進路希望調査の紙は、翌日になっても高瀬悠人の机の上にあった。
提出期限は、まだ先だ。
急いで書く必要はない。
そう思っていたはずなのに、白い用紙は妙に存在感があった。
第一志望。
第二志望。
進学希望。
志望理由。
何を書いても、まだ仮のものだ。
本当にそこへ行くかどうかもわからない。
それでも、紙に書くという行為には、何かを選ぶ重さがある。
悠人はシャープペンシルを持ったまま、用紙の上で手を止めていた。
地元の大学。
近隣の大学。
家から通える。
学費も現実的。
今の成績で狙えそうなところもある。
別に、それで不満があるわけではない。
高瀬悠人は、特別な家に生まれたわけではない。
帝王学を学ぶ予定もない。
卒業後に渡米するような話もない。
自分の進路は、自分で考えるしかない。
そのことに、少し面倒くささはある。
けれど、昨日の伊集院の言葉を思い出すと、その面倒くさささえ、少し違って感じられた。
――遠くに行く理由もまだない。
自分でそう言った。
何気なく言ったつもりだった。
でも、その言葉が昨日から引っかかっている。
遠くに行く理由。
悠人には、まだない。
けれど、伊集院レイにはある。
帝王学を学ぶため。
伊集院家の者として必要な教育を受けるため。
卒業後、渡米する可能性がある。
それは、彼女が自分で選んだ理由なのだろうか。
それとも、伊集院家から与えられた理由なのだろうか。
悠人にはわからない。
ただ、少なくとも自分の「地元か近くの大学かな」という迷いとは、重さが違う気がした。
自分は迷っている。
けれど、迷えるだけまだ自由なのかもしれない。
そんなことを考えている自分に、悠人は少し驚いた。
去年の今頃なら、進路希望調査を前にして、こんなことは考えなかった。
伊集院レイの進路など、自分とは関係のない話だった。
違う世界の人。
そう思って終わりだったはずだ。
それが今は、そう簡単に切り離せない。
悠人は用紙の第一志望欄に、まだ何も書けないまま、シャープペンシルを置いた。
昼休み。
教室では、進路希望調査の話がまだ続いていた。
「高瀬、結局どこ書くんだ?」
友人が机の前に来て、そう尋ねた。
悠人は弁当を片づけながら答える。
「近場の大学かな」
「お前らしいな」
「らしいって何だよ」
「無茶しない感じ」
「褒めてるのか、それ」
「評価だ」
その言い方に、悠人は少しだけ反応した。
評価。
伊集院がよく使う言葉だ。
友人はそんなことなど知らず、続ける。
「俺なんか、とりあえず名前知ってる大学書いといた」
「適当だな」
「あとで変えればいいだろ」
「先生に怒られるぞ」
「その時考える」
「それもお前らしいな」
「褒めてる?」
「評価だ」
二人で少し笑った。
普通の会話だった。
進路を迷う。
大学名を書く。
友人と冗談を言う。
それは、高校三年生としてごく普通のことなのだと思う。
友人はふと思い出したように言った。
「そういや、伊集院って海外行くんだろ?」
悠人の箸が少しだけ止まる。
「噂だろ」
「でも、ありそうじゃん。伊集院家だし」
別の友人も会話に入ってきた。
「すげえよな。帝王学とか学ぶんだろ」
「俺らとは世界が違うよ」
「まあ、伊集院様だからな」
軽い調子だった。
そこに悪意はない。
ただ、遠い存在について話しているだけだ。
悠人も、少し前なら同じように思ったかもしれない。
伊集院はすごい。
違う世界の人。
自分たちとは関係のないところへ行く人。
それはたぶん、間違っていない。
伊集院レイは、本当に違う世界の人だ。
クリスマスパーティの夜、悠人はそれを見た。
大きな屋敷。
華やかな会場。
人々の視線。
伊集院家の者として完璧に立つ姿。
そして昨日、帝王学や渡米の話も聞いた。
自分とは違う世界にいる。
それは事実だ。
けれど同時に、違うとも思う。
資料室で「確認だ」と言い張る伊集院。
夏祭りでラムネの開け方に一瞬戸惑った伊集院。
ホワイトデーの焼き菓子を、潰れないように鞄へしまった伊集院。
それも、同じ伊集院だ。
違う世界の人。
それだけで片づけるには、悠人はもう、いろいろな伊集院を知りすぎていた。
「高瀬?」
友人が怪訝そうに見る。
「何ぼーっとしてんだよ」
「いや、別に」
「伊集院のこと考えてた?」
悠人は少しだけ間を置いた。
「まあ、進路すごいなとは思った」
「だろ? 海外とか俺には無理だわ」
「俺もだな」
そう答えながら、悠人は弁当箱をしまった。
放課後。
悠人は机の中を見た。
何も入っていなかった。
カードはない。
放課後、資料室へ。
確認事項あり。
伊集院レイ。
その見慣れた文字は、今日はなかった。
別に毎日呼び出されているわけではない。
それはわかっている。
伊集院にも予定がある。
確認事項がなければ、呼ぶ必要もない。
三年生になったからといって、毎日資料室へ行くわけではない。
それなのに、机の中を確認してしまった自分に、悠人は少しだけ苦笑した。
何を期待していたのだろう。
呼び出しがないなら、それでいいはずだ。
確認がない。
自由に帰れる。
それだけのことだ。
悠人は鞄を持ち、教室を出た。
廊下は新学期の放課後らしく、少しざわついている。
部活へ向かう生徒。
友人と一緒に帰る生徒。
進路指導室へ向かう生徒。
その中を歩きながら、悠人はふと旧校舎の方を見た。
資料室へ行く理由はない。
今日は呼ばれていない。
カードもない。
確認もない。
それなのに、足が少しだけ旧校舎へ向きかけた。
悠人はその場で立ち止まる。
自分で自分に呆れた。
呼び出されていたから行っていた。
確認だから付き合っていた。
秘密を知ってしまったから、仕方なく関わっていた。
ずっと、そういうことにしていた。
もちろん、最初はそうだった。
退学させるぞと脅された。
監視対象にされた。
資料室へ呼ばれた。
それは確かだ。
けれど、本当にそれだけだったのか。
夏祭りも、クリスマスも、バレンタインも、ホワイトデーも。
全部、伊集院が確認だと言い張ったから付き合っただけなのか。
悠人は、少しだけ答えに詰まった。
旧校舎へ向かいかけた足を戻す。
帰ろう。
そう思って昇降口へ向かった。
昇降口の近くで、悠人は伊集院レイとすれ違った。
廊下の角を曲がったところだった。
伊集院は一人だった。
珍しく、周囲に女子生徒も教師もいない。
手には書類を持っている。
おそらく進路関係か、生徒会か、伊集院家の何かか。
一瞬だけ、伊集院の顔が疲れているように見えた。
けれど、悠人に気づいた瞬間、その表情はすぐに整った。
背筋が伸びる。
いつもの伊集院くんの顔になる。
それがあまりにも自然で、悠人は少しだけ胸の奥が引っかかった。
「高瀬」
伊集院が先に声をかけた。
「伊集院」
「帰るのか」
「そのつもり」
「そうか」
短いやり取り。
いつもなら、ここで「資料室へ来い」と続くことも多かった。
けれど今日は違う。
悠人は少し迷ってから言った。
「今日は確認ないんだな」
伊集院の目がわずかに動いた。
「必要がないからだ」
「そうか」
「不満か」
悠人は一瞬考えた。
不満。
そう言われると少し違う。
けれど、完全に違うとも言えない。
「いや、ちょっと静かだなと思っただけ」
伊集院は黙った。
ほんの少しだけ。
「……静か?」
「机の中にカードがないと、そう感じるようになったらしい」
言ってから、悠人は少し照れくさくなった。
何を言っているのだろう。
だが、言ってしまったものは仕方ない。
伊集院は視線を逸らした。
「君は、確認に慣れすぎている」
「伊集院が何度も呼ぶからだろ」
「必要だったからだ」
「そういうことにしておく」
「その言い方はやめろ」
いつものやり取り。
けれど、伊集院の声は少しだけいつもより柔らかかった。
それが気のせいなのかどうか、悠人にはわからない。
伊集院は手元の書類を持ち直した。
「今日は、私にも予定がある」
「進路関係?」
「それも含む」
「大変だな」
伊集院は一瞬だけ黙る。
それから、いつものように言った。
「慣れている」
「またそれか」
「事実だ」
「そっか」
悠人はそれ以上言わなかった。
慣れている。
その言葉が、伊集院にとって便利な盾であることを、もう知っている。
でも、その盾を今ここで無理に取り上げる必要はない。
「じゃあ、また」
悠人が言うと、伊集院は少しだけこちらを見た。
「必要があれば呼ぶ」
「確認か?」
「確認だ」
「はいはい」
「返事は一回でいい」
「はい」
それだけ言って、二人は別れた。
伊集院は校舎の奥へ向かう。
悠人は昇降口へ向かう。
別々の方向。
別々のクラス。
別々の進路。
そのことを、悠人は少しだけ意識した。
学校を出ると、春の風が吹いていた。
まだ少し冷たいが、冬のそれとは違う。
悠人は駅へ向かう道を歩きながら、さっきの会話を思い返した。
卒業したら、確認はどうなるのか。
昨日、自分が何気なく聞いた問い。
伊集院は答えられなかった。
その時に確認する。
そう言っていた。
でも、卒業したらどう確認するのだろう。
資料室は使えない。
放課後もない。
机の中にカードを入れることもない。
「遅い」
「時間通りだ」
「私より後に来た」
そんなやり取りも、なくなるのかもしれない。
伊集院は渡米するかもしれない。
帝王学を学ぶため。
伊集院家の者として必要な教育を受けるため。
一方で、自分は地元か近くの大学に進むのだろう。
家から通える場所。
学費も現実的な場所。
普通の進路。
悪いことではない。
でも、その二つの進路は、明らかに同じ方向を向いていない。
悠人は歩きながら、少しだけ息を吐いた。
確認が終わる。
そう考えた時、自分は何を感じるのか。
面倒な呼び出しがなくなる。
秘密のことで気を遣わなくて済む。
伊集院に振り回されなくて済む。
そう思うはずだった。
最初なら、きっとそう思った。
けれど今は、そう単純ではない。
少し寂しい。
そう思った。
それを寂しいと思うのは、たぶんおかしなことではない。
少なくとも、もう面倒な確認が終わるだけだとは思えなかった。
伊集院との確認は、いつの間にか日常になっていた。
資料室へ行くこと。
言い張る伊集院を見ること。
余計なことを言って怒られること。
少しだけ表情が崩れる瞬間を見ること。
それらがなくなると考えると、胸の奥に小さな穴が開くような気がした。
恋だとか、そういう言葉はまだよくわからない。
伊集院をどう思っているのか、と聞かれても、すぐには答えられない。
ただ、もう関係ないとは思えない。
卒業したら終わり。
そう簡単に言えるものではなくなっていた。
悠人は家に帰る道の途中で、立ち止まった。
夕方の空は、少しずつ色を変えている。
桜の枝には、まだ少し花が残っていた。
伊集院の進路を、自分が決めることはできない。
伊集院家の事情も、自分にはわからない。
家のしきたり。
高校卒業までの姿。
帝王学。
渡米。
その全部を、今の悠人が理解できるわけではない。
でも、伊集院が話したことを、なかったことにはしない。
聞かなかったことにはしない。
違う世界の話だからといって、遠くへ押し戻したくもない。
確認の先に何があるのか。
卒業した後、その言葉が使えなくなった時、自分たちはどうするのか。
それを、少しは考えておきたいと思った。
悠人は再び歩き出す。
鞄の中には、進路希望調査の紙が入っている。
まだ空欄ばかりの紙。
そこに何を書くかも、まだ決めていない。
けれど、少なくとも一つだけわかったことがある。
自分はもう、ただ呼ばれたから資料室へ行くだけの人間ではない。
確認の先を、考え始めている。
それが何を意味するのかまでは、まだわからなかった。