放課後。
高瀬悠人は、いつものように机の中を確認した。
ここ最近、それがほとんど習慣になっている。
別に毎日カードが入っているわけではない。
昨日のように、何もない日もある。
それでも、放課後になると自然に机の中を見てしまう。
そして、その日は入っていた。
白いカード。
見慣れた文字。
けれど、文面はいつもと違っていた。
放課後、伊集院邸へ。
進路および卒業後の確認に関する追加事項あり。
伊集院レイ
悠人は、しばらくそのカードを見つめた。
資料室ではない。
伊集院邸。
それだけで、いつもの確認とは違う気がした。
進路。
卒業後。
伊集院邸。
昨日まで、教室や資料室で話していた言葉が、急に現実の場所を持ったように感じられた。
卒業したらどうするんだ。
そう聞いた時、伊集院は答えられなかった。
その時に確認する。
そう言って逃げた。
その続きが、今日の呼び出しなのかもしれない。
悠人はカードを鞄にしまい、教室を出た。
伊集院邸へ向かうのは、クリスマスパーティ以来だった。
あの時は、夜だった。
大きな門。
きらめく照明。
華やかな会場。
大勢の生徒たち。
完璧な伊集院くんとして立つ伊集院レイ。
あれは、伊集院家の表側だったのだと思う。
華やかで、整っていて、誰かに見せるための伊集院家。
だが今日は違う。
門の前に立った時、悠人はそう感じた。
夕方の屋敷は静かだった。
派手な明かりはない。
音楽もない。
招かれた生徒たちのざわめきもない。
ただ、広い敷地があり、整えられた庭があり、重そうな門がある。
呼び鈴を押すと、すぐに門が開いた。
門の向こうに、一人の男性が立っていた。
初老の男性だった。
だが、姿勢はまっすぐで、動きに無駄がない。
髪は黒く整えられている。染めているのだろうが、不自然さはなかった。
落ち着いた黒の服装。
丁寧な所作。
柔らかいが、隙のない目。
悠人は、内心で思った。
漫画に出てくるセバスチャンみたいな人って、本当にいるんだな。
その男性は、深く頭を下げた。
「高瀬悠人様でいらっしゃいますね」
「はい」
「レイ様より、お待ちするよう申しつかっております。私は倉橋と申します。長く伊集院家に仕えております」
「高瀬です。よろしくお願いします」
悠人は少し緊張しながら頭を下げた。
倉橋は穏やかに微笑んだ。
「こちらへどうぞ」
屋敷の中は、クリスマスの時とはまるで違っていた。
同じ建物のはずなのに、印象が違う。
広い廊下。
磨かれた床。
静かに動く使用人たち。
壁に飾られた古い絵。
重厚な調度品。
どれも豪華ではある。
けれど、今日の屋敷は華やかというより、静かで重かった。
クリスマスの時は、伊集院家の表側を見た。
今日は、もう少し奥へ入っている気がした。
悠人は案内されながら、そう思った。
応接室へ向かう途中、倉橋が静かに言った。
「レイ様は、ただいまご親族とのお話が長引いております。まもなくお戻りになりますので、応接室でお待ちください」
「親族との話、ですか」
「はい。進路に関わるお話でございます」
進路。
卒業後。
親族。
それらの言葉が、自然につながっていく。
悠人は改めて思った。
伊集院の卒業後は、本人だけで決められるものではないのだ。
応接室へ通される。
クリスマスパーティの時に使われていた広い会場とは違い、ここは落ち着いた部屋だった。
小さなテーブル。
深い色のソファ。
壁際の本棚。
窓の外には庭が見える。
倉橋は手際よく紅茶を用意した。
一つ一つの動きが綺麗で、無駄がない。
悠人は、少し恐縮しながらソファに座った。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
紅茶を置いた倉橋は、向かい側ではなく、少し斜めの位置に立った。
距離がある。
けれど、遠すぎない。
高瀬悠人という客を丁寧に扱いながら、同時に見極めているような距離だった。
「本日は、進路および卒業後の確認でお越しとうかがっております」
倉橋が言った。
悠人はカードの文面を思い出す。
「そう聞いてます。でも、正直、何を確認するのかまでは」
「左様でございますか」
倉橋は静かに頷いた。
「卒業後のことは、レイ様お一人の問題ではございません」
その言葉は、落ち着いていた。
だが、重かった。
悠人は紅茶のカップに手を伸ばしかけて、少しだけ止めた。
「……そうなんですね」
「はい」
倉橋は穏やかな声で続ける。
「レイ様は、伊集院家の方でございます。ご本人のお気持ちだけで決められないこともございます」
悠人は黙って聞いた。
それは、先日伊集院本人が言っていたことと重なることだった。
私の進路は、私一人で決めるものではない。
そんな言葉を、彼女は直接は言わなかった。
けれど、そういう意味のことを話していた。
倉橋は、ふと悠人を見た。
その目は穏やかだった。
しかし、ただ優しいだけではない。
「高瀬様は、レイ様の秘密をご存じなのですね」
悠人の背筋がわずかに強ばった。
紅茶の香りが、急に遠くなる。
「……伊集院から聞いたんですか」
倉橋は首を横に振った。
「いいえ。レイ様は、多くを語られる方ではございません」
「じゃあ、どうして」
「長くお仕えしていれば、変化はわかるものでございます」
倉橋は静かに言った。
「レイ様は、幼い頃からご自身を整えることに長けた方でした。表情も、言葉も、振る舞いも。伊集院家の者として求められる形を、よく理解しておられます」
悠人は黙っていた。
「ですが近頃、時折、その整えられた形の外側に、ほんの少しだけ別のものが見えることがございます」
「別のもの?」
「年相応の迷い、と申しましょうか」
倉橋は微笑んだ。
「あるいは、楽しさを隠しきれていない顔、と申しましょうか」
悠人は少しだけ困った。
それは、たぶん心当たりがあった。
喫茶店で笑った伊集院。
夏祭りで射的を当てて得意げだった伊集院。
クリスマスの庭で栞を受け取って固まった伊集院。
ホワイトデーの焼き菓子を丁寧に鞄へしまった伊集院。
倉橋は、それをすべて見ていたわけではない。
それでも、屋敷に戻った伊集院の変化から、何かを感じ取っていたのだろう。
「ご安心ください」
倉橋は言った。
「責めているのではございません」
悠人はゆっくり息を吐いた。
自分でも少し警戒していたことに気づいた。
「伊集院の秘密を知ってることは……まずいことですよね」
「軽いことではございません」
倉橋は否定しなかった。
「ですが、高瀬様が軽々しく口外される方でないことも、ある程度は承知しております」
「どうしてですか」
「レイ様のご様子から」
その言葉に、悠人は少し黙った。
伊集院が自分のことを家で話したわけではない。
少なくとも、多くは語っていない。
それでも、伊集院の変化から伝わっている。
それは、少し不思議な感覚だった。
倉橋は紅茶のカップを静かに見下ろした。
「伊集院家には、古いしきたりがございます」
その声は、先ほどより少しだけ低かった。
「レイ様は高校を卒業されるまで、家の外では男子として振る舞うことになっております」
悠人は、すぐには言葉を返せなかった。
それは先日伊集院本人からも聞いていることだった。
だが、倉橋の口から改めて聞くと、より重く響いた。
「それは単なる気まぐれでも、趣味でもございません」
倉橋は続けた。
「家の体面、後継者としての印象、外部への見せ方。そうしたものが絡んでおります」
「後継者……」
「伊集院家にとって、後継者とは血筋だけの話ではございません」
倉橋は悠人を見る。
「外からどう見られるか。誰が次代の顔として認識されるか。そうしたことも、時に本人の意思より先に決められてしまいます」
悠人は、言葉を探した。
簡単に、ひどいですね、とは言えなかった。
それを言えば、たぶん伊集院の背負っているものを軽く扱うことになる。
かといって、納得できるわけでもない。
「伊集院は……それを知ってるんですよね」
「はい」
倉橋は静かに答えた。
「レイ様は、その意味を理解しておられます。理解しているからこそ、簡単に投げ出されない」
「……」
「ですが、理解していることと、何も感じておられないことは別でございます」
その言葉が、悠人の胸に残った。
慣れている。
伊集院はよくそう言う。
クリスマスの庭でも。
進路の話でも。
役割の話でも。
でも、慣れていることと、何も感じないことは違う。
倉橋の言葉は、悠人が何となく感じていたものを、静かに形にした。
「卒業後の進路も、そこから切り離して考えることはできません」
倉橋は言った。
「帝王学を学ぶための渡米も、伊集院家の者としての道筋の一部でございます」
「伊集院が自分で決めたわけじゃないんですか」
「まったく違う、とは申しません」
倉橋は少しだけ目を伏せた。
「レイ様は、ご自身の立場を理解しておられます。逃げるだけの方ではございません。ですが、すべてを自由に選べるわけでもございません」
その言葉に、悠人は自分の進路希望調査を思い出した。
地元か近隣の大学。
家から通える場所。
学費も現実的な場所。
迷っている。
けれど、自分は迷える。
伊集院は、迷う前に道が用意されているのかもしれない。
それを羨ましいとは、もう思えなかった。
倉橋は少し間を置いた。
そして、静かに頭を下げた。
「高瀬様。レイ様をお救いください、とは申しません」
悠人は驚いた。
「そのような重荷を、あなた様に背負わせるべきではございません」
倉橋は顔を上げる。
その表情は、執事としての礼儀正しさを保っていた。
けれど、そこにはレイ個人への情が確かにあった。
「ただ、もし許されるなら」
倉橋の声は穏やかだった。
「レイ様を、伊集院家の者としてだけではなく、一人の方として見て差し上げてください」
悠人は、すぐには答えられなかった。
救う。
そんなことを、自分にできるとは思えない。
伊集院家のしきたりを変えることも、後継者問題をどうにかすることも、渡米の話を止めることも、自分にできるはずがない。
高瀬悠人は、普通の高校生だ。
地元か近くの大学を進路希望に書こうとしているだけの、普通の三年生。
それでも。
伊集院レイを、伊集院家だけで見るつもりはなかった。
学校中が伊集院くんとして見る彼女。
伊集院家の者として立つ彼女。
帝王学を学ぶために渡米するかもしれない彼女。
そのどれもが伊集院なのだろう。
けれど、資料室で言い張る伊集院も、夏祭りで少し得意げだった伊集院も、栞を受け取って固まった伊集院も、同じ伊集院だ。
悠人はゆっくり口を開いた。
「俺に何ができるかは、正直わかりません」
倉橋は黙って聞いている。
「伊集院家のことも、まだ全然わかっていません」
「はい」
「でも、伊集院のことを、伊集院家だけで見るつもりはありません」
言葉にすると、少しだけ照れくさかった。
でも、嘘ではなかった。
「たぶん、今までもそうしてきたつもりです」
倉橋は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「そうでございますか」
その微笑みは、少し安心したようにも見えた。
その時、応接室の外で足音が聞こえた。
扉がノックされる。
倉橋が静かに応じた。
扉が開き、伊集院レイが入ってきた。
制服姿ではない。
屋敷の中での装いだったが、相変わらず隙がない。
ただ、その目はすぐに部屋の空気を読んだ。
倉橋。
高瀬。
二人だけで話していた時間。
伊集院の表情が少しだけ硬くなる。
「待たせた」
「いや」
悠人は立ち上がった。
伊集院は倉橋を見る。
「何を話していた」
倉橋は丁寧に頭を下げた。
「高瀬様には、お待ちいただく間、少々お話を」
「少々とは何だ」
その声には警戒があった。
倉橋は静かに微笑むだけだった。
悠人が答えた。
「進路と卒業後の話を、少し」
伊集院の視線が悠人に向く。
「……倉橋」
「はい」
「余計なことを話したのか」
「必要以上のことは何も」
倉橋は落ち着いている。
伊集院は眉を寄せた。
「高瀬」
「何だ?」
「何を聞いた」
悠人は少し考えた。
ここで全部を口にするのは違う気がした。
伊集院本人から聞いていないことを、自分がわかったように並べるべきではない。
だから、短く答えた。
「少しだけ」
「少しとは何だ」
「伊集院家のこと」
伊集院の目が鋭くなった。
「余計なことを聞いたな」
「そうかもしれない」
「何を聞いた」
「でも」
悠人は伊集院を見た。
「伊集院から聞いてないことを、俺がわかった顔で言うつもりはない」
伊集院は黙った。
怒ると思った。
すぐに反論が来ると思った。
だが、伊集院は何も言わなかった。
代わりに、少しだけ視線を逸らした。
倉橋は、その様子を静かに見ていた。
そして一礼する。
「それでは、私は失礼いたします」
「倉橋」
伊集院の声には、まだ少し不満があった。
「はい」
「後で話を聞く」
「承知いたしました」
倉橋は深く頭を下げ、応接室を出て行った。
扉が閉まる。
部屋には、悠人と伊集院だけが残った。
少し気まずい沈黙。
伊集院は、ようやく口を開いた。
「余計なことを聞いたのなら忘れろ」
悠人は少しだけ眉を上げた。
「忘れろって言われて忘れられる話じゃないだろ」
伊集院の表情が、わずかに揺れた。
それは怒りではなかった。
もっと別の何か。
悠人には、うまく言えない。
「君は、本当に扱いづらい」
伊集院は低く言った。
「そうか?」
「そうだ」
「でも、聞いたからって伊集院が別人になるわけじゃないだろ」
伊集院は黙った。
その言葉に、すぐ返事をしなかった。
悠人は続けない。
言いすぎても違う。
今は、それだけで十分だと思った。
伊集院は少ししてから、視線を外した。
「……今日の確認は、予定を変更する」
「そうなのか?」
「状況が変わった」
「俺のせい?」
「主に君と倉橋のせいだ」
「倉橋さん、いい人そうだったけど」
「余計なところで優秀すぎる」
伊集院は小さく息を吐いた。
その仕草は、少しだけ疲れているようにも見えた。
だが、次の瞬間にはいつもの顔に戻る。
「高瀬」
「何だ?」
「今日ここで聞いたことは、誰にも言うな」
「言わない」
「当然だ」
「それと」
悠人は少しだけ迷ってから言った。
「伊集院から聞くまでは、わかったふりもしない」
伊集院は目を細めた。
「……君は、本当に余計なところを見る」
「褒めてる?」
「評価だ」
その返しに、悠人は少し笑った。
重い話をしたあとでも、いつもの言葉が戻ってくる。
それが少しだけありがたかった。
窓の外は、もう夕方だった。
伊集院家の屋敷は静かで、整っていて、重い。
高瀬悠人は今日、その影を少しだけ見た。
けれど、目の前にいる伊集院レイは、やはり伊集院レイだった。
伊集院家の者であり、伊集院くんであり、家のしきたりの中にいる人であり。
そして、資料室で確認だと言い張る彼女でもある。
そのどれか一つだけで見ることは、もうできなかった。