伊集院レイは、伝説の木の下で少女になる   作:エーアイ

2 / 36
伊集院さん視点の幕間です。


幕間:伊集院レイは、終わりを覚悟する

 扉が閉まった音がした。

 

 高瀬悠人が出ていった後、部屋の中には静寂だけが残った。

 

 伊集院レイは、しばらく動かなかった。

 

 壁際に立ったまま、扉を見つめる。

 

 その向こうには、いつものきらめき高校がある。

 

 廊下を急ぐ生徒の足音。

 次の授業へ向かうざわめき。

 誰かの笑い声。

 予鈴の名残。

 

 何も変わっていない。

 

 この部屋の外では、いつも通りの時間が流れている。

 

 けれどレイの中では、何かが決定的に壊れかけていた。

 

 見られた。

 

 知られた。

 

 伊集院レイが女であることを。

 

 きらめき高校で、伊集院くんとして通っているはずの自分が、本当は少女であることを。

 

 「……っ」

 

 息を吐こうとして、喉が詰まった。

 

 それがひどく腹立たしかった。

 

 動揺している。

 

 自分が。

 

 伊集院レイが。

 

 そんなことは、あってはならない。

 

 レイはゆっくりと視線を落とした。

 

 制服は整っている。

 

 襟元も乱れていない。

 ネクタイも結び直した。

 上着もきちんと着ている。

 袖口も、いつも通り。

 

 外に出れば、誰も気づかない。

 

 いつもの伊集院レイ。

 

 成績優秀で、容姿端麗で、女子生徒から憧れられ、男子生徒からは忌々しげに見られる、伊集院家の御曹司。

 

 完璧な“伊集院くん”。

 

 そう見えるはずだった。

 

 けれど、レイ自身は知っている。

 

 さっきの一瞬、高瀬悠人の前で、その仮面は剥がれた。

 

 余裕などなかった。

 

 気品も、威厳も、何もなかった。

 

 ただ、秘密を見られた少女がそこにいた。

 

 「……失態だ」

 

 呟いた声は、冷たく響いた。

 

 誰に向けた言葉でもない。

 

 自分自身への言葉だった。

 

 伊集院レイは、失態を嫌う。

 

 隙を見せることも、弱みを握られることも、予定外の事態に取り乱すことも、すべて嫌いだった。

 

 伊集院家の者として、常に正しくあらねばならない。

 

 常に優雅に。

 常に冷静に。

 常に一段上から周囲を見るように。

 

 そう教えられてきた。

 

 そして実際、レイはそうしてきた。

 

 学校では、伊集院レイとして振る舞った。

 

 女子に囲まれても、笑って受け流した。

 男子に反感を向けられても、気に留めなかった。

 教師に特別扱いされても、当然の顔をした。

 

 誰にも、本当の自分を見せなかった。

 

 見せる必要などないと思っていた。

 

 いや。

 

 見せてはいけなかった。

 

 伊集院レイは、男子生徒としてきらめき高校にいる。

 

 その前提が崩れたら、すべてが崩れる。

 

 学校での立場。

 伊集院家の体面。

 自分が積み上げてきた日常。

 周囲の視線。

 女子生徒たちの憧れ。

 男子生徒たちの反感。

 

 そのすべてが、一瞬で別の意味を持ってしまう。

 

 「伊集院レイは女だった」

 

 その一言が広まれば、どうなるか。

 

 想像するだけで、胸の奥が冷えた。

 

 好奇の視線。

 噂。

 詮索。

 笑い。

 失望。

 裏切られたという声。

 面白がる声。

 

 伊集院くん、と呼んでいた者たちは、何を見るのだろう。

 

 伊集院家の者を見るのか。

 女でありながら男として通っていた奇妙な存在を見るのか。

 それとも、嘘をついていた人間として見るのか。

 

 レイは、奥歯を噛んだ。

 

 駄目だ。

 

 そんなことは許されない。

 

 絶対に。

 

 だから脅した。

 

 退学させる、と。

 

 伊集院家にとって、それは不可能ではない。

 

 高瀬悠人がもし秘密を漏らせば、こちらも手段を選ぶつもりはない。

 

 その覚悟はあった。

 

 けれど、レイは理解していた。

 

 あの脅しは、高瀬を黙らせるためだけのものではなかった。

 

 自分が立っているために必要だった。

 

 脅さなければ、声が震えていたかもしれない。

 

 命令しなければ、何を言えばいいかわからなかったかもしれない。

 

 退学という言葉を持ち出さなければ、彼の前で自分の恐怖を見せてしまっていたかもしれない。

 

 「……くだらない」

 

 レイは吐き捨てるように言った。

 

 だが、その声に力はなかった。

 

 高瀬悠人。

 

 レイは、先ほど確認した名前を胸の中で繰り返した。

 

 名前は知っていた。

 

 同じ学校の生徒なのだから当然だ。

 

 だが、特別な印象があったわけではない。

 

 伊集院レイの周囲にいる人間たちの中で、高瀬悠人は目立つ存在ではなかった。

 

 成績が極端に良いわけでもない。

 運動で騒がれるタイプでもない。

 女子生徒に囲まれるような華やかさもない。

 男子の中心に立って場を仕切るような派手さもない。

 

 普通の生徒。

 

 そう思っていた。

 

 だが今日、その普通の少年が、自分の最大の秘密を知った。

 

 そして、彼は言った。

 

 ――言わないよ。

 

 あまりに早かった。

 

 あまりに簡単だった。

 

 まるで、最初からそう決めていたかのように。

 

 レイは眉を寄せた。

 

 信じられない。

 

 信じてはいけない。

 

 人は、秘密を知れば使いたがる。

 

 面白がる者もいる。

 優位に立とうとする者もいる。

 善意のふりをして踏み込んでくる者もいる。

 

 だから、信じてはいけない。

 

 特に、こんな秘密は。

 

 けれど。

 

 ――こんなの、俺が面白半分で話していいことじゃない。

 

 その言葉が、頭から離れなかった。

 

 高瀬は動揺していた。

 

 間違いなく混乱していた。

 

 見てはいけないものを見たと理解して、慌てて背を向けた。

 

 声も上ずっていた。

 

 質問したいこともあったはずだ。

 

 なぜ女なのか。

 なぜ男として通っているのか。

 誰が知っているのか。

 伊集院家は何をしているのか。

 

 当然、聞きたかっただろう。

 

 だが高瀬は聞かなかった。

 

 少なくとも、その場では。

 

 ただ、言わないと言った。

 

 信じろとは言わない、とも言った。

 

 「……愚かだな」

 

 レイは小さく呟いた。

 

 それは高瀬に向けた言葉だったのか。

 それとも、その言葉に一瞬でも揺れた自分に向けた言葉だったのか。

 

 わからなかった。

 

 部屋の隅に置かれた小さな鏡に、自分の姿が映っている。

 

 レイはそこへ歩いた。

 

 鏡の中には、いつもの伊集院レイがいた。

 

 整った顔立ち。

 隙のない制服。

 乱れていない髪。

 冷静な目。

 

 よくできた仮面。

 

 レイは鏡の中の自分を見つめた。

 

 「君は、誰だ」

 

 小さく問いかける。

 

 答えはわかっている。

 

 伊集院レイ。

 

 伊集院家の人間。

 

 きらめき高校の男子生徒。

 

 学校中が知る、完璧な伊集院くん。

 

 それが答えだ。

 

 ずっとそう答えてきた。

 

 そう答えられるように振る舞ってきた。

 

 けれど、ほんの少し前。

 

 高瀬悠人は、その仮面の内側を見た。

 

 ほんの一瞬。

 

 本当に一瞬だった。

 

 それでも、見られた。

 

 見られたという事実が、レイの胸をざわつかせていた。

 

 恐ろしい。

 

 屈辱的だ。

 

 腹立たしい。

 

 なのに。

 

 その奥に、別の感情があった。

 

 誰かに知られた。

 

 誰か一人が、本当の自分を知ってしまった。

 

 それは、恐怖のはずだった。

 

 実際、怖い。

 

 今も、怖い。

 

 だが、完全に恐怖だけではない。

 

 胸の奥に、小さな棘のような違和感がある。

 

 それが何なのか、レイにはわからなかった。

 

 わかりたくもなかった。

 

 「……監視する」

 

 そう決めた。

 

 高瀬悠人を監視する。

 

 秘密を守るかどうかを確かめる。

 不用意な発言をしないか見る。

 誰かに漏らす兆候があれば、すぐに手を打つ。

 

 それは当然の判断だ。

 

 危険人物を野放しにするわけにはいかない。

 

 そうだ。

 

 それだけだ。

 

 レイは、自分に言い聞かせた。

 

 決して、彼がどう自分を見るのか気になるわけではない。

 

 決して、彼が本当に秘密を守るのか確かめたいわけではない。

 

 決して、先ほどの言葉をもう一度聞きたいわけではない。

 

 ――言わない。

 

 あの短い言葉を思い出して、レイは唇を引き結んだ。

 

 気に入らない。

 

 ああいう言い方は、気に入らない。

 

 脅されてもいないうちから、まるで自分の判断でそうするように言う。

 

 伊集院家の力を恐れたからではなく、彼自身がそうすべきだと思ったから黙る。

 

 それは、レイにとって扱いづらい相手だった。

 

 権力で従わせることは簡単だ。

 

 恐怖で黙らせることもできる。

 

 けれど、自分の意思で黙ると言う相手には、どう接すればいいのかわからない。

 

 「……面倒な男だ」

 

 レイは鏡から視線を外した。

 

 予鈴から少し時間が経っている。

 

 そろそろ教室へ行かなければならない。

 

 遅れれば、周囲は不審に思うかもしれない。

 

 いや、伊集院レイが少し遅れたところで、教師は大きく咎めないだろう。

 

 それもまた、伊集院家の力だ。

 

 レイは深く息を吸った。

 

 吐く。

 

 もう大丈夫だ。

 

 声は震えない。

 

 表情も戻っている。

 

 伊集院レイとして、教室へ戻れる。

 

 そう思った時、ふいに高瀬の表情が浮かんだ。

 

 見てしまった直後の顔。

 

 驚き。

 混乱。

 気まずさ。

 申し訳なさ。

 

 そして、最後に扉を開ける前の顔。

 

 「本当に、誰にも言わない」

 

 そう言った時の、妙にまっすぐな目。

 

 レイは、苛立つように目を伏せた。

 

 「信じるな」

 

 自分に言い聞かせる。

 

 「信じれば、隙になる」

 

 誰かを信じることは、弱みを増やすことだ。

 

 伊集院レイには、弱みなど必要ない。

 

 ましてや、高瀬悠人のような普通の男子生徒に、そんなものを握らせるなどあり得ない。

 

 彼は秘密を知った。

 

 ただそれだけだ。

 

 だから監視する。

 

 利用する。

 

 必要なら脅す。

 

 それでいい。

 

 それで、すべて管理できる。

 

 レイは鞄を手に取った。

 

 扉へ向かう。

 

 だが、扉の前で一度だけ足が止まった。

 

 彼女は振り返り、先ほどまで自分が着替えていた場所を見た。

 

 そこにはもう何もない。

 

 乱れた衣服も片付けた。

 痕跡はない。

 秘密は、また壁の内側に戻った。

 

 けれど、完全には戻らない。

 

 高瀬悠人が知っている。

 

 その事実だけは消えない。

 

 それが恐ろしくて。

 

 同時に、どこかで奇妙な感覚を残していた。

 

 「……私を見たこと、後悔させてやる」

 

 そう呟いた。

 

 いつもの伊集院レイなら、それは完全な脅しになっただろう。

 

 けれど今の声には、ほんの少しだけ違うものが混じっていた。

 

 怒り。

 

 不安。

 

 そして、自分でも認めたくないほど小さな期待。

 

 高瀬悠人。

 

 普通の男子生徒。

 

 秘密を知った危険人物。

 

 伊集院レイが、初めて“少女”として見られてしまった相手。

 

 レイは扉を開けた。

 

 廊下の空気が流れ込んでくる。

 

 その瞬間、彼女の表情は切り替わった。

 

 背筋を伸ばす。

 

 顎を上げる。

 

 目元に余裕を戻す。

 

 いつもの伊集院レイになる。

 

 教室へ戻れば、誰も気づかない。

 

 女子生徒たちは、きっといつものように伊集院くんへ視線を向ける。

 

 男子たちは、また面白くなさそうに顔をそむける。

 

 教師は、伊集院家の名前を意識して、何も言わないかもしれない。

 

 世界はいつも通りに動く。

 

 そのはずだった。

 

 けれど、レイだけはもう知っている。

 

 その世界の中に、たった一人、自分の秘密を知る少年がいることを。

 

 そして、その少年を自分は監視しなければならない。

 

 そう。

 

 監視だ。

 

 それ以外の何ものでもない。

 

 伊集院レイはそう結論づけて、廊下を歩き出した。

 

 足音は、いつも通り静かだった。

 

 けれど胸の奥では、さっき閉めたはずの扉が、まだ少しだけ開いたままだった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。