伊集院レイは、伝説の木の下で少女になる   作:エーアイ

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伊集院レイは、三年生になる

 三年生になっても、校舎が変わるわけではなかった。

 

 廊下も、階段も、窓から見える中庭も、去年と大きく違っているわけではない。

 

 それでも、高瀬悠人には、教室の窓から見える景色が少しだけ違って見えた。

 

 新しい教室。

 

 新しい座席。

 

 新しい担任。

 

 そして、黒板の端に書かれた文字。

 

 進路希望調査 提出期限

 

 その文字だけが、三年生になったことを妙に現実的にしていた。

 

 春の教室は、どこか落ち着かない。

 

 新学期特有のざわつき。

 久しぶりに顔を合わせた生徒たちの声。

 新しいクラスになって、少し距離を測るような会話。

 

 悠人は、自分の机に配られた進路希望調査の紙を見下ろした。

 

 第一志望。

 第二志望。

 進学希望。

 就職希望。

 保護者確認欄。

 

 空欄が並んでいる。

 

 去年までは、進路という言葉はまだ少し遠かった。

 

 だが三年生になると、急に目の前へ置かれる。

 

 何かを書かなければならない。

 

 書いたからといって、それで決まるわけではない。

 それでも、何も考えていないわけにはいかない。

 

 隣の席の友人が、同じ紙をひらひらさせながら声をかけてきた。

 

 「高瀬、お前どこ書く?」

 

 「まだ決めてない」

 

 「地元?」

 

 「たぶん。近くの大学も見てる」

 

 「現実的だな」

 

 「まあ、家から通えるし。遠くに行く理由も今のところないし」

 

 言ってから、悠人は少しだけその言葉を意識した。

 

 遠くに行く理由。

 

 自分には、まだない。

 

 成績を考えて、学費を考えて、家から通える場所を考える。

 

 それは、普通の高校三年生としては自然なことだと思う。

 

 友人は進路希望調査に適当な線を引きながら言った。

 

 「俺も近場かな。遠いと面倒だし」

 

 「そんな理由でいいのか?」

 

 「最初はそんなもんだろ。あとで真面目に考える」

 

 「たぶん提出前日に焦るやつだな」

 

 「お前もな」

 

 悠人は苦笑した。

 

 教室の中では、同じように進路の話があちこちで始まっていた。

 

 大学。

 専門学校。

 推薦。

 受験。

 就職。

 

 言葉だけなら聞き慣れているはずなのに、それが急に自分たちのものになっている。

 

 「そういやさ」

 

 別の友人が会話に混ざってきた。

 

 「伊集院って進路どうすんだろうな」

 

 悠人の手が、少しだけ止まった。

 

 「伊集院?」

 

 「ああ。伊集院家だし、もう決まってるんじゃないか?」

 

 「海外とか行きそうだよな」

 

 「帝王学ってやつ? なんかそういうの学ぶんだろ」

 

 軽い噂話だった。

 

 誰も深く考えて言っているわけではない。

 

 伊集院レイ。

 

 きらめき高校の中でも、特別な存在。

 

 伊集院くん。

 

 女子生徒たちに憧れられ、男子たちからもどこか距離を置かれる完璧な生徒。

 

 だから、卒業後もきっと特別なのだろう。

 

 海外。

 

 渡米。

 

 帝王学。

 

 卒業後。

 

 それらの言葉は、悠人が知っている伊集院とは、まるで別の場所にあるように聞こえた。

 

 資料室。

 駅前の本屋。

 喫茶店。

 夏祭り。

 クリスマスの庭。

 バレンタインの糖分補給。

 ホワイトデーの焼き菓子。

 

 そういう記憶とは別の場所。

 

 もっと遠くて、もっと大きくて、高瀬悠人の日常からは少し離れた世界。

 

 悠人は進路希望調査の紙を見下ろした。

 

 自分は地元か近くの大学を考えている。

 

 伊集院は、海外へ行くかもしれない。

 

 その差は、思ったより大きく感じられた。

 

 昼休み。

 

 悠人は購買へ向かう途中、廊下で伊集院レイを見かけた。

 

 三年生になっても、伊集院とは別クラスだった。

 

 それ自体は自然なことだった。

 

 別クラスだから、日中に顔を合わせる機会はそれほど多くない。

 

 だからこそ、廊下で見かける伊集院は、いつも少し遠く見える。

 

 その日も、伊集院は女子生徒たちに囲まれていた。

 

 新学期だというのに、相変わらず隙がない。

 

 制服はきちんと整っている。

 立ち姿も、声の調子も、周囲への対応も、完璧だった。

 

 三年生になっても、伊集院くんは伊集院くんだった。

 

 女子生徒の一人が、少し遠慮がちに尋ねる。

 

 「伊集院様は、卒業後は海外へ行かれるんですか?」

 

 その言葉に、周囲の女子たちも興味を示した。

 

 「やっぱり、伊集院家の方ですものね」

 

 「海外で勉強されるんですか?」

 

 伊集院は穏やかに微笑んだ。

 

 「そういう話もある」

 

 否定はしない。

 

 だが、肯定もしない。

 

 女子生徒たちは感心したように声を上げる。

 

 「やっぱりすごいですね」

 

 「伊集院様らしいです」

 

 伊集院は、微笑みを崩さずに答えた。

 

 「まだ正式に話すことではない」

 

 その声は落ち着いていた。

 

 誰にも余計な期待を持たせず、けれど失礼にもならない。

 

 完璧な返しだった。

 

 悠人は少し離れた場所で、その会話を聞いていた。

 

 海外。

 

 卒業後。

 

 その言葉が、また胸の中に残る。

 

 去年まで、伊集院との関係は放課後の資料室で続いていた。

 

 カードが入っていて、旧校舎へ行く。

 伊集院が待っている。

 遅いと言われる。

 確認だと言われる。

 そして、何だかんだで話をする。

 

 その繰り返しだった。

 

 けれど、卒業後という言葉が入ると、急に距離が見える。

 

 資料室の外にあるもの。

 

 学校の外にあるもの。

 

 伊集院家の世界。

 

 高瀬悠人がまだ知らない場所。

 

 悠人は、その場を通り過ぎた。

 

 伊集院とは目が合わなかった。

 

 それでも、胸の奥に何かが残った。

 

 放課後。

 

 悠人の机の中には、一枚のカードが入っていた。

 

 放課後、資料室へ。

 確認事項あり。

 伊集院レイ

 

 見慣れた文字。

 

 見慣れた文面。

 

 それを見て、悠人は少しだけ安心した。

 

 三年生になっても、確認は続くらしい。

 

 そのことが、少しだけ嬉しいような気がした。

 

 だが同時に、今までとは少し違う気もした。

 

 同じカード。

 

 同じ資料室。

 

 同じ確認。

 

 けれど、そこに「卒業まで」という言葉が入り込んでいる。

 

 悠人はカードをしまい、旧校舎へ向かった。

 

 三階の廊下は、相変わらず少し静かだった。

 

 新学期の校舎全体は慌ただしいのに、ここだけは時間がゆっくり流れているように感じる。

 

 資料室の前で、悠人は軽く扉を叩いた。

 

 「入れ」

 

 聞き慣れた声。

 

 悠人は扉を開けた。

 

 伊集院は、いつもの窓際の机で待っていた。

 

 制服姿。

 背筋を伸ばし、机の上には数枚の紙。

 

 まるで二年生の頃と何も変わっていないように見える。

 

 「遅い」

 

 「時間通りだ」

 

 「私より後に来た」

 

 「三年生になってもそれなんだな」

 

 「当然だ」

 

 いつものやり取りだった。

 

 悠人は椅子に座る。

 

 それだけで、少しだけ空気が戻る。

 

 資料室の中では、伊集院は学校の廊下で見る伊集院くんとは少し違う。

 

 もちろん、完全に素を見せているわけではない。

 

 相変わらず言い張る。

 相変わらず命令する。

 相変わらず確認だと言う。

 

 それでも、ここでは高瀬悠人にしか見せない表情がある。

 

 「で、今日の確認は?」

 

 悠人が聞くと、伊集院は紙を一枚手に取った。

 

 「高瀬。進路希望はどうした」

 

 「いきなりだな」

 

 「卒業後の行動範囲は、確認体制に影響する」

 

 「確認体制って何だよ」

 

 「重要な事項だ」

 

 伊集院は真面目な顔で言った。

 

 悠人は少しだけ肩をすくめる。

 

 「まだはっきり決めてない。地元か、近くの大学かな」

 

 「理由は」

 

 「家から通えるし、学費も現実的だし。あと、遠くに行く理由もまだない」

 

 伊集院の指が、紙の端でわずかに止まった。

 

 「……そうか」

 

 短い返事だった。

 

 悠人は、その反応が少し気になった。

 

 「何か変か?」

 

 「変ではない」

 

 「ならいいけど」

 

 「現実的な判断だ」

 

 「褒めてる?」

 

 「評価だ」

 

 「いつも通りだな」

 

 「当然だ」

 

 会話はいつもの形に戻った。

 

 けれど、伊集院の「そうか」は、少しだけ耳に残った。

 

 遠くに行く理由もまだない。

 

 悠人にとっては、何気なく言った言葉だった。

 

 けれど伊集院にとっては、違う意味を持ったのかもしれない。

 

 今度は悠人が聞き返した。

 

 「伊集院は?」

 

 「何がだ」

 

 「進路。噂で聞いた。卒業後、海外に行くかもしれないって」

 

 資料室の空気が、少しだけ変わった。

 

 伊集院はすぐには答えなかった。

 

 窓の外へ視線を向ける。

 

 春の光が、古いガラス越しに差し込んでいる。

 

 「帝王学を学ぶため、渡米する可能性はある」

 

 「帝王学……」

 

 悠人はその言葉を繰り返した。

 

 教室で友人が軽く言っていた言葉。

 

 だが、伊集院本人の口から聞くと、まるで重さが違った。

 

 「伊集院家の者として、必要な教育だ」

 

 「そっか。すごいな」

 

 「すごい、という話ではない」

 

 伊集院は即座に言った。

 

 その声には、少しだけ硬さがあった。

 

 悠人は言い直す。

 

 「じゃあ、大変だな」

 

 伊集院はわずかに目を伏せた。

 

 「慣れている」

 

 「またそれか」

 

 クリスマスの庭でも、バレンタインの時も、似たような言葉を聞いた。

 

 慣れている。

 

 そうしなければならないだけだ。

 

 伊集院は、そういうことを簡単に言う。

 

 簡単に言うように見せる。

 

 けれど悠人はもう、それが本当に軽い言葉ではないことを知っていた。

 

 「伊集院は、行きたいのか?」

 

 そう聞きかけて、悠人は止めた。

 

 まだ早い気がした。

 

 それを今聞くことは、伊集院が自分で言わない扉を無理に開けることになる。

 

 だから、代わりに黙った。

 

 伊集院はその沈黙に気づいたようだった。

 

 「何だ」

 

 「いや」

 

 「言いたいことがあるなら言え」

 

 「言わない方がいいこともあるだろ」

 

 伊集院は少しだけ眉を寄せた。

 

 「君は時々、余計なところで慎重になる」

 

 「伊集院相手だからな」

 

 「私のせいにするな」

 

 「じゃあ俺の判断」

 

 「それも不十分だ」

 

 それでも、伊集院はそれ以上追及しなかった。

 

 少しだけ沈黙が落ちる。

 

 やがて伊集院は、静かに言った。

 

 「高校を卒業するまでは、今の形を維持する必要がある」

 

 悠人は顔を上げた。

 

 「今の形?」

 

 伊集院は一度だけ言葉を選ぶように間を置いた。

 

 「……伊集院くんとして、という意味だ」

 

 悠人は黙った。

 

 その言葉は、今までの秘密とは少し違って聞こえた。

 

 伊集院が男装していることは、最初から知っている。

 

 だが、それがいつまで続くのか。

 なぜ続けなければならないのか。

 そこまでは、はっきり聞いたことがなかった。

 

 伊集院は続けた。

 

 「家のしきたりだ。外では、そう振る舞うことになっている」

 

 「卒業まで?」

 

 「そうだ」

 

 伊集院の声は静かだった。

 

 説明というより、決められた事実を読み上げているようだった。

 

 「伊集院家には、外に見せなければならない形がある。それを崩す時期は、私一人で決められるものではない」

 

 悠人は、その言葉をゆっくり受け止めた。

 

 外に見せなければならない形。

 

 高校卒業まで。

 

 伊集院くんとして。

 

 それは、今までの「秘密」とは少し質が違う。

 

 高瀬悠人が偶然知ってしまった秘密。

 

 それだけではない。

 

 伊集院家の体面。

 しきたり。

 外から見られる形。

 本人一人では決められないもの。

 

 そこに、伊集院は立っている。

 

 悠人は、何か言おうとしてやめた。

 

 それ、伊集院はどう思ってるんだ。

 

 そう聞くのは、きっと今ではない。

 

 知りたいと思った。

 

 でも、伊集院が今ここで自分から話した以上のことを、急いで聞くべきではない気がした。

 

 「……そういうものなのか」

 

 悠人は言った。

 

 伊集院は短く答える。

 

 「そういうものだ」

 

 「そっか」

 

 それ以上は踏み込まなかった。

 

 伊集院は少しだけ悠人を見た。

 

 何か言われると思っていたのかもしれない。

 

 同情か。

 驚きか。

 否定か。

 問い詰める言葉か。

 

 けれど悠人は、それ以上何も言わなかった。

 

 ただ、聞いたことを軽く扱わないように黙っていた。

 

 資料室の外では、新学期の校舎の声が遠くに聞こえる。

 

 春の光が、少しずつ傾いていく。

 

 伊集院は紙を整えた。

 

 「三年生になっても、確認は継続する」

 

 いつもの言葉だった。

 

 しかし、その響きは以前より少し重い。

 

 悠人は少しだけ笑った。

 

 「まだ続くのか」

 

 「当然だ。卒業までは油断できない」

 

 「卒業まで、か」

 

 その言葉を口にすると、急に部屋の空気が静かになったような気がした。

 

 卒業まで。

 

 さっき伊集院が言った言葉と重なる。

 

 高校を卒業するまでは、今の形を維持する必要がある。

 

 卒業までは、確認を継続する。

 

 では、その後は。

 

 悠人は何気なく聞いた。

 

 「卒業したらどうするんだ?」

 

 伊集院は答えなかった。

 

 ほんの数秒。

 

 けれど、その沈黙は、これまでのどの確認よりも長く感じられた。

 

 今までの伊集院なら、すぐに何か言った。

 

 確認だ。

 必要だ。

 合理的だ。

 当然だ。

 

 どんな無理な理屈でも、即座に並べてきた。

 

 だが、今は言葉が出てこない。

 

 卒業したら。

 

 その問いだけは、伊集院のいつもの言葉で処理できないようだった。

 

 伊集院は視線を落とした。

 

 そして、ようやく言った。

 

 「……その時に確認する」

 

 悠人は少しだけ笑った。

 

 「また確認か」

 

 「当然だ」

 

 「でも、今のは少し苦しかったな」

 

 伊集院の目が鋭くなる。

 

 「余計な観察だ」

 

 「そうか?」

 

 「そうだ」

 

 いつものやり取りに戻ったはずだった。

 

 けれど、完全には戻らなかった。

 

 卒業。

 

 渡米。

 

 伊集院くんとしての期限。

 

 確認のその先。

 

 それらの言葉が、資料室の中に静かに残っている。

 

 伊集院は立ち上がった。

 

 「今日の確認は終了だ」

 

 「了解」

 

 悠人も席を立つ。

 

 扉へ向かう前に、ふと振り返った。

 

 伊集院は机の上の紙を揃えていた。

 

 いつものように整った姿。

 

 三年生になっても、伊集院レイは伊集院くんだった。

 

 けれど悠人には、その背中が少しだけ遠く見えた。

 

 同時に、以前よりも近く見える気もした。

 

 矛盾している。

 

 でも、その両方が本当なのだと思った。

 

 資料室を出ると、廊下には春の夕方の光が差していた。

 

 三年生になった。

 

 確認は、まだ続くらしい。

 

 けれどそれが、いつまで続くのか。

 

 卒業したらどうなるのか。

 

 その答えは、まだ誰も持っていなかった。

 

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