三年生になってから、いくつかのことが変わった。
教室が変わった。
進路希望調査が配られた。
卒業後という言葉が、急に現実味を持った。
伊集院レイは、帝王学を学ぶために渡米するかもしれない。
高瀬悠人は、地元か近くの大学を考えている。
その差は、思っていたより大きかった。
そしてもう一つ。
高瀬は、伊集院家の影を少しだけ知った。
伊集院邸へ呼ばれた日。
倉橋という執事に案内され、応接室で話を聞いた。
伊集院家のしきたり。
高校卒業まで、外では男子として振る舞う必要があること。
家の体面。
後継者としての印象。
外部への見せ方。
その後、伊集院本人が戻ってきた時には、予定されていたはずの確認はほとんど形を失っていた。
進路および卒業後の確認に関する追加事項。
そう書かれていた呼び出しだったのに、結局、まともな確認らしい確認は行われなかった。
伊集院は予定を変更すると言った。
状況が変わった、と。
主に高瀬と倉橋のせいだ、とも言った。
それ以来、数日ほど、確認はなかった。
ないならないで、普通に学校生活は進む。
三年生の授業。
進路希望調査。
友人との会話。
廊下ですれ違う伊集院くん。
それでも悠人は、机の中にカードがないことを、時々確認してしまった。
そして、ゴールデンウィークに入ったある日の朝。
高瀬家の固定電話が鳴った。
悠人は居間でその音を聞き、少しだけ予感した。
受話器を取る。
「はい、高瀬です」
少しの沈黙の後、聞き慣れた声がした。
「高瀬か」
「伊集院?」
「そうだ」
固定電話越しでも、その声は相変わらずだった。
落ち着いていて、少しだけ偉そうで、当然のようにこちらを呼び出す声。
悠人は、少しだけ懐かしい気分になった。
「久しぶりだな、電話」
「不要な感想だ」
「で、今日は何の確認だ?」
「休日における外部行動確認を行う」
悠人は一瞬黙った。
「それ、ただ出かけるだけじゃないのか」
「確認だ」
「どこへ?」
「街だ」
「広いな」
「詳細は現地で説明する」
「またか」
「不満か」
「いや」
悠人は受話器を持ち直した。
「少し安心した」
電話の向こうで、伊集院が黙った。
「……何がだ」
「いつもの感じで」
「君は確認に慣れすぎている」
「伊集院が慣らしたんだろ」
「責任転嫁だ」
「事実だと思うけど」
「集合時間を伝える」
伊集院はそれ以上その話を続けなかった。
けれど、その声は少しだけいつもより柔らかく聞こえた。
待ち合わせ場所は駅前だった。
ゴールデンウィークの街は、いつもの平日とは違う顔をしていた。
家族連れ。
友人同士の学生。
観光客らしい人たち。
少し浮かれた空気。
空はよく晴れていた。
春というより、初夏に近い日差しだった。
悠人が指定された場所に着くと、伊集院はすでに待っていた。
私服だった。
二年生の頃、初めて駅前に呼び出された時のことを思い出す。
あの時の伊集院は、どこか防御的だった。
中性的で、目立たず、それでいて隙を見せない服。
街に出ているのに、どこか緊張していた。
でも、今日の伊集院は少し違っていた。
落ち着いた色のブラウス。
軽い羽織り。
動きやすそうなスカートにも見えるキュロット。
小さなバッグ。
派手ではない。
少女らしすぎるわけでもない。
けれど、以前よりずっと自然だった。
周囲の視線を警戒しすぎていない。
姿勢は相変わらずきれいだが、どこか肩の力が抜けている。
悠人は、それが少し嬉しかった。
「遅い」
伊集院が言った。
「時間通りだ」
「私より後に来た」
「休日でもそれなんだな」
「当然だ」
いつものやり取り。
だが、今日の伊集院は、以前ほど強く言い返しているようには見えなかった。
悠人は少しだけ彼女を見た。
「私服、前より自然だな」
伊集院の視線が鋭くなる。
「観察が過剰だ」
「褒めてるんだけど」
「不要だ」
「似合ってる」
伊集院は一瞬、言葉を止めた。
それから、少しだけ視線を逸らす。
「……本日の服装は、外部行動確認に適したものを選んだだけだ」
「確認に適した服って何だよ」
「動きやすく、過度に目立たず、行動範囲に合っている」
「なるほど」
「納得したのか」
「伊集院らしい言い訳だなと思った」
「言い訳ではない」
悠人は笑った。
伊集院は少し不満そうにしたが、それ以上は言わなかった。
「で、今日はどこへ?」
「水族館だ」
「水族館?」
「休日の人混み、暗所展示、屋内施設における行動確認を行う」
「やっぱりただ出かけるだけじゃないか」
「確認だ」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
駅から少し歩いた先に、水族館があった。
ゴールデンウィークだけあって、入口付近は人で賑わっている。
家族連れが多い。
小さな子供たちがパンフレットを手にしてはしゃいでいる。
カップルらしき二人組もいる。
友人同士の学生もいる。
伊集院は少しだけ周囲を見た。
以前なら、そこで表情が固くなっていたかもしれない。
けれど今日は、少し確認するように視線を動かしただけだった。
「人が多いな」
悠人が言うと、伊集院は答えた。
「休日だからな」
「確認としては?」
「適切な混雑度だ」
「便利な言い方だな」
「事実だ」
チケットを買うと、半券が渡された。
悠人は何となくそれを財布に入れた。
普段ならすぐに鞄の適当なポケットへ入れるところだ。
でも今日は、なぜか少し丁寧にしまった。
伊集院はその動きに気づかなかった。
気づかなくてよかった、と悠人は思った。
最初の展示室に入ると、空気が変わった。
外の明るさが遠のく。
青い光。
水槽の中を泳ぐ魚たち。
子供たちの声はあるが、外よりも少し音がやわらかく聞こえる。
水の揺らぎが壁に映っていた。
伊集院は、水槽の前で足を止めた。
大きな魚がゆっくりと泳いでいく。
彼女はそれを黙って見ていた。
伊集院くんでもなく。
伊集院家の者でもなく。
ただ、水槽の前に立つ一人の少女に見えた。
悠人は、少しだけ隣に立つ。
「こういうの、好きなのか?」
「生態を確認しているだけだ」
「魚の?」
「水槽の構成も含めてだ」
「水族館に来て、水槽の構成を見るのか」
「展示には意図がある」
「それはそうだけど」
伊集院は、少しだけ真面目に水槽を見ていた。
だが、その横顔は硬くない。
興味がないふりをしている。
けれど、目はちゃんと追っている。
悠人はそれ以上言わなかった。
次の展示室には、色とりどりの魚が泳いでいた。
伊集院は、説明板をきちんと読んでいる。
その様子は、図書館や資料室で本を読む時と少し似ていた。
「全部読むのか?」
「必要な情報だ」
「確認のため?」
「そうだ」
「魚の種類まで確認する必要ある?」
「知識は邪魔にならない」
「伊集院らしいな」
「余計な感想だ」
それでも、伊集院の口調は穏やかだった。
ペンギンの展示の前では、伊集院が少しだけ足を止めた。
ペンギンがよちよちと歩き、水に飛び込む。
子供たちが歓声を上げる。
悠人は伊集院を見る。
「興味ある?」
「ない」
「今、かなり見てただろ」
「動線を確認していた」
「ペンギンの?」
「展示全体のだ」
「その言い訳、だいぶ苦しくないか?」
伊集院は返事をしなかった。
代わりに、ペンギンが水の中を速く泳ぐのを目で追った。
その顔は、ほんの少しだけ楽しそうだった。
悠人は言わないでおいた。
言えば、きっと否定する。
それも悪くはないが、今はその顔をそのまま見ていたかった。
館内を進むうちに、二人はクラゲの展示室へ入った。
そこは、他の場所よりもさらに暗かった。
青と紫の光。
透明なクラゲが、ゆっくりと水の中を漂っている。
時間が少し遅くなったような場所だった。
伊集院は、クラゲの水槽の前で足を止めた。
長く黙っていた。
悠人も隣に立つ。
会話はなかった。
水槽の青い光が、伊集院の横顔を照らしている。
学校で見る伊集院くんの顔とは違う。
屋敷で見た伊集院家の者としての顔とも違う。
資料室で言い張る伊集院とも、少し違う。
ただ、静かに水槽を見ている少女。
悠人は、そう思った。
「きれいだな」
悠人が言うと、伊集院は少し遅れて答えた。
「展示としては、よくできている」
「そういう言い方するんだな」
「事実だ」
「クラゲ自体は?」
伊集院は黙った。
クラゲが、ゆっくりと浮かんでいる。
その動きは、どこにも急いでいないように見えた。
「……悪くない」
ようやく、伊集院が言った。
悠人は少し笑う。
「それ、かなり褒めてるだろ」
「評価だ」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
いつものやり取りだった。
けれど、その声は水槽の前で小さく響いて、どこか柔らかかった。
展示を一通り見終えた後、二人は館内のカフェに入った。
窓際の席からは、外の水辺が少し見える。
ゴールデンウィークらしく、店内は混んでいたが、運よく席が空いていた。
伊集院はメニューを見ていた。
以前なら、甘いものを前にすると少し迷い、結局自分では頼まなかった。
今日も迷っているようだった。
けれど、以前ほど頑なではない。
「それ、食べたいんだろ」
悠人が言うと、伊集院はメニューから目を上げた。
「何がだ」
「その、クラゲのゼリーみたいなやつ」
「展示施設における限定商品の確認だ」
「食べ物まで確認するのか」
「施設運営の一環だ」
「便利だな、確認」
「君が雑に解釈しているだけだ」
悠人は笑った。
「じゃあ、今日は自分で頼む?」
伊集院は少しだけ黙った。
そして、小さく言った。
「……一つなら」
悠人は少し驚いた。
前なら、ここで「私は別に」と言ったはずだ。
高瀬が頼むと言って、少しだけ分ける形にしたはずだ。
けれど今日は、自分で頼むと言った。
本当に小さな変化だった。
でも、悠人には大きく見えた。
「いいんじゃないか」
「何がだ」
「いや、確認として」
「当然だ」
伊集院は少しだけ不満そうにしたが、店員を呼んだ。
限定のゼリーと紅茶。
悠人はコーヒーを頼んだ。
運ばれてきたゼリーは、透明な器に入っていて、青い色をしていた。
見た目は少し水槽の光に似ている。
伊集院はスプーンを手に取り、少しだけ眺めてから口に運んだ。
「どう?」
悠人が聞く。
伊集院は考えるように間を置いた。
「……甘い」
「感想それだけか?」
「適度な甘さだ」
「おいしい?」
伊集院は視線を逸らした。
「確認としては有意義だ」
悠人は少し笑った。
「今、楽しそうだな」
伊集院の手が止まる。
「楽しんでいない」
「そうか?」
「確認として有意義だと言っている」
「前より否定が弱いな」
「余計な観察だ」
「褒めてる」
「不要だ」
伊集院はそう言ったが、ゼリーを食べる手は止まらなかった。
その様子を見て、悠人は思った。
前より、隣を歩くことに慣れている。
伊集院は、まだ言い張る。
確認だと、必要だと、合理的だと。
でも、二年生の時ほど周囲を恐れてはいない。
少女として外にいることを、以前ほど硬く受け止めていない。
それが少しだけ嬉しかった。
言葉にはしない。
言えばきっと、伊集院はまた否定する。
それでも、悠人には十分だった。
水族館を出る頃には、夕方になっていた。
外の空気は少し涼しい。
ゴールデンウィークの街はまだ賑やかだったが、夕方の光の中では少し落ち着いて見えた。
二人は駅へ向かって歩いた。
途中、伊集院は何度か人混みを見たが、以前ほど警戒していなかった。
悠人の隣を、自然に歩いている。
そのことに、悠人はまた少しだけ気づいた。
「今日は確認としてはどうだった?」
悠人が聞くと、伊集院はすぐに答えた。
「有意義だった」
「楽しかったとは言わないんだな」
伊集院は少し黙った。
それから、いつものように言う。
「……確認として、有意義だった」
「そっか」
悠人はそれ以上追及しなかった。
伊集院が言いたくないなら、それでいい。
本当は、何となくわかっている。
今日の伊集院は、少し楽しそうだった。
水槽の前で黙っていた顔も。
ペンギンを見ていた目も。
クラゲの水槽の青い光に照らされていた横顔も。
カフェでゼリーを食べていた姿も。
全部、確認だけでは説明しきれないものだった。
でも、伊集院が確認と言い張るなら、それに付き合ってもいい。
「高瀬」
伊集院が立ち止まらずに言った。
「何だ?」
「次も、必要があれば行う」
「確認を?」
「確認を」
悠人は少し笑った。
「わかった」
「遅れるな」
「時間通りに行くよ」
「私より後なら遅い」
「相変わらずだな」
「当然だ」
駅が近づいてくる。
人の流れが少し増える。
伊集院は、駅前で一度だけ振り返った。
「今日のことも、誰にも言うな」
「言わない」
「当然だ」
「水族館に行ったことも?」
「外部行動確認だ」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
いつものやり取り。
けれど、今日のそれは、少しだけ穏やかだった。
伊集院と別れた後、悠人は駅の改札を通る前に財布を開いた。
中に、水族館の半券が入っていた。
さっき、何となくしまったもの。
別に残す必要はない。
捨てても困らない。
それでも悠人は、それを財布の奥にそっと入れ直した。
伊集院は知らない。
彼女が知らなくてもいい。
今日の青い水槽の光。
クラゲの前で黙っていた伊集院。
限定ゼリーを自分で頼んだ伊集院。
確認として有意義だったと言い張った伊集院。
それらを、忘れたくないと思った。
少しだけ、そう思った。
帰りの電車の中、悠人は窓の外を見た。
確認はまだ続くらしい。
けれど、それがいつまで続くのかはわからない。
卒業したらどうなるのかも、まだわからない。
伊集院は渡米するかもしれない。
自分は地元の大学に行くかもしれない。
資料室はなくなる。
呼び出しのカードもなくなる。
それでも今日、水族館で並んで歩いた時間は確かにあった。
伊集院が伊集院くんではなく、伊集院家の者でもなく、ただ一人の少女として水槽を見ていた時間。
それは、ほんの少しの時間だった。
でも、たぶん大事な時間だった。
この時間が、いつまで続くのだろう。
悠人はそう思いながら、財布の中の半券に指先で触れた。