扉が閉まった音がした。
高瀬悠人が出ていった後、部屋の中には静寂だけが残った。
伊集院レイは、しばらく動かなかった。
壁際に立ったまま、扉を見つめる。
その向こうには、いつものきらめき高校がある。
廊下を急ぐ生徒の足音。
次の授業へ向かうざわめき。
誰かの笑い声。
予鈴の名残。
何も変わっていない。
この部屋の外では、いつも通りの時間が流れている。
けれどレイの中では、何かが決定的に壊れかけていた。
見られた。
知られた。
伊集院レイが女であることを。
きらめき高校で、伊集院くんとして通っているはずの自分が、本当は少女であることを。
「……っ」
息を吐こうとして、喉が詰まった。
それがひどく腹立たしかった。
動揺している。
自分が。
伊集院レイが。
そんなことは、あってはならない。
レイはゆっくりと視線を落とした。
制服は整っている。
襟元も乱れていない。
ネクタイも結び直した。
上着もきちんと着ている。
袖口も、いつも通り。
外に出れば、誰も気づかない。
いつもの伊集院レイ。
成績優秀で、容姿端麗で、女子生徒から憧れられ、男子生徒からは忌々しげに見られる、伊集院家の御曹司。
完璧な“伊集院くん”。
そう見えるはずだった。
けれど、レイ自身は知っている。
さっきの一瞬、高瀬悠人の前で、その仮面は剥がれた。
余裕などなかった。
気品も、威厳も、何もなかった。
ただ、秘密を見られた少女がそこにいた。
「……失態だ」
呟いた声は、冷たく響いた。
誰に向けた言葉でもない。
自分自身への言葉だった。
伊集院レイは、失態を嫌う。
隙を見せることも、弱みを握られることも、予定外の事態に取り乱すことも、すべて嫌いだった。
伊集院家の者として、常に正しくあらねばならない。
常に優雅に。
常に冷静に。
常に一段上から周囲を見るように。
そう教えられてきた。
そして実際、レイはそうしてきた。
学校では、伊集院レイとして振る舞った。
女子に囲まれても、笑って受け流した。
男子に反感を向けられても、気に留めなかった。
教師に特別扱いされても、当然の顔をした。
誰にも、本当の自分を見せなかった。
見せる必要などないと思っていた。
いや。
見せてはいけなかった。
伊集院レイは、男子生徒としてきらめき高校にいる。
その前提が崩れたら、すべてが崩れる。
学校での立場。
伊集院家の体面。
自分が積み上げてきた日常。
周囲の視線。
女子生徒たちの憧れ。
男子生徒たちの反感。
そのすべてが、一瞬で別の意味を持ってしまう。
「伊集院レイは女だった」
その一言が広まれば、どうなるか。
想像するだけで、胸の奥が冷えた。
好奇の視線。
噂。
詮索。
笑い。
失望。
裏切られたという声。
面白がる声。
伊集院くん、と呼んでいた者たちは、何を見るのだろう。
伊集院家の者を見るのか。
女でありながら男として通っていた奇妙な存在を見るのか。
それとも、嘘をついていた人間として見るのか。
レイは、奥歯を噛んだ。
駄目だ。
そんなことは許されない。
絶対に。
だから脅した。
退学させる、と。
伊集院家にとって、それは不可能ではない。
高瀬悠人がもし秘密を漏らせば、こちらも手段を選ぶつもりはない。
その覚悟はあった。
けれど、レイは理解していた。
あの脅しは、高瀬を黙らせるためだけのものではなかった。
自分が立っているために必要だった。
脅さなければ、声が震えていたかもしれない。
命令しなければ、何を言えばいいかわからなかったかもしれない。
退学という言葉を持ち出さなければ、彼の前で自分の恐怖を見せてしまっていたかもしれない。
「……くだらない」
レイは吐き捨てるように言った。
だが、その声に力はなかった。
高瀬悠人。
レイは、先ほど確認した名前を胸の中で繰り返した。
名前は知っていた。
同じ学校の生徒なのだから当然だ。
だが、特別な印象があったわけではない。
伊集院レイの周囲にいる人間たちの中で、高瀬悠人は目立つ存在ではなかった。
成績が極端に良いわけでもない。
運動で騒がれるタイプでもない。
女子生徒に囲まれるような華やかさもない。
男子の中心に立って場を仕切るような派手さもない。
普通の生徒。
そう思っていた。
だが今日、その普通の少年が、自分の最大の秘密を知った。
そして、彼は言った。
――言わないよ。
あまりに早かった。
あまりに簡単だった。
まるで、最初からそう決めていたかのように。
レイは眉を寄せた。
信じられない。
信じてはいけない。
人は、秘密を知れば使いたがる。
面白がる者もいる。
優位に立とうとする者もいる。
善意のふりをして踏み込んでくる者もいる。
だから、信じてはいけない。
特に、こんな秘密は。
けれど。
――こんなの、俺が面白半分で話していいことじゃない。
その言葉が、頭から離れなかった。
高瀬は動揺していた。
間違いなく混乱していた。
見てはいけないものを見たと理解して、慌てて背を向けた。
声も上ずっていた。
質問したいこともあったはずだ。
なぜ女なのか。
なぜ男として通っているのか。
誰が知っているのか。
伊集院家は何をしているのか。
当然、聞きたかっただろう。
だが高瀬は聞かなかった。
少なくとも、その場では。
ただ、言わないと言った。
信じろとは言わない、とも言った。
「……愚かだな」
レイは小さく呟いた。
それは高瀬に向けた言葉だったのか。
それとも、その言葉に一瞬でも揺れた自分に向けた言葉だったのか。
わからなかった。
部屋の隅に置かれた小さな鏡に、自分の姿が映っている。
レイはそこへ歩いた。
鏡の中には、いつもの伊集院レイがいた。
整った顔立ち。
隙のない制服。
乱れていない髪。
冷静な目。
よくできた仮面。
レイは鏡の中の自分を見つめた。
「君は、誰だ」
小さく問いかける。
答えはわかっている。
伊集院レイ。
伊集院家の人間。
きらめき高校の男子生徒。
学校中が知る、完璧な伊集院くん。
それが答えだ。
ずっとそう答えてきた。
そう答えられるように振る舞ってきた。
けれど、ほんの少し前。
高瀬悠人は、その仮面の内側を見た。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だった。
それでも、見られた。
見られたという事実が、レイの胸をざわつかせていた。
恐ろしい。
屈辱的だ。
腹立たしい。
なのに。
その奥に、別の感情があった。
誰かに知られた。
誰か一人が、本当の自分を知ってしまった。
それは、恐怖のはずだった。
実際、怖い。
今も、怖い。
だが、完全に恐怖だけではない。
胸の奥に、小さな棘のような違和感がある。
それが何なのか、レイにはわからなかった。
わかりたくもなかった。
「……監視する」
そう決めた。
高瀬悠人を監視する。
秘密を守るかどうかを確かめる。
不用意な発言をしないか見る。
誰かに漏らす兆候があれば、すぐに手を打つ。
それは当然の判断だ。
危険人物を野放しにするわけにはいかない。
そうだ。
それだけだ。
レイは、自分に言い聞かせた。
決して、彼がどう自分を見るのか気になるわけではない。
決して、彼が本当に秘密を守るのか確かめたいわけではない。
決して、先ほどの言葉をもう一度聞きたいわけではない。
――言わない。
あの短い言葉を思い出して、レイは唇を引き結んだ。
気に入らない。
ああいう言い方は、気に入らない。
脅されてもいないうちから、まるで自分の判断でそうするように言う。
伊集院家の力を恐れたからではなく、彼自身がそうすべきだと思ったから黙る。
それは、レイにとって扱いづらい相手だった。
権力で従わせることは簡単だ。
恐怖で黙らせることもできる。
けれど、自分の意思で黙ると言う相手には、どう接すればいいのかわからない。
「……面倒な男だ」
レイは鏡から視線を外した。
予鈴から少し時間が経っている。
そろそろ教室へ行かなければならない。
遅れれば、周囲は不審に思うかもしれない。
いや、伊集院レイが少し遅れたところで、教師は大きく咎めないだろう。
それもまた、伊集院家の力だ。
レイは深く息を吸った。
吐く。
もう大丈夫だ。
声は震えない。
表情も戻っている。
伊集院レイとして、教室へ戻れる。
そう思った時、ふいに高瀬の表情が浮かんだ。
見てしまった直後の顔。
驚き。
混乱。
気まずさ。
申し訳なさ。
そして、最後に扉を開ける前の顔。
「本当に、誰にも言わない」
そう言った時の、妙にまっすぐな目。
レイは、苛立つように目を伏せた。
「信じるな」
自分に言い聞かせる。
「信じれば、隙になる」
誰かを信じることは、弱みを増やすことだ。
伊集院レイには、弱みなど必要ない。
ましてや、高瀬悠人のような普通の男子生徒に、そんなものを握らせるなどあり得ない。
彼は秘密を知った。
ただそれだけだ。
だから監視する。
利用する。
必要なら脅す。
それでいい。
それで、すべて管理できる。
レイは鞄を手に取った。
扉へ向かう。
だが、扉の前で一度だけ足が止まった。
彼女は振り返り、先ほどまで自分が着替えていた場所を見た。
そこにはもう何もない。
乱れた衣服も片付けた。
痕跡はない。
秘密は、また壁の内側に戻った。
けれど、完全には戻らない。
高瀬悠人が知っている。
その事実だけは消えない。
それが恐ろしくて。
同時に、どこかで奇妙な感覚を残していた。
「……私を見たこと、後悔させてやる」
そう呟いた。
いつもの伊集院レイなら、それは完全な脅しになっただろう。
けれど今の声には、ほんの少しだけ違うものが混じっていた。
怒り。
不安。
そして、自分でも認めたくないほど小さな期待。
高瀬悠人。
普通の男子生徒。
秘密を知った危険人物。
伊集院レイが、初めて“少女”として見られてしまった相手。
レイは扉を開けた。
廊下の空気が流れ込んでくる。
その瞬間、彼女の表情は切り替わった。
背筋を伸ばす。
顎を上げる。
目元に余裕を戻す。
いつもの伊集院レイになる。
教室へ戻れば、誰も気づかない。
女子生徒たちは、きっといつものように伊集院くんへ視線を向ける。
男子たちは、また面白くなさそうに顔をそむける。
教師は、伊集院家の名前を意識して、何も言わないかもしれない。
世界はいつも通りに動く。
そのはずだった。
けれど、レイだけはもう知っている。
その世界の中に、たった一人、自分の秘密を知る少年がいることを。
そして、その少年を自分は監視しなければならない。
そう。
監視だ。
それ以外の何ものでもない。
伊集院レイはそう結論づけて、廊下を歩き出した。
足音は、いつも通り静かだった。
けれど胸の奥では、さっき閉めたはずの扉が、まだ少しだけ開いたままだった。