「お帰りなさいませ、レイ様」
屋敷へ戻ると、玄関ホールで執事の倉橋が頭を下げた。
初老でありながら背筋はまっすぐで、黒く整えられた髪にも乱れはない。
その立ち姿は、今日も伊集院家の屋敷の一部のように静かだった。
レイは短く答えた。
「ああ」
倉橋はすぐに下がらなかった。
いつもなら、必要な報告だけを済ませ、余計なことは言わない。
だが今日は、わずかにこちらを見ている。
レイは眉を寄せた。
「何だ」
「本日の外出は、滞りなく終えられましたでしょうか」
「確認は完了した」
「左様でございますか」
倉橋は静かに頷いた。
「高瀬様も、ご同行を?」
「……当然だ。外部行動確認には、対象者が必要だ」
「対象者、でございますか」
「何か言いたいことがあるのか」
倉橋は穏やかに微笑んだ。
「いいえ。ただ、レイ様のお戻りのご様子が、出発前とは少し違って見えましたので」
レイはわずかに目を細めた。
「観察が過剰だ」
「長年の習慣でございます」
「不要な習慣だ」
「恐れ入ります」
倉橋は深く頭を下げたが、その声には少しだけ柔らかさがあった。
レイはそれ以上追及しなかった。
追及すれば、倉橋は何かを言うだろう。
高瀬様と過ごされた時間は、有意義でございましたか。
あるいは、
本日は、よいお顔をされております。
そういう余計なことを。
だからレイは、先に言葉を切った。
「渡航書類は」
「すでにお部屋の机へ置いてございます。明日以降の日程も、そちらに」
「わかった」
「明日からしばらく日本を離れられるご予定です。お疲れもあるでしょうから、今夜はお早めにお休みください」
「指示されるまでもない」
「承知しております」
倉橋はまた一礼した。
その落ち着いた声に、水族館の青い光とはまるで違う、伊集院家の静けさが戻ってくる。
丁寧な声。
静かな廊下。
磨かれた床。
整えられた花。
無駄のない足音。
伊集院家の屋敷は、今日も何一つ乱れていない。
だが、その静けさが、今日は少し遠く感じられた。
ついさっきまでいた水族館には、青い光があった。
子供たちの声があった。
水槽の前で立ち止まる人々の気配があった。
カフェには甘い匂いがあった。
高瀬悠人の声もあった。
きれいだな。
そう言った声が、まだ耳の奥に残っている。
レイは廊下を進みながら、ふと思った。
今日、自分は一度も伊集院くんとして振る舞わなかった。
女子生徒たちに囲まれることもなかった。
学校の廊下で完璧な笑みを浮かべることもなかった。
伊集院家の者として、誰かに形式的な挨拶をする必要もなかった。
ただ、高瀬の隣で水槽を見ていた。
それだけだった。
自室に入る。
扉を閉める。
その瞬間、屋敷の静けさがさらに濃くなった。
レイは鞄を机に置き、椅子に腰を下ろす。
そして、朝のことを思い出した。
固定電話の前で、しばらく立っていたこと。
受話器に手を伸ばし、いったん止めたこと。
休日。
高瀬にも予定があるかもしれない。
友人と出かける約束があるかもしれない。
家族の用事があるかもしれない。
すでにどこかへ出かけているかもしれない。
これまでの自分なら、そんなことは考えなかったかもしれない。
必要なら呼ぶ。
確認が必要なら来させる。
相手の都合など、あとから調整すればいい。
少なくとも、最初はそうだった。
高瀬悠人は、秘密を知ってしまった相手だった。
監視対象だった。
確認対象だった。
だから呼び出すことにためらいはなかった。
けれど今朝は違った。
もし、予定があると言われたら。
もし、今日は無理だと言われたら。
もし、断られたら。
その場合、自分は何と言うのか。
予定は別日しろ。
今日の確認は延期する。
必要なら命じる。
言い方はいくらでもある。
それでも、受話器を取るまでに、少し時間がかかった。
「……外部行動計画上、相手の予定確認は必要だった」
レイは小さく呟いた。
そうだ。
高瀬の予定を気にしたのは、確認実施に必要な情報だったからだ。
断られることを恐れたわけではない。
高瀬に会えないかもしれないことが、嫌だったわけではない。
ただ、計画に支障が出る可能性を考慮しただけだ。
そう説明できる。
説明できるはずだった。
レイは机の上に目を向けた。
そこには、倉橋が置いた書類があった。
きれいに揃えられた封筒。
表には、渡航日程と書かれている。
レイは封筒を開け、中の書類を取り出した。
日程表。
搭乗予定。
海外関係者との面会予定。
伊集院家の現地法人に関する資料。
卒業後の渡米に向けた事前面談。
親族筋への顔見せ。
明日しばらく、レイは伊集院家の都合で日本を離れることになっていた。
本格的な渡米ではない。
そう説明されている。
あくまで下準備。
卒業後に向けた確認。
海外関係者への挨拶。
帝王学に関する事前面談。
伊集院家の者として、必要な予定。
そういうことになっている。
レイは書類を見下ろした。
だから今日、高瀬に会っておきたかった。
その言葉が胸の奥に浮かび、すぐに消そうとした。
違う。
そうではない。
今日の外出は、休日における外部行動確認だった。
学校外、休日、人混み、暗所展示、屋内施設における秘密保持行動の確認。
水族館はその条件に合致していた。
だから選んだ。
高瀬に会っておきたかったからではない。
しばらく会えなくなる前に、一度だけ少女として過ごしておきたかったからではない。
レイは書類を封筒へ戻した。
だが、封筒を閉じても、水槽の青は消えなかった。
青い光。
透明なクラゲ。
ゆっくりと漂う動き。
展示室の静けさ。
隣に立つ高瀬。
きれいだな。
高瀬はそう言った。
レイは、展示としてよくできている、と返した。
そう返すしかなかった。
本当は、ただ綺麗だと思った。
水槽の青い光の中では、伊集院家の名前も、学校の伊集院くんも、少しだけ遠かった。
後継者としての印象。
家の体面。
外部への見せ方。
卒業後の予定。
それらは消えたわけではない。
けれど、クラゲの水槽の前に立っていた間だけは、少しだけ遠ざかっていた。
そこにいたのは、伊集院家の者ではなく。
きらめき高校の伊集院くんでもなく。
ただ、水槽を見ている自分だった。
そして、その隣には高瀬がいた。
レイは眉を寄せる。
「……展示環境の効果だ」
暗所展示。
青色照明。
水の揺らぎ。
音の抑制。
人間の心理に一定の影響を与えることは考えられる。
だから、あの場所で余計なことを考えたとしても、それは施設環境のせいだ。
そう説明する。
説明したところで、胸の奥のざわめきは消えなかった。
レイはカフェのことを思い出した。
限定のゼリー。
青い器。
透明な甘さ。
高瀬の少し驚いた顔。
今日は自分で頼んだ。
二年生の頃、喫茶店では違った。
あの時は、自分では頼まなかった。
高瀬が頼むと言って、それを少しだけもらった。
味を確認しただけだ、と言った。
欲しかったわけではない、と言い張った。
でも今日は違った。
自分で頼んだ。
一つなら、と。
欲しかったから頼んだ。
そう言えれば簡単だったのかもしれない。
けれどレイは、限定商品の確認だと説明した。
施設運営の一環。
外部行動確認における付随調査。
水族館のサービス内容把握。
理由はいくらでもある。
だが、スプーンを手に取り、最初の一口を食べた時の感覚は、理由とは別のところにあった。
甘い。
そう言った。
高瀬は、感想それだけか、と笑った。
適度な甘さだ、と言い直した。
それでも、高瀬は笑っていた。
からかいすぎず、意味を暴かず、ただそこにいた。
電話した時、高瀬は普通に応じた。
予定が空いていたのは、確認実施上都合が良かった。
それだけだ。
けれど、本当は少しだけ安堵した。
来られると言われた時。
駅前に高瀬が来た時。
いつものように、時間通りだ、と言った時。
少しだけ、胸の奥が緩んだ。
休日に、わざわざ来た。
自分の確認に付き合った。
水族館まで来て、隣を歩いた。
それが嬉しかった。
そこまで考えて、レイは目を伏せた。
嬉しかった。
その言葉は、まだ扱えない。
自室の空気が少し重く感じられた。
レイは机の上の書類をもう一度見た。
明日から、しばらく日本を離れる。
高瀬には、まだ言っていない。
言えばどうなるのか。
いつから?
どれくらい?
帰ってくるんだよな?
高瀬なら、そう聞くかもしれない。
あるいは、聞かないかもしれない。
気づいても、無理に踏み込まないかもしれない。
それはそれで、困る。
聞かれても困る。
聞かれなくても、きっと少し困る。
言えなかった理由はわかっている。
それを言うと、今日の外出の意味が変わってしまうからだ。
しばらく会えなくなる前に、会っておきたかった。
そう認めることになる。
そんなことは認められない。
だから、外部行動確認にした。
休日における行動範囲確認。
水族館における秘密保持確認。
屋内施設での動線確認。
そう言えば、会う理由になる。
会いたかったから、ではなくなる。
レイは机の引き出しから便箋を取り出した。
確認記録。
そう書き出そうとして、いったん止まる。
少し考えてから、白い紙に文字を書いた。
休日外部行動確認
場所:水族館
混雑度:高
秘密保持上の問題:なし
同行者:高瀬悠人
ここまでは書けた。
事実だった。
何も問題はない。
続けて、実施理由を書く。
ペン先が止まる。
実施理由。
しばらく会えなくなる前に会っておきたかったため。
そんなことは書けない。
書く必要もない。
レイは少し力を入れて、別の言葉を書いた。
実施理由:卒業後確認に伴う外部環境検証
書いてから、しばらくその文字を見つめた。
整った文字だった。
意味も通る。
けれど、どうにも薄く見えた。
今日の水槽の青に比べて、あまりに薄い。
クラゲの動きに比べて、あまりに硬い。
高瀬の「きれいだな」という声に比べて、あまりに遠い。
レイはペンを置いた。
記録は取った。
確認は終了した。
それでいい。
そう思おうとした。
だが、目を閉じると青が浮かんだ。
水槽の青。
クラゲの透明な体。
水の中で揺れる光。
隣に高瀬がいたこと。
自分が、伊集院くんでも伊集院家の者でもなく、ただそこにいた時間。
それを忘れろと言われても、たぶん忘れられない。
そこまで考えて、レイは少しだけ息を飲んだ。
忘れろ。
前にも自分は、高瀬にそう言った。
余計なことを聞いたのなら忘れろ、と。
けれど今日のことはどうだろう。
水族館のことも、忘れろと言えるだろうか。
クラゲの水槽を。
限定のゼリーを。
高瀬と並んで歩いたことを。
言えるはずがない。
そう思いかけて、レイはすぐに首を振った。
忘れる必要がないだけだ。
今日の確認に、秘密保持上の問題はなかった。
だから忘れさせる必要もない。
それだけだ。
レイは確認記録の紙を閉じた。
机の上の渡航書類が目に入る。
明日から、しばらく日本を離れる。
その事実があるだけで、今日の記憶は少し違って見えた。
高瀬は、今日のことを覚えているだろうか。
水槽の青を。
クラゲの動きを。
限定のゼリーを。
自分が、確認として有意義だったと言ったことを。
そんなことを考えてから、レイはすぐに顔をしかめた。
覚えているかどうかを気にする理由などない。
今日の確認は終了した。
必要な情報は得られた。
秘密保持上の問題もなかった。
それだけだ。
けれど、明日からしばらく日本を離れるという事実を前にすると、その結論は少しだけ頼りなかった。
レイは窓の外を見た。
屋敷の庭は静かだった。
水族館の水槽は、もうどこにもない。
それでも、目を閉じると青が残っている。
水槽の青だけが、まだ消えない。
それは、確認結果としては、あまりにも鮮やかすぎた。