バレンタインの数日後。
高瀬悠人は、旧校舎三階の資料室に呼び出されていた。
理由は、やはり確認だった。
「先日の糖分補給は、適切に摂取されたのか」
伊集院レイは、机の向こう側でいつものように言った。
制服姿。
背筋を伸ばし、表情は落ち着いている。
ただし、その言葉の内容は、どう考えても一週間前のチョコレートのことだった。
悠人は少しだけ笑いそうになった。
「チョコのことか?」
「糖分補給だ」
「食べたよ」
伊集院の指が、机の上でわずかに止まった。
「……そうか」
「美味しかった」
「味の感想は求めていない」
「でも、美味しかったから」
伊集院は視線を逸らした。
「糖分として機能したなら問題ない」
「問題なかった」
「ならば、その確認は終了だ」
そう言って、伊集院は書類を片づけた。
確認は、本当にそれだけだった。
ただ、帰り際に悠人が、
「ちゃんと食べたって、そこまで確認するんだな」
と言うと、伊集院は少しだけ不満そうに眉を寄せた。
「確認協力への補助として渡した以上、適切に使用されたか確認するのは当然だ」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
いつものやり取りだった。
けれど悠人には、何となくわかっていた。
あれは、ただの確認ではなかった。
伊集院は、あのチョコがどうなったのか気にしていた。
それを、糖分補給の使用状況確認という形にしただけだ。
三月に入ってから、悠人は少しだけ悩んでいた。
きっかけは、もちろんそのチョコだった。
伊集院レイから渡された小さな包み。
本人は最後まで、チョコレートとは言わなかった。
糖分補給。
確認協力への補助。
集中力維持のための合理的措置。
そんな理屈を並べていた。
けれど、包みの中身は間違いなくチョコレートだった。
悠人は、それをちゃんと食べた。
味も、ちゃんと覚えている。
美味しかった。
そして、それを伊集院にも伝えた。
だからこそ、ホワイトデーが近づくにつれて、自然と考えるようになった。
返すべきだろう。
問題は、何を返すかだった。
昼休み、友人が購買から戻ってきて言った。
「そういや高瀬、ホワイトデーどうすんの?」
悠人は弁当の蓋を閉じながら顔を上げた。
「どうって?」
「お返しだよ。お返しする相手いるの?」
少しだけ間が空いた。
「……一応」
友人の顔が変わった。
「え、誰?」
「知り合い」
「また知り合いかよ」
「何がまたなんだ」
「前もいいペンもらった時、知り合いって言ってたろ」
「そうだったか?」
「とぼけるな。お前、最近その知り合い多くないか?」
「多くはない」
「じゃあ誰なんだよ」
「言わない」
友人は大げさにため息をついた。
「高瀬、意外と隠し事するタイプだよな」
悠人は少しだけ苦笑した。
「そうかもな」
隠し事。
それは間違っていない。
ただ、友人が想像しているような話ではない。
秘密を知っている。
でも言わない。
それはもう、悠人にとって当たり前になっていた。
友人はまだ興味深そうにしていたが、すぐに別の話題に移った。
「まあ、お返しするなら変なの選ぶなよ。女子はそういうの見てるからな」
「詳しいのか?」
「妹がうるさいんだよ」
「なるほど」
悠人は曖昧に頷いた。
女子。
伊集院は学校ではそう見られていない。
伊集院くんとして、チョコをもらう側だった。
でも、悠人が返そうとしている相手は、伊集院くんではない。
少なくとも、あの資料室で糖分補給だと言い張りながらチョコを渡してきた伊集院は、伊集院くんだけではなかった。
だから余計に、何を選べばいいのかが難しい。
その日の帰り道、悠人は駅前の店に寄った。
ホワイトデー用の売り場には、いろいろなものが並んでいた。
可愛らしい包装のキャンディ。
小さなマカロン。
リボンのついたクッキー。
少し高そうなチョコレート。
華やかな箱に入った焼き菓子。
悠人は腕を組んで、しばらく売り場の前で悩んだ。
可愛すぎるものは違う。
伊集院が困る。
高価すぎるものも違う。
重くなる。
安すぎるものは失礼だ。
明らかにホワイトデーのお返しです、という包装も難しい。
それを渡された伊集院は、きっと逃げ道を失う。
バレンタインのチョコを糖分補給と言い張った伊集院に対して、お返しの意味を真正面から突きつけるのは違う気がした。
言い訳の余地は必要だ。
伊集院が受け取れる理由。
伊集院がいつものように、「確認だ」「補助だ」「合理的だ」と言える余地。
悠人はそう考えて、少しだけ苦笑した。
自分は今、伊集院の言い訳まで考えて品物を選んでいる。
それが変だと思う一方で、かなり自然にも感じた。
売り場の端に、落ち着いた包装の焼き菓子があった。
小さな箱。
派手すぎない色。
中身はクッキーと焼き菓子の詰め合わせらしい。
横に、紅茶に合う焼き菓子、と書かれていた。
悠人はそれを見て、伊集院を思い出した。
資料室で紅茶を飲んでいた伊集院。
クリスマスの庭で栞を受け取った伊集院。
喫茶店でケーキを普通だと言いながら食べていた伊集院。
これなら、たぶん困りすぎない。
甘すぎない。
重すぎない。
でも、適当に選んだものでもない。
悠人はその箱を手に取った。
しばらく見てから、レジへ向かった。
ホワイトデー当日。
学校は、バレンタインほどではないが、やはり少し浮ついていた。
男子が女子へ包みを渡す姿。
友人同士でお返しを見せ合う姿。
廊下の端で少し照れくさそうにしている生徒。
三月の空気は、二月より少し柔らかい。
春が近いせいかもしれない。
伊集院レイは、その日も目立っていた。
バレンタインにチョコを受け取った女子生徒たちへ、丁寧にお返しを渡している。
「先日はありがとう。心遣いに感謝する」
完璧な伊集院くんだった。
女子生徒たちは、また頬を赤らめている。
「伊集院様からお返しをいただけるなんて……」
「大切にします」
伊集院は穏やかに微笑んでいる。
その姿は、やはり隙がなかった。
悠人は少し離れてそれを見ていた。
あれも伊集院だ。
伊集院くんとして、期待される振る舞いをしている伊集院。
そして、今日自分が渡そうとしている相手も、同じ伊集院だ。
そのことを、もう不思議だとは思わなくなってきた。
ただ、少しだけ思った。
大変だな、と。
バレンタインには、伊集院くんとして受け取る。
ホワイトデーには、伊集院くんとして返す。
その全部を、周囲の期待通りにこなしている。
きっと慣れているのだろう。
でも、慣れていることと、何も感じないことは同じではない。
放課後。
悠人の机の中には、やはり一枚のカードが入っていた。
放課後、資料室へ。
確認事項あり。
伊集院レイ
ホワイトデーでも確認か。
悠人は少しだけ笑った。
今日の確認は、バレンタインのチョコを食べたかどうかではないはずだ。
それはもう確認済みだ。
なら、表向きは年度末の確認か。
ホワイトデーによる人流変化の確認か。
三年生になる前の行動確認か。
伊集院なら、いくらでも理由をつけられる。
そして、それが理由であると同時に、理由ではないことも、悠人には少しずつわかるようになっていた。
伊集院は、今日という日を意識している。
それでも、自分からお返しを期待しているとは絶対に言わない。
言えない。
だから確認を作る。
悠人は鞄の中の小さな箱を確認した。
潰れていない。
それだけを確かめて、旧校舎へ向かった。
資料室に入ると、伊集院はいつもの窓際の席にいた。
机の上には、紙が数枚。
確認事項らしい。
「遅い」
「時間通りだ」
「私より後に来た」
「ホワイトデーでもそれなんだな」
「当然だ」
いつものやり取り。
けれど、伊集院は少しだけ落ち着かないように見えた。
紙に目を落としているが、視線が普段より少し忙しい。
悠人は椅子に座った。
「で、今日の確認は?」
「三月中旬以降の校内行動についてだ」
「また広いな」
「年度末は行事が増える。人の移動も変わる」
「なるほど」
「特に、三月は不規則な接触が発生しやすい」
「ホワイトデーだから?」
伊集院の目が少しだけ鋭くなった。
「行事による人流変化だ」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
いつもの調子だった。
伊集院は紙を読み上げる。
年度末の清掃。
成績関連の呼び出し。
部活動の送別。
三年生の卒業後に残る校内の空気。
二年生から三年生へ向かう準備。
内容はそれらしい。
けれど、悠人にはわかっていた。
今日の確認は、たぶんそれだけではない。
それでも、急かさない。
伊集院の説明が一通り終わるまで、悠人は黙って聞いた。
やがて、伊集院が紙を揃えた。
「以上だ」
「終わりか?」
「今日の確認事項は、おおむね終了した」
「そうか」
悠人は少しだけ間を置いてから言った。
「今日も、大変だったな」
伊集院が顔を上げる。
「何がだ」
「お返し。朝から結構渡してただろ」
「儀礼上、必要な対応だ」
「それでも大変だろ」
「慣れている」
クリスマスの庭でも聞いた言葉だった。
慣れている。
悠人は少しだけ頷いた。
「そっか」
それ以上は言わなかった。
大変なんだな、と繰り返すことも、わかったような顔をすることも、たぶん違う。
ただ、今日の伊集院が伊集院くんとしてきちんと役割をこなしていたことは、見ていた。
そしてそれは、軽いことではない。
悠人は鞄へ手を伸ばした。
「そうだ、これ」
伊集院が少しだけ身構える。
「何だ」
悠人は小さな箱を机の上に置いた。
落ち着いた包装の焼き菓子。
伊集院はそれを見たまま、ほんの一瞬固まった。
「この前の糖分補給のお返し」
「……お返し?」
「ホワイトデーだし」
伊集院は少しだけ表情を引き締めた。
「あれは糖分補給だと言ったはずだ」
「だから、これも糖分補給」
「君は言葉を悪用するようになったな」
「伊集院から学んだ」
伊集院は返す言葉を探すように、わずかに黙った。
そして視線をそらす。
「学ぶ対象を間違えている」
「そうか?」
「そうだ」
それでも、伊集院は包みを拒まなかった。
ゆっくりと手を伸ばし、箱を受け取る。
その手つきは、言葉よりずっと丁寧だった。
伊集院は包みの表面を一度だけ指でなぞる。
「……確認協力への補助に対する返礼としては、過剰ではないな」
「評価は?」
「悪くない」
「褒めてる?」
「評価だ」
「いつも通りだな」
「当然だ」
伊集院はそう言ったが、箱を机に置く時、乱暴にはしなかった。
紙の端を傷つけないように、静かに置いた。
悠人はそれを見て、少し安心した。
受け取ってもらえた。
それだけで十分だった。
伊集院は少し間を置いてから尋ねた。
「なぜ、これを選んだ」
悠人は軽く答えた。
「前に紅茶飲んでただろ。合いそうだったから」
伊集院が黙った。
その沈黙は、さっきのお返しを見た時よりも少し長かった。
「……それだけか」
「それだけだけど」
「君は、時々余計なところを見ているな」
「そうか?」
「そうだ」
けれど、その声には本気の不快感はなかった。
悠人は思った。
クリスマスの時、自分は伊集院に栞を渡した。
本を読んでいるのを見ていたから。
使うと思ったから。
今回も、たぶん同じだ。
紅茶を飲んでいたことを覚えていた。
だから、それに合いそうなものを選んだ。
それだけのこと。
でも伊集院にとっては、その「それだけ」が扱いづらいのかもしれない。
伊集院は箱を鞄にしまおうとして、少しだけ迷った。
結局、そのまま机の上に置いた。
「持って帰らないのか?」
悠人が聞くと、伊集院は少しむっとした顔をした。
「持って帰る」
「じゃあ、何で置いたんだ?」
「……確認がまだ終わっていない」
「今、終わったって言っただろ」
「追加確認だ」
「何の?」
「この返礼品の取り扱いについてだ」
「焼き菓子の取り扱い?」
「破損を避ける必要がある」
「丁寧だな」
「当然だ」
伊集院はそう言って、ようやく箱を鞄の中へしまった。
ただし、教科書やノートとは別の場所に、きちんと入れている。
潰れないように。
悠人はそれを見ていたが、何も言わなかった。
言えば、たぶん伊集院はまた「余計な観察をするな」と言う。
しばらく、資料室には静かな空気が流れた。
三月の夕方は、二月より少しだけ明るい。
窓の外には、まだ淡い光が残っている。
冬は終わりかけている。
悠人はふと口にした。
「もうすぐ三年生だな」
伊集院の動きが、ほんの少し止まった。
「そうだな」
短い返事。
けれど、その声は少しだけ低かった。
三年生。
卒業が近づく学年。
今までのように、資料室で確認だと言い張る時間が、いつまで続くのか。
悠人はそこまで考えて、少しだけ黙った。
まだ、重く考えるには早いのかもしれない。
でも、春は近い。
伊集院も、それを意識しているように見えた。
「三年生になっても、確認は継続する」
伊集院が言った。
いつものように、当然だと言う声だった。
悠人は少し笑う。
「まだ続くのか」
「当然だ」
「……まあ、必要があればな」
伊集院がこちらを見る。
「それは私の台詞だ」
「たまには使ってもいいだろ」
「許可していない」
「確認が必要か?」
「不要だ」
「そうか」
いつものやり取り。
けれど、その中に少しだけ違うものが混じっていた。
二年生が終わる。
三年生になる。
確認は続く。
伊集院はそう言った。
それが本当に確認なのか、それとも別の何かなのか。
悠人にはもう、完全にはわからなかった。
けれど、今はそれでよかった。
伊集院が鞄の中の焼き菓子を、少しだけ丁寧にしまい直した。
悠人は、それを見ないふりをした。
春が近づいている。
確認という言葉を抱えたまま、二人は次の季節へ進もうとしていた。