伊集院レイは、伝説の木の下で少女になる   作:エーアイ

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伊集院レイは、チョコレートを渡せない

 二月十四日。

 

 その日のきらめき高校は、朝から少しだけ落ち着かなかった。

 

 廊下を歩く女子生徒たちの手には、小さな紙袋や可愛らしく包まれた箱がある。

 男子生徒たちは、何でもない顔をしようとして、かえってそわそわしていた。

 教室の中でも、机の中を何度も確認する者がいる。

 友人同士で冗談を言い合いながら、視線だけはどこかを気にしている者もいる。

 

 バレンタイン。

 

 それだけで、学校の空気は少し変わる。

 

 高瀬悠人は、いつも通りに登校したつもりだった。

 

 特別に期待していたわけではない。

 自分が誰かからチョコをもらえるとも、あまり思っていない。

 

 友人に声をかけられる。

 

 「高瀬、今年はどうだ?」

 

 「どうって?」

 

 「チョコだよ、チョコ」

 

 「今のところ何もない」

 

 「安心しろ。俺もだ」

 

 「安心するところなのか、それ」

 

 そんな会話をしながら、悠人は廊下を歩いた。

 

 そこで、少し先に人だかりができているのを見つけた。

 

 見なくても、誰がいるのかはわかった。

 

 伊集院レイだった。

 

 学校では、伊集院くんとして見られている人。

 

 女子生徒たちが彼を囲んでいる。

 

 「伊集院様、よろしければ受け取ってください」

 

 「手作りではないんですけど……」

 

 「お口に合うかわかりませんが」

 

 小さな箱。

 綺麗に結ばれたリボン。

 丁寧に包まれた紙袋。

 

 それらが、次々と伊集院へ差し出されていく。

 

 伊集院は、いつものように穏やかに微笑んでいた。

 

 「ありがとう。大切にいただこう」

 

 その声は柔らかく、丁寧で、少しも相手を困らせない。

 

 受け取り方も完璧だった。

 

 断らない。

 軽く扱わない。

 かといって、必要以上に期待を持たせるようなこともしない。

 

 伊集院くんとして、完璧な対応だった。

 

 女子生徒たちは頬を赤らめ、嬉しそうに去っていく。

 

 別の女子がまた近づく。

 

 伊集院は微笑みを崩さない。

 

 悠人は少し離れた場所から、それを見ていた。

 

 周囲の生徒たちが言う。

 

 「やっぱ伊集院はすごいな」

 

 「何個もらうんだろうな」

 

 「伊集院様なら当然って感じだよね」

 

 そういう声も、もう聞き慣れている。

 

 けれど悠人は、少しだけ複雑な気分になった。

 

 あれは、伊集院くんへ渡されたチョコだ。

 

 学校中が見ている、完璧な伊集院くん。

 女子生徒たちが憧れる、特別な人。

 違う世界にいるような人。

 

 その伊集院くんへ向けられたもの。

 

 でも悠人は、もうそれだけでは見られなかった。

 

 資料室で「確認だ」と言い張る伊集院を知っている。

 喫茶店でケーキを前にして迷った伊集院を知っている。

 夏祭りでラムネの開け方に少しだけ戸惑った伊集院を知っている。

 クリスマスの庭で、栞を受け取って固まった伊集院を知っている。

 

 今、目の前でチョコを受け取っている伊集院も、その同じ人だ。

 

 それが、少しだけ不思議だった。

 

 そして、少しだけ胸の中に引っかかった。

 

 昼休みになっても、校内の浮ついた空気は続いていた。

 

 男子たちは、もらった数を冗談交じりに競っている。

 女子たちは、渡した相手の反応を友人同士で話している。

 

 悠人の机には、特に何も入っていなかった。

 

 それで落ち込むほどのことでもない。

 

 いつも通りだ。

 

 そう思っていると、友人が机に寄りかかってきた。

 

 「高瀬、本当にゼロ?」

 

 「今のところな」

 

 「ま、俺も似たようなもんだ」

 

 「似たような、って何だよ」

 

 「妹から一個もらった」

 

 「それカウントするのか?」

 

 「しないとゼロになる」

 

 「悲しいな」

 

 そんな会話をしていると、廊下の向こうにまた伊集院の姿が見えた。

 

 手には、いくつかの紙袋がある。

 

 まだ午前中だけで、かなりの数になっているようだった。

 

 伊集院は相変わらず涼しい顔をしている。

 

 だが、悠人には少しだけ気になった。

 

 あれを全部、どんな気持ちで受け取っているのだろう。

 

 伊集院くんへ向けられたもの。

 

 でも本当の彼女は、伊集院くんだけではない。

 

 そのことを、伊集院自身はどう受け止めているのだろう。

 

 悠人はそれ以上考えようとして、やめた。

 

 勝手に想像しすぎるのも違う。

 

 伊集院には伊集院の事情がある。

 

 放課後。

 

 悠人の机の中には、一枚のカードが入っていた。

 

 久しぶりではない。

 

 それでも、いつもの文字を見ると、妙に落ち着くような気がした。

 

 放課後、資料室へ。

 確認事項あり。

 伊集院レイ

 

 確認事項。

 

 バレンタインの日に。

 

 悠人はカードを見ながら、少しだけ考えた。

 

 今日でなければならない確認とは、何だろう。

 

 いや。

 

 本当は、何となくわかっていた。

 

 でも、期待するのは違う気がした。

 

 伊集院は伊集院だ。

 

 きっと今日も、何かしらの理由をつけて「確認だ」と言う。

 

 悠人はカードをしまい、旧校舎へ向かった。

 

 旧校舎三階の資料室。

 

 扉をノックする。

 

 「入れ」

 

 いつもの声がした。

 

 悠人が中に入ると、伊集院は窓際の机に座っていた。

 

 制服姿。

 背筋を伸ばし、いつものように落ち着いた顔をしている。

 

 ただ、机の上には何も置かれていない。

 

 いや、正確には、伊集院の鞄が机の横に置かれている。

 

 その鞄の中に、何かがあるような気がした。

 

 悠人はそれに気づいた。

 

 だが、何も言わなかった。

 

 「遅い」

 

 「時間通りだ」

 

 「私より後に来た」

 

 「バレンタインでもそれなんだな」

 

 「当然だ」

 

 いつものやり取り。

 

 けれど伊集院の声は、ほんの少しだけ硬かった。

 

 悠人は椅子に座る。

 

 「で、今日の確認って?」

 

 伊集院は一枚の紙を取り出した。

 

 そこには、いくつか項目が書かれている。

 

 校内の人流変化。

 放課後の生徒滞留。

 贈答品の受け渡しによる動線混雑。

 不規則な接触機会の増加。

 

 悠人は紙を見て、しばらく黙った。

 

 「……バレンタインの報告書?」

 

 「確認事項だ」

 

 「今日じゃないと駄目なのか?」

 

 「今日でなければ意味がない」

 

 「バレンタインだから?」

 

 伊集院は一瞬だけ言葉を止めた。

 

 「……行事による人流変化が発生するからだ」

 

 「なるほど」

 

 「何だ、その顔は」

 

 「いや、伊集院らしいなと思って」

 

 「余計な感想だ」

 

 伊集院は紙に視線を落とした。

 

 だが、説明はどこかいつもより歯切れが悪い。

 

 普段なら、もっと自信満々に確認の必要性を述べる。

 こちらが茶化せば、すぐに論理で返してくる。

 

 今日は少し違う。

 

 悠人は、伊集院の鞄を一度だけ見た。

 

 小さな包みの角のようなものが、少しだけ見えた気がした。

 

 気づいた。

 

 でも言わない。

 

 「今日は、たくさんもらってたな」

 

 悠人が何気なく言うと、伊集院の指が止まった。

 

 「何をだ」

 

 「チョコ。朝から女子たちが渡してただろ」

 

 「儀礼的なものだ」

 

 「すごい数だったな」

 

 「私の意思とは関係ない」

 

 その言葉は、少しだけ低かった。

 

 悠人は伊集院を見た。

 

 「大変なんだな」

 

 伊集院は、少しだけ目を伏せた。

 

 「慣れている」

 

 クリスマスの庭でも、同じようなことを言っていた。

 

 慣れている。

 

 そうしなければならないだけだ、と。

 

 悠人はそれ以上踏み込まなかった。

 

 伊集院がチョコをもらう側でいること。

 それが周囲にとっては当然であること。

 けれど、伊集院本人にとっては、きっとそれほど単純ではないこと。

 

 悠人には、全部がわかるわけではない。

 

 だから、わかったような顔をするのは違う。

 

 「確認、続けるのか?」

 

 悠人が聞くと、伊集院は少しだけ間を置いた。

 

 「当然だ」

 

 それから、彼女は紙に書かれた項目を一つずつ読み上げ始めた。

 

 校内の廊下では、昼休み前後に女子生徒の移動が増える。

 放課後には、下駄箱付近に滞留が発生する。

 贈答品の受け渡しにより、通常とは異なる声かけが発生しやすい。

 

 内容はそれらしい。

 

 しかし、どこか無理があった。

 

 悠人は黙って聞いた。

 

 途中で茶化すことはしなかった。

 

 伊集院の言葉は、時間を稼いでいるように聞こえた。

 

 何かを言うために。

 何かを出すために。

 

 でも、それができずにいる。

 

 悠人は、急かさなかった。

 

 伊集院の視線が何度か鞄へ向く。

 

 それでも、彼女は紙を読み続ける。

 

 「高瀬」

 

 「何だ?」

 

 「聞いているのか」

 

 「聞いてる」

 

 「なら、なぜ黙っている」

 

 「伊集院が話してるから」

 

 「君は普段、余計なことを挟むだろう」

 

 「今日は挟まない方がいい気がした」

 

 伊集院は黙った。

 

 少しだけ、目が鋭くなる。

 

 「……余計な判断だ」

 

 「そうか」

 

 「そうだ」

 

 でも、伊集院はそれ以上怒らなかった。

 

 資料室に、少しだけ沈黙が落ちた。

 

 窓の外はもう薄暗い。

 

 冬の夕方は短い。

 

 伊集院は机の上の紙を揃えた。

 

 そして、鞄へ手を伸ばした。

 

 途中で止まる。

 

 また戻す。

 

 悠人はそれを見ていた。

 

 見ていたが、何も言わなかった。

 

 伊集院は深く息を吐いた。

 

 本当にわずかに。

 

 それから、小さな包みを取り出した。

 

 落ち着いた色の包装紙。

 

 派手ではない。

 可愛らしすぎもしない。

 けれど、明らかに今日という日に合った包みだった。

 

 伊集院は、それを机の上に置いた。

 

 「高瀬」

 

 「何だ?」

 

 「これを」

 

 悠人は包みを見る。

 

 「……チョコ?」

 

 伊集院は即座に答えた。

 

 「糖分補給だ」

 

 「バレンタインに?」

 

 「偶然だ」

 

 「包みもそれっぽいけど」

 

 「市販品の包装に私が責任を持つ必要はない」

 

 「なるほど」

 

 「確認作業には集中力が必要だ。糖分の摂取は合理的だ」

 

 「じゃあ、確認協力への補助?」

 

 「そうだ」

 

 伊集院は、少し早口だった。

 

 普段よりも言葉数が多い。

 

 それが逆に、彼女が動揺していることを示していた。

 

 悠人は包みを手に取った。

 

 軽かった。

 

 けれど、その重さ以上に扱いづらいものだとわかった。

 

 「ありがとう」

 

 悠人は言った。

 

 伊集院はすぐに返す。

 

 「礼は不要だ」

 

 「でも、ありがとう」

 

 「不要だと言った」

 

 「ちゃんと食べるよ」

 

 伊集院は視線を逸らした。

 

 「糖分として摂取すればよい」

 

 「そうする」

 

 「過度な意味を持たせるな」

 

 「わかってる」

 

 悠人はそう答えた。

 

 茶化さなかった。

 

 義理かとも聞かなかった。

 俺だけかとも聞かなかった。

 なぜ渡すのかとも聞かなかった。

 

 伊集院がどれだけの言い訳を用意して、どれだけ言い出せずにいて、それでも最後に自分で包みを出したのか。

 

 そのことだけで十分だった。

 

 伊集院は少し不満そうに悠人を見た。

 

 「何だ」

 

 「何も言ってないだろ」

 

 「言わなさすぎるのも不自然だ」

 

 「じゃあ何を言えばいいんだ」

 

 「……何でもない」

 

 伊集院は小さく言って、紙を片づけ始めた。

 

 その仕草はいつもより少し乱れていた。

 

 悠人は包みを鞄にしまった。

 

 丁寧に。

 

 他の教科書やノートに潰されないように、少し位置を考えて。

 

 伊集院はそれを見ていたようだったが、何も言わなかった。

 

 「今日の確認は終わりか?」

 

 悠人が聞くと、伊集院は少し遅れて答えた。

 

 「終わりだ」

 

 「了解」

 

 「今日のことも、誰にも言うな」

 

 「言わない」

 

 「当然だ」

 

 「糖分補給のことも?」

 

 伊集院の目が鋭くなる。

 

 「余計な表現をするな」

 

 「伊集院が言ったんだろ」

 

 「君が言うと別の意味になる」

 

 「難しいな」

 

 「君の理解力の問題だ」

 

 いつものやり取り。

 

 けれど、その声は少しだけ柔らかかった。

 

 悠人は立ち上がる。

 

 「じゃあ、また」

 

 「必要があれば呼ぶ」

 

 「確認?」

 

 「確認だ」

 

 「はいはい」

 

 「返事は一回でいい」

 

 「はい」

 

 資料室を出ると、廊下は冷えていた。

 

 旧校舎の空気は静かで、放課後の喧騒も遠い。

 

 悠人は階段を下りながら、鞄の中の小さな包みを思い出した。

 

 朝、伊集院はたくさんのチョコを受け取っていた。

 

 女子生徒たちが憧れを込めて渡したもの。

 完璧な伊集院くんに向けられたもの。

 

 それはきっと、伊集院くんへのチョコだった。

 

 でも今、悠人の鞄に入っているこれは違う。

 

 糖分補給。

 確認協力への補助。

 偶然バレンタインに渡された市販品。

 

 伊集院は、いくらでもそう言うだろう。

 

 実際、さっきもそう言っていた。

 

 それでも悠人にはわかっていた。

 

 あれは、伊集院レイが渡すことを選んだものだった。

 

 言い訳をいくつも重ねて。

 確認事項の紙を用意して。

 なかなか鞄から出せずに。

 それでも、最後には自分の手で渡したもの。

 

 だから、軽く扱ってはいけない。

 

 悠人は鞄を少し持ち直した。

 

 中の包みが潰れないように。

 

 それだけのことだった。

 

 けれど、その小さな動きが、妙に大事なことのように思えた。

 

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