高瀬悠人が帰った後、伊集院邸はいつもの静けさを取り戻していた。
応接室の扉が閉まり、足音が遠ざかる。
使用人が控えめに廊下を行き来し、庭の方では夕方の光が少しずつ薄れていく。
伊集院レイは、しばらく応接室に立ったままだった。
先ほどまで高瀬が座っていたソファ。
倉橋が紅茶を置いたテーブル。
窓の外に見える整えられた庭。
何も乱れていない。
けれど、レイの中では何かが乱れていた。
「倉橋」
静かに呼ぶ。
ほどなくして、扉の向こうから返事があった。
「はい」
倉橋が入ってくる。
初老でありながら、背筋は伸びている。
黒く整えられた髪。
落ち着いた所作。
長年伊集院家に仕えてきた者だけが持つ、過不足のない距離感。
彼は深く一礼した。
「お呼びでしょうか、レイ様」
レイは正面から倉橋を見た。
「何を話した」
倉橋は表情を変えなかった。
「必要以上のことは何も」
「その必要を、誰が決めた」
「私でございます」
即答だった。
レイは眉を寄せる。
「私のことを、高瀬に話す必要があったのか」
「差し出がましいことをいたしました」
倉橋は静かに頭を下げた。
だが、その声に後悔はなかった。
「ですが、高瀬様は知らぬままでよい方ではないと判断いたしました」
「判断?」
レイの声が少し冷える。
「倉橋。お前は、私の許可なく高瀬に事情を話した」
「はい」
「それが何を意味するかわかっているのか」
「承知しております」
あまりにも落ち着いた返答に、レイは言葉を切った。
倉橋は、ただ命令を聞く使用人ではない。
昔からそうだった。
伊集院家に忠実でありながら、レイ個人のことも見ている。
幼い頃から、レイがどの顔を作り、どの言葉を飲み込み、どの役割を背負ってきたのかを知っている。
だからこそ、厄介だった。
「高瀬様は、知ったことを利用される方ではございません」
倉橋は静かに言った。
「また、知ったことでレイ様を哀れむ方でもないように見受けられました」
レイはすぐに返した。
「一度話しただけで何がわかる」
「一度話せば、わかることもございます」
倉橋の声は穏やかだった。
「特に、聞いたことをすぐに自分の言葉で飾らない方かどうかは」
レイは黙った。
高瀬悠人。
秘密を知っても騒がなかった。
街へ連れ出しても、無理に踏み込まなかった。
夏祭りで手首を取った後、すぐに離した。
クリスマスに栞を渡しても、意味を押しつけなかった。
バレンタインのチョコも、ホワイトデーのお返しも、こちらの言い訳を崩さなかった。
高瀬は、知ったことを利用するような男ではない。
それは、レイ自身が一番よく知っている。
だからこそ、反論できなかった。
「……それで」
レイは低く言った。
「お前は高瀬に何を頼んだ」
倉橋は一瞬だけ目を伏せた。
「レイ様をお救いください、とは申しません、と」
「余計なことを」
「はい」
「それで?」
倉橋は顔を上げる。
「伊集院家の者としてだけではなく、一人の方として見て差し上げてください、と申し上げました」
レイは息を止めた。
一人の方として。
その言葉が、応接室の静かな空気の中で妙に大きく響いた。
「……本当に余計なことを」
「承知しております」
「わかっていて言ったのか」
「はい」
倉橋はまっすぐにレイを見た。
「レイ様は、伊集院家の方でございます。それは事実です。ですが、それだけでできておられる方ではございません」
「倉橋」
「高瀬様は、そのことをすでにご存じのように見えました」
レイは言葉を失った。
高瀬が。
自分を、伊集院家の者としてだけではなく見ている。
そんなことは、考えないようにしてきた。
資料室での自分。
本屋で文庫を選んだ自分。
喫茶店で笑ってしまった自分。
夏祭りで景品を捨てられなかった自分。
クリスマスに栞を受け取った自分。
バレンタインにチョコを渡せず、渡してしまった自分。
それらを高瀬が見ていたとしても。
それは確認の一部だ。
秘密保持の過程だ。
偶然の積み重ねだ。
そう説明できるはずだった。
倉橋は深く頭を下げた。
「差し出がましい真似をいたしました。お叱りは受けます」
レイはしばらく倉橋を見ていた。
叱るべきだった。
伊集院家の事情を、許可なく外部の人間に話したのだから。
だが、倉橋が裏切ったわけではないこともわかっていた。
倉橋は伊集院家に忠実だ。
同時に、レイのことも見ている。
だからこそ、高瀬に話した。
それがわかるから、怒りきれなかった。
「……下がれ」
「かしこまりました」
倉橋は一礼し、応接室を出ていった。
扉が閉まる。
レイは一人になった。
そのまま自室へ戻った。
廊下は静かだった。
使用人たちは、誰も余計な音を立てない。
伊集院家の屋敷は、今日も整っている。
整いすぎている。
自室に入ると、レイは扉を閉めた。
机の前に立つ。
そこでようやく、先ほどの高瀬の言葉が戻ってきた。
――でも、聞いたからって伊集院が別人になるわけじゃないだろ。
何でもないように言った。
重くしなかった。
わかったふりもしなかった。
それなのに、その言葉は妙に残っている。
レイは、知られたら変わると思っていた。
自分を見る目が変わる。
同情される。
気を遣われる。
伊集院家の事情という重さだけで見られる。
あるいは、距離を取られる。
面倒なものを知ってしまったと、少しずつ離れていく。
そうなる方が自然だと思っていた。
けれど高瀬は違った。
倉橋から事情の一端を聞いても、急に優しくなりすぎることはなかった。
哀れむような目もしなかった。
問い詰めもしなかった。
わかった顔もしなかった。
ただ、
伊集院が別人になるわけじゃないだろ。
そう言った。
レイは椅子に座った。
救われた、などとは思わない。
そんな言葉は大げさだ。
ただ、高瀬が変わらなかったことに、少しだけ呼吸が楽になった。
それだけだ。
「……確認対象として、態度が急変しなかったことを評価しただけだ」
自分に言い聞かせる。
高瀬悠人の態度は安定していた。
秘密保持者として、不用意な反応をしなかった。
それを評価した。
それ以上ではない。
そう結論づけようとして、別の言葉が胸に引っかかった。
――余計なことを聞いたのなら忘れろ。
自分が言った言葉だ。
何気なく言った。
秘密保持のためなら当然の言葉だった。
余計なことは忘れろ。
深入りするな。
知ったことで変わるな。
そういう意味だった。
そのはずだった。
だが、なぜかその言葉が残っている。
忘れろ。
高瀬が本当に忘れたらどうなるのか。
レイはそこまで考えて、指先を止めた。
高瀬が忘れる。
今日、倉橋から聞いたことを忘れる。
それだけなら問題ない。
いや、むしろその方が安全かもしれない。
伊集院家のしきたり。
体面。
後継者としての印象。
外部への見せ方。
卒業後の進路。
それらは高瀬に関係のない話だ。
忘れた方がいい。
だが、考えはそこで止まらなかった。
高瀬が忘れる。
資料室のことを。
最初に秘密を知られた日のことを。
脅したことを。
確認だと言って呼び出したことを。
駅前の本屋を。
喫茶店でケーキを食べたことを。
自分が笑ってしまったことを。
夏祭りを。
射的の景品を。
ラムネを。
花火を。
来年も確認できるな、と言われたことを。
クリスマスの庭を。
ペンを渡したことを。
栞を受け取ったことを。
バレンタインを。
チョコを糖分補給と言い張ったことを。
ホワイトデーを。
焼き菓子を受け取ったことを。
紅茶に合いそうだから、と言われたことを。
自分が、伊集院くんではない顔を見せてしまった時間を。
高瀬が全部忘れる。
そこまで考えて、レイは立ち上がった。
「違う」
声が少し強かった。
忘れろと言ったのは、今日聞いた話についてだ。
倉橋から聞いた余計な話についてだ。
それ以外ではない。
それ以外まで忘れろとは言っていない。
そもそも、高瀬が何を覚えていようと、こちらの知ったことではない。
秘密を守るなら、それでいい。
記憶の中身まで干渉する必要はない。
レイは机の引き出しを開けた。
そこには、まだ残っているものがある。
喫茶店のレシート。
夏祭りの射的の景品。
高瀬からもらった焼き菓子の空き箱。
本棚の文庫には、栞が挟まっている。
どれも、捨てなかったもの。
忘れていないもの。
忘れられないもの。
レイは引き出しを見つめた。
自分は何をしているのか。
高瀬に忘れてほしくないものがあるとでも言うのか。
「……馬鹿な」
小さく呟く。
そんなはずはない。
高瀬は確認対象だ。
秘密保持者だ。
伊集院家の事情に不用意に巻き込むべきではない相手だ。
だから、忘れろと言った。
そう。
言った。
だが、もう一度同じことを言えるだろうか。
高瀬の前で。
本当に忘れろと。
資料室のことも。
夏祭りのことも。
クリスマスのことも。
バレンタインのことも。
ホワイトデーのことも。
すべて忘れろと。
レイは答えを出さなかった。
出す必要はない。
今はまだ、そんな問いを立てる必要すらない。
レイは引き出しを閉めた。
音は小さかった。
椅子に座り直し、息を吐く。
高瀬は変わらなかった。
それだけは事実だ。
倉橋から話を聞いても、同情しなかった。
遠ざからなかった。
わかったふりもしなかった。
いつものように、余計なところを見て、余計なことを言い、最後には「褒めてる?」などと聞いてきた。
彼が変わらなかったことを、安心したわけではない。
確認対象として、態度が急変しなかったことを評価しただけだ。
レイはそう結論づけた。
いつも通り、説明できる形に整える。
それでいい。
忘れろ。
そう言ったのは、余計な話についてだけだ。
今日、倉橋から聞いたことだけを忘れろという意味だった。
それ以外まで忘れろとは、言っていない。
レイはそこまで考えてから、はっとした。
まるで自分が、高瀬に覚えていてほしいものがあると認めたようだった。
「……馬鹿な」
もう一度、そう呟いた。
考えるのをやめる。
けれど、机の引き出しの中のレシートも、夏祭りの景品も、高瀬からの焼き菓子の空き箱も、本に挟まれた栞も。
何一つ忘れられないまま、そこに残っていた。