屋敷へ戻ると、すでに使用人たちが贈答品の整理を始めていた。
バレンタインの夜。
伊集院家には、毎年多くの品が届く。
きらめき高校の女子生徒たちから渡されたもの。
取引先関係者から届いたもの。
親族筋から送られたもの。
綺麗に包装された箱が、応接室の一角に並べられている。
「こちらは学校関係のものとしてまとめております」
使用人が丁寧に言った。
レイは軽く頷いた。
「ああ」
それだけ答えて、自室へ向かう。
廊下は静かだった。
屋敷の中は、いつも温度が一定に保たれている。
足音も響かない。
使用人たちの動きも無駄がない。
その静けさの中で、レイは今日一日のことを思い返していた。
女子生徒たちから渡された大量のチョコ。
伊集院くんとして受け取ったもの。
そして――。
高瀬悠人へ渡した、小さな包み。
自室へ入る。
扉が閉まると、ようやく肩の力が少しだけ抜けた。
レイは机へ鞄を置き、椅子に腰を下ろす。
静かな部屋だった。
窓の外には冬の夜。
遠くに街の明かりが見える。
レイは目を閉じた。
そして最初に思い出したのは、高瀬がチョコを受け取った時の顔だった。
ありがとう。
茶化さず、変に意味を問い詰めず、ただそう言った。
あの反応が、妙に頭に残っていた。
レイは小さく息を吐く。
「あれは、糖分補給だ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
確認作業には集中力が必要。
糖分の摂取は合理的。
確認協力への補助。
理屈はいくらでも並べられる。
実際、資料室でもそう説明した。
高瀬も、それ以上は言わなかった。
だから、問題はない。
――問題はない、はずだった。
レイは机に視線を落とす。
女子生徒たちから渡されたチョコは、すでに使用人が別室へ整理している。
どれも丁寧だった。
綺麗に包装されていた。
想いも込められていたのだろう。
けれど、それらはすべて“伊集院くん”へ向けられたものだ。
きらめき高校の完璧な男子生徒。
女子たちが憧れる伊集院様。
それに対して、自分が高瀬へ渡したものは違う。
あれは、自分で選んだ。
自分で持っていった。
資料室でなかなか出せずにいて、それでも最後には自分の手で渡した。
レイは眉を寄せた。
「……意味などない」
そう口にしてから、自分で苦しくなる。
意味がないなら、なぜあれほど迷った。
なぜ確認事項の紙まで用意した。
なぜ、鞄から出すだけであれほど時間がかかった。
レイは立ち上がり、窓際へ歩いた。
冬の夜気が、薄く窓を曇らせている。
そのまま外を見ながら、冬休みのことを思い出した。
高瀬には電話を掛けなかった。
冬休み中、伊集院家では年末年始の行事が続いていた。
親族との会食。
取引先との挨拶。
形式ばった席。
大人たちの会話。
その中で、何度も聞かされた。
「卒業までは、今の形を維持していただかなくては」
「伊集院家の看板に関わることですので」
「レイ様にも、そのお立場をお忘れなきよう」
誰が言ったのかは曖昧だった。
父だったか。
親族の誰かだったか。
あるいは使用人の報告だったか。
ただ、内容だけははっきり覚えている。
高校卒業まで。
少なくとも、それまでは。
伊集院レイは、“伊集院くん”として立ち続けなければならない。
レイは目を閉じた。
冬休み中、高瀬に連絡できなかったのは、忙しかったからだけではない。
あの屋敷の空気の中で、自分がどこに立たされているのかを、改めて突きつけられたからだ。
旧校舎。
夏祭り。
喫茶店。
確認と言い張りながら続けてきた時間。
それらが急に、伊集院家の空気と結びつかなくなる。
レイは机へ戻る。
引き出しを開けた。
そこには、夏祭りの射的の景品。
喫茶店のレシート。
そして、文庫本。
外国文学の文庫には、高瀬からもらった栞が挟まっている。
レイはその本を取り出した。
冬休み中、何度も開いた本だった。
読書のためというより、栞を見るために近かったのかもしれない。
そう思いかけて、レイはすぐに打ち消す。
「違う」
ただ使えるものだったからだ。
栞として合理的だった。
紙製ではなく、しっかりしていて、文庫に合っていた。
だから使っていただけ。
それ以上ではない。
レイは本を閉じる。
だが、指先は栞の位置を自然に覚えていた。
高瀬悠人。
妙な男だった。
秘密を知っても騒がない。
必要以上に踏み込まない。
気づいていても暴かない。
今日もそうだった。
レイがチョコを出せずにいることに、きっと気づいていた。
それでも急かさなかった。
「何かあるなら言えばいい」
とも言わなかった。
待っていた。
だから、最後には自分で渡してしまった。
そこまで考えて、レイは額を押さえた。
「……だから、意味など」
言葉が続かない。
高瀬へチョコを渡した理由を整理しようとする。
確認協力への補助。
冬休み中に不足していた確認体制の補填。
糖分補給。
どれも間違ってはいない。
だが、それだけでは足りない気がした。
高瀬が受け取った時、少しだけ安心した。
からかわれなかったから。
問い詰められなかったから。
ただ礼を言われたから。
そのことが、妙に嬉しかった。
レイはそこまで考えて、すぐに顔をしかめた。
「馬鹿な」
そんな感情は合理的ではない。
説明もつかない。
説明がつかないものは、整理できない。
だから認めない。
認める必要もない。
レイは文庫本を机へ戻した。
栞が、ページの間から少しだけ覗いている。
そのまま椅子に座り直し、小さく息を吐いた。
高瀬は、あのチョコをどうするだろう。
すぐ食べるのか。
後で食べるのか。
本当にちゃんと食べるのか。
そこまで考えてから、レイは眉を寄せた。
「……確認は必要かもしれないな」
食べたかどうか。
確認協力への補助として適切に使用されたかどうか。
それを把握するのは合理的だ。
あくまで確認。
それ以上の意味など、あるはずがない。
レイはそう結論づける。
けれど、その結論は、栞の挟まった文庫本を視界の端に置いたままでは、あまり説得力を持たなかった。