
それで会話は流れた。
悠人はほっとした。
誰からもらったのか。
それを言うつもりはなかった。
伊集院からもらったと言えば、余計な話になる。
伊集院家のクリスマスパーティに参加したこと。
庭で二人になったこと。
ペンをもらったこと。
自分も栞を渡したこと。
どれも、軽く話していいものではない。
悠人はペンを握り直した。
知っている。
でも言わない。
それは、もう自分の中では当たり前になっていた。
休み時間、友人たちがクリスマスパーティの話をしていた。
「そういえば、伊集院家のパーティ行ったやついるんだろ?」
「あれ、すごかったらしいな」
「俺の知り合いの女子が行ったって言ってた。マジで別世界だったって」
「だろうな。伊集院だもんな」
悠人は黙って聞いていた。
「伊集院って、ほんと違う世界の人間って感じするよな」
「何でも持ってそうだし」
「悩みとかあるのかな、ああいうやつ」
「ないだろ。あったとしても俺らとレベル違いそう」
軽い会話だった。
悪意があるわけではない。
むしろ、少し羨ましさの混じった感想だ。
伊集院はすごい。
伊集院は完璧。
伊集院は違う世界の人。
悠人も、少し前なら同じように思っていたかもしれない。
実際、クリスマスパーティの会場に立った伊集院は、そう見えた。
大きな屋敷。
華やかな会場。
集まる視線。
期待される振る舞い。
完璧な伊集院くん。
あれは本当に、違う世界だった。
悠人が自然に立てる場所ではなかった。
けれど。
伊集院に悩みがないとは、もう思えなかった。
思えるはずがなかった。
資料室で、伊集院はよく「確認だ」と言い張った。
監視だと言って呼び出した。
相談ではないと訂正した。
缶コーヒーを差し入れではなく対策だと言った。
本屋では、雑誌を見ていたのに「視界に入っただけだ」と言った。
喫茶店では、ケーキを食べたそうにしているのに「味を確認しただけだ」と言った。
夏祭りでは、射的で景品を落として少し得意げになった。
ラムネの開け方に一瞬迷って、「構造を確認していただけだ」と言った。
花火を見て、「楽しかった」とは言わず、「有意義だった」と言った。
クリスマスの庭では、栞を受け取って固まっていた。
そのどれもが、会場で完璧に微笑んでいた伊集院と同じ人だった。
悠人はノートの端に、意味もなく線を引いた。
なんだかんだで、楽しかったのだと思う。
最初は、面倒なことに巻き込まれたと思った。
実際、面倒だった。
秘密を知らされた。
退学させると脅された。
呼び出された。
嘘の質を採点された。
確認だと言われて、あちこち付き合わされた。
普通なら、かなり厄介な相手だ。
けれど、思い返す場面は、嫌なものばかりではなかった。
むしろ、よく覚えている。
ケーキを前にした伊集院の微妙な沈黙。
射的で少しだけ得意げだった横顔。
人混みから引いた手首の細さ。
冬の資料室で置かれていた温かい缶コーヒー。
庭で栞を受け取った時の、予想外という顔。
それらを思い出すと、悠人は自分でも少し困った。
楽しかった。
たぶん、それが一番近い。
けれど同時に、クリスマスパーティで痛感したこともある。
伊集院レイは、本当に違う世界の人でもある。
それは噂や憧れだけの話ではない。
屋敷。
会場。
使用人。
大人たちの視線。
伊集院家という名前。
その中心に立つ彼女。
悠人が知っている伊集院は、資料室で言い張る伊集院だけではない。
夏祭りで少し笑う伊集院だけでもない。
華やかな会場で、完璧な伊集院くんとして振る舞う伊集院も、同じ人なのだ。
その距離を、悠人は初めてはっきり見た気がした。
近づいたと思った。
資料室で話すようになった。
夏祭りに行った。
クリスマスに贈り物を交換した。
けれど、近づいたからこそ、見える距離もある。
伊集院家の会場で見た彼女は、やはり遠かった。
自分とは違う場所に立っていた。
ただ。
それでも、悠人は思った。
だからといって、資料室の伊集院が嘘になるわけではない。
夏祭りの伊集院が偽物になるわけでもない。
クリスマスの庭で栞を手にして固まった伊集院も、会場で完璧に微笑んでいた伊集院も、どちらも同じ伊集院レイだ。
たぶん、それを忘れてはいけない。
特別扱いしすぎても違う。
かわいそうだと思うのも違う。
伊集院家の人だからと遠ざけるのも違う。
秘密を知っているからと、自分だけが特別だと思うのも違う。
ただ、知っていることを軽く扱わない。
見たものを、一つだけ本物だと決めつけない。
悠人にできることがあるとすれば、たぶんそれくらいだった。
放課後。
悠人は廊下を歩いていた。
冬休み明けの校舎は、どこか落ち着かない。
けれど、少しずついつもの学校に戻りつつある。
廊下の先に、人だかりが見えた。
女子生徒たちに囲まれている伊集院レイだった。
相変わらず、学校では完璧な伊集院くんだった。
穏やかに笑い、誰に対しても丁寧に言葉を返している。
悠人はそのまま通り過ぎようとした。
だが、伊集院と目が合った。
ほんの一瞬。
伊集院は周囲にわからない程度に、視線だけで合図した。
旧校舎。
そう言われた気がした。
久しぶりだった。
冬休みの間、伊集院からの確認は一度もなかった。
固定電話も鳴らなかった。
資料室に呼ばれることもなかった。
だから、その合図を見た時、悠人は少しだけ懐かしいような気分になった。
放課後。
悠人は旧校舎三階の資料室へ向かった。
階段の軋む音。
冷えた廊下。
古い扉。
数週間ぶりなのに、ずいぶん長く来ていなかったような気がした。
扉をノックする。
「入れ」
聞き慣れた声がした。
悠人は扉を開けた。
伊集院は窓際の机に座っていた。
制服姿。
いつものように背筋を伸ばし、当然のようにそこにいる。
机の上には、今日は飲み物も書類もなかった。
「久しぶりだな」
悠人が言うと、伊集院はわずかに眉を動かした。
「何がだ」
「確認」
「冬休み中は、こちらの都合で必要なかっただけだ」
「そうか」
「何だ、その顔は」
「いや、久しぶりに聞いたなと思って」
「余計な感想だ」
いつものやり取り。
それだけで、少しだけ空気が戻った気がした。
伊集院は悠人の手元を見た。
「それ」
「ん?」
悠人は自分の手を見る。
伊集院からもらったペンを持っていた。
ノートを出すつもりで、無意識に手にしていたのだ。
「使っているのか」
伊集院が言った。
少しだけ、いつもより声が小さかった。
悠人はペンを持ち上げた。
「使わなきゃ意味ないって言っただろ」
「そうだな」
「書きやすいよ」
伊集院は視線を逸らした。
「当然だ。粗悪なものを渡す理由がない」
「伊集院らしいな」
「余計な感想は不要だ」
「褒めてるんだけど」
「不要だ」
悠人は少し笑った。
その伊集院を見ながら、改めて思う。
この人は、違う世界の人だ。
でも今、目の前でいつものように言い張っている伊集院でもある。
完璧な伊集院くん。
資料室の伊集院。
夏祭りの伊集院。
クリスマスの庭の伊集院。
全部、同じ人だ。
「高瀬」
「何だ?」
「何を見ている」
「別に」
「嘘が下手だ」
「それ、まだ言うのか」
「事実だからな」
伊集院はそう言って、少しだけ口元を緩めた。
ほんのわずかだった。
学校の廊下で見せる完璧な笑みではない。
夏祭りの時ほど素直でもない。
けれど、悠人にはそれで十分だった。
冬休みが明けた。
確認は、また始まるらしい。
それが面倒なのか、少し嬉しいのか。
悠人はまだ、はっきりとは決められなかった。
ただ、手の中のペンの重みは、以前より少しだけ馴染んでいた。