屋敷に戻ると、伊集院レイは自室へ直行した。
使用人が何か声をかけようとしたが、レイは短く「ああ」とだけ答えて廊下を進んだ。
三月の夕方は、もう冬のそれとは違っていた。
窓の外にはまだわずかに明るさが残っている。
空気は冷たいが、その中に少しだけ春の気配が混じっていた。
自室に入る。
扉を閉める。
そこでようやく、レイは鞄を机の上に置いた。
鞄の中から、今日受け取った包みを取り出す。
高瀬悠人から渡された焼き菓子。
落ち着いた包装。
派手ではない。
甘すぎる印象もない。
けれど、適当に選んだものではないことはわかる。
レイはそれを机の上に置いた。
箱の角は潰れていない。
資料室で受け取った時、鞄にしまう位置を少し考えた。
教科書やノートと同じところに入れれば、包装が傷むかもしれない。
だから別の場所に入れた。
合理的な判断だった。
破損を避けるため。
ただそれだけだ。
レイは自分にそう言い聞かせた。
――前に紅茶飲んでただろ。合いそうだったから。
高瀬の声がよみがえる。
レイは、箱から視線を外そうとして、できなかった。
また見られていた。
以前もそうだった。
クリスマスの夜、高瀬は栞を渡してきた。
本をよく読んでいるから。
資料室でも読んでいるし、本屋でも買っていただろうから。
そう言った。
あの時も、レイは戸惑った。
高瀬は、伊集院くんではないところを見ていた。
伊集院家の者としてでもなく、学校中の憧れとしてでもなく、ただ本を読む自分を覚えていた。
そして今回もそうだった。
紅茶を飲んでいたこと。
それを覚えていた。
ただそれだけのことだ。
ただそれだけなのに、扱いづらい。
「……余計なところを覚えている」
そう呟いたが、声にはあまり力がなかった。
レイは椅子に座る。
机の上には焼き菓子。
それを見ながら、今日の資料室を思い出す。
――この前の糖分補給のお返し。
――ホワイトデーだし。
――だから、これも糖分補給。
高瀬はそう言った。
こちらの言葉を使ってきた。
バレンタインの日、レイがチョコレートを糖分補給と言い張ったことを覚えていて、同じ言葉で返してきた。
あれはお返しではない。
いや、形式上はお返しなのだろう。
ホワイトデーという行事に合わせた返礼。
だが意味としては、確認協力への補助に対する返礼。
糖分補給への対価。
合理的な交換。
そう説明できる。
説明できるはずだった。
けれど、その説明はどこか苦しい。
なぜなら高瀬は、押しつけてこなかったからだ。
「チョコをもらったからお返し」
「ホワイトデーだから当然」
「特別な意味がある」
そんなふうには言わなかった。
レイが受け取れるように、逃げ道を残した。
糖分補給のお返し。
その言葉なら、レイは受け取れる。
確認協力への補助。
合理的な交換。
過剰ではない返礼。
そう言える。
高瀬は、その余地を残した。
意味を暴かなかった。
でも、何も返さなかったわけではない。
そこが困る。
レイは、机の上の包みを見た。
高瀬は、こちらの言い訳に合わせてくれた。
それは優しさなのか。
気遣いなのか。
単に、こちらの扱いに慣れてきただけなのか。
どれでもよい。
どれでもよいはずなのに、胸の奥が少しだけ落ち着かない。
レイは机の引き出しを開けた。
そこには、捨てなかったものがある。
喫茶店のレシート。
紅茶。
コーヒー。
ケーキセット。
夏祭りの射的の景品。
小さな箱菓子。
伊集院家の部屋には、まるで似合わないもの。
どちらも、残す必要はなかった。
記録ではない。
証拠でもない。
価値のある品でもない。
ただ、捨てられなかった。
レイは引き出しを見つめる。
それから、本棚に視線を向けた。
外国文学の文庫がある。
その中には、高瀬からもらった栞が挟まっている。
あれは引き出しには入れなかった。
しまうものではなかったからだ。
使えるものだから使っている。
そう説明できる。
そして、机の上には焼き菓子がある。
これはしまうものではない。
食べるものだ。
レシートと景品は、捨てられなかったもの。
栞は、使っているもの。
焼き菓子は、これから食べるもの。
レイは、その違いに気づいてしまった。
高瀬悠人に関わるものが、ただ引き出しの中に残るだけではなくなっている。
本に挟まっている。
机の上に置かれている。
日常の中に入り込んでいる。
「……確認に関わる物品だ」
レイはそう言った。
言ったが、自分でも少し無理があると思った。
秘密を知られた日。
あの時、高瀬悠人はただの危険要素だった。
立ち入り禁止の区域に入り、自分の秘密を見てしまった男子生徒。
処理すべき相手。
監視すべき相手。
だから脅した。
このことを誰かに漏らせば退学させる、と。
その後、資料室へ呼び出した。
監視。
確認。
命令。
それだけだった。
そのはずだった。
けれど、駅前の本屋へ行った。
喫茶店で向かい合って座った。
ケーキを食べた。
夏祭りへ行った。
射的をした。
ラムネを飲んだ。
花火を見た。
クリスマスパーティに招いた。
庭でペンを渡し、栞を受け取った。
バレンタインにチョコレートを渡した。
そして、ホワイトデーに焼き菓子を受け取った。
すべて、確認だと言える。
外部環境での秘密保持確認。
人混みにおける回避行動確認。
行事による動線変化の確認。
確認協力への補助。
補助に対する返礼。
言葉はいくらでもある。
けれど、すべてを確認と呼ぶには、もう少し無理がある。
レイは引き出しを閉めた。
少し強めに閉めてしまい、音が鳴った。
「確認だ」
自分に言い聞かせる。
それ以外ではない。
そうでなければならない。
窓の外を見る。
三月の夕方。
もうすぐ、二年生が終わる。
三年生になる。
その言葉が、胸の奥に落ちる。
三年生。
卒業が近づく学年。
資料室を使える時間も、あと一年。
学校で伊集院くんとして過ごす時間も、あと一年。
高瀬を「確認」と言って呼び出せる時間も、あと一年。
あと一年。
その響きが、思ったより重かった。
冬休みに聞いた言葉が、また頭をよぎる。
――高校を卒業されるまでは、今の形を維持していただかなくては。
――伊集院家の看板に関わることですので。
――レイ様にも、そのお立場をお忘れなきよう。
卒業まで。
少なくとも、それまでは。
伊集院レイは、伊集院くんとして立ち続けなければならない。
なぜそうしなければならないのか。
それを誰が決めたのか。
本当にそれ以外の道がないのか。
それらを考えても、答えはすぐには出ない。
ただ、今の形には期限がある。
そのことだけは、確かだった。
レイは机の上の焼き菓子を見る。
三年生になっても、確認は継続する。
今日、自分はそう言った。
高瀬の前で。
当然のように。
なぜ、そう言ったのか。
高瀬悠人の秘密保持を確認するため。
卒業まで油断できないから。
伊集院家の事情があるから。
これまで積み上げてきた確認体制を急に停止する理由がないから。
理由はいくらでもある。
どれも間違いではない。
けれど。
本当は、もっと単純な理由があるのではないか。
高瀬と会う理由を、まだ失いたくなかった。
そこまで考えかけて、レイは止めた。
考える必要はない。
それは不要な仮定だ。
確認を続ける理由は、確認が必要だからだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
三年生になっても、高瀬悠人は秘密を知っている。
だから確認は必要だ。
卒業まで、監視を怠るわけにはいかない。
伊集院家の事情もある。
不測の事態を避けるためにも、定期的な確認は合理的だ。
説明は成立する。
成立するなら、それでいい。
レイは焼き菓子の箱を手に取った。
包装を傷つけないように、丁寧に置き直す。
丁寧に扱ったのは、破損を避けるためだ。
そう説明できる。
本棚には、栞の挟まった文庫がある。
栞は使えるものだから使っている。
そう説明できる。
引き出しには、喫茶店のレシートと夏祭りの景品がある。
捨てる必要がなかったから残している。
そう説明できる。
全部、説明できる。
だから問題はない。
「三年生になっても、確認は必要だ」
レイは静かに言った。
「それだけだ」
理由を、それ以上考える必要はない。
机の上には、高瀬からの焼き菓子がある。
本には、高瀬からの栞が挟まっている。
引き出しには、喫茶店のレシートと夏祭りの景品がある。
そのどれもが、何も言わずにそこにあった。
レイはそれらから目を逸らし、窓の外を見た。
春が近づいている。
三年生になっても、確認は続く。
そう結論づけた。
けれど、確認を続ける理由だけは、最後まで考えないことにした。