ゴールデンウィークが終わると、学校はいつもの調子に戻った。
連休明けの教室には、少しだけ気の抜けた空気が残っている。
「連休、何してた?」
「ほとんど寝てた」
「課題やった?」
「聞くな」
そんな会話が、あちこちで交わされていた。
高瀬悠人も、いつものように教室へ入り、席に着いた。
鞄を置く。
教科書を出す。
進路希望調査の紙を見て、少しだけため息をつく。
三年生の日常は、特別なようで、案外普通に続いている。
ただ、悠人は少しだけ違和感を覚えていた。
伊集院レイを見かけない。
別クラスなのだから、毎日顔を合わせるわけではない。
それはわかっている。
廊下ですれ違わない日もある。
資料室へ呼ばれない日もある。
伊集院が女子生徒たちに囲まれている場面を見ないことだって、珍しいわけではない。
だから最初は、特に深く考えなかった。
今日は忙しいのだろう。
伊集院には、伊集院の予定がある。
進路のこと。
伊集院家のこと。
学校での立場。
いろいろあるのだろう。
そう思った。
放課後、悠人は机の中を確認した。
カードはなかった。
放課後、資料室へ。
確認事項あり。
伊集院レイ
その見慣れた文面は、そこにない。
別に、それが普通だ。
毎日あるものではない。
悠人はそう思い、鞄を持って教室を出た。
翌日も、伊集院を見かけなかった。
その次の日も。
廊下にもいない。
昇降口にもいない。
女子生徒たちが伊集院様と騒いでいる声も聞こえない。
放課後の机の中にも、カードはない。
その頃になって、悠人はようやく気づいた。
伊集院は、学校に来ていないのではないか。
そう思うと、少しだけ胸の奥が落ち着かなくなった。
体調を崩したのか。
家の用事か。
それとも、伊集院家の事情なのか。
水族館へ行った日、伊集院は何も言わなかった。
しばらく学校を休むとも、どこかへ行くとも言わなかった。
ただ、いつものように言っていた。
次も、必要があれば行う。
確認を。
あれが、しばらく会えなくなる前の言葉だったのだとしたら。
そこまで考えて、悠人は首を振った。
まだ何もわかっていない。
勝手に考えすぎるのは違う。
昼休み。
廊下を歩いていると、女子生徒たちの会話が耳に入った。
「伊集院様、しばらくお休みなんだって」
悠人の足が、自然に少し遅くなる。
「海外に行かれてるらしいよ」
「卒業後の準備とか、伊集院家の関係とか」
「やっぱりすごいよね。三年生になったばっかりなのに」
「海外かあ。伊集院様らしいよね」
軽い噂話だった。
悪意はない。
むしろ、憧れに近い声音だった。
伊集院様はすごい。
伊集院家だから当然。
海外へ行くなんて、やはり違う世界の人。
そういう空気。
悠人はその場を通り過ぎた。
海外。
やはり、そうだったのか。
驚きはあった。
だが怒りではなかった。
なぜ言ってくれなかったのか。
その気持ちは、少しだけある。
けれど、それより先に、伊集院らしいと思った。
言えば、こちらが何か聞くかもしれない。
いつから。
どれくらい。
帰ってくるのか。
そう聞くかもしれない。
そして、その問いに答えることで、伊集院は何かを認めることになるのかもしれない。
会えなくなる前に、水族館へ行きたかったこと。
休日に固定電話をかけた理由。
確認という言葉で隠したもの。
悠人がそこまで正確にわかるわけではない。
でも、何となく思った。
言わなかったのも、伊集院らしい。
言えなかったのかもしれない。
放課後。
悠人はまた、机の中を見た。
カードはない。
次の日もなかった。
その次の日も。
最初は習慣だった。
いつものように机の中を見る。
なければ、それで終わり。
けれど数日続くと、その動作が少し違うものに変わっていった。
今日はあるかもしれない。
そう思って見ている自分に気づく。
そして、何も入っていない机の中を見て、少しだけ息を吐く。
確認がない。
それだけのことだ。
それだけのはずだった。
それなのに、放課後の教室が少し広く感じた。
友人が帰ろうぜと声をかけてくる。
悠人は、少し遅れて頷いた。
「悪い、今日はちょっと寄るところある」
「進路指導室?」
「いや、違う」
「何だよ、怪しいな」
「怪しくない」
そう言って友人と別れたあと、悠人は旧校舎へ向かった。
理由はない。
呼ばれていない。
カードもない。
確認事項もない。
それでも、足は自然に旧校舎の階段を上っていた。
三階の廊下は静かだった。
本当に静かだった。
資料室の前に立つ。
扉は閉まっている。
中に伊集院はいない。
当然だ。
海外に行っているらしいのだから。
悠人は、扉の前で少しだけ立ち止まった。
ここは、ただの古い資料室だった。
埃っぽい廊下。
あまり使われていない教室。
古い机と椅子。
資料の棚。
伊集院がいなければ、ここには特別なものなど何もない。
そう思った瞬間、少しだけ胸の奥が重くなった。
この場所が特別だったわけではない。
ここで伊集院が待っていたからだ。
「遅い」と言われたからだ。
「時間通りだ」と返したからだ。
「確認だ」と言い張る伊集院がいたからだ。
二人が積み重ねてきたものは、場所にあったのではない。
伊集院と高瀬がいたから、そこに確認があった。
悠人は扉に触れなかった。
開ける理由がない。
そのまま、ゆっくり旧校舎を後にした。
帰り道、駅へ向かう途中で財布を開いた。
定期を出そうとして、その奥に挟まった小さな紙に気づく。
水族館の半券だった。
まだ捨てていなかった。
なぜ残しているのか、自分でもよくわからない。
入場の時にもらっただけの紙だ。
もう使えない。
持っていても意味はない。
それでも、悠人はそれを指先で軽くなぞった。
青い水槽を思い出す。
クラゲがゆっくり漂っていたこと。
伊集院が黙って見ていたこと。
水槽の光に照らされた横顔。
ペンギンを見て、興味がないと言い張ったこと。
限定ゼリーを、自分で頼んだこと。
確認として、有意義だった。
そう言った伊集院の声。
楽しそうだったと言えば、否定する。
でも、以前ほど強くは否定しなかった。
悠人は半券を財布に戻した。
捨てる気にはならなかった。
伊集院は、今日のことを覚えているだろうか。
そう考えて、少しだけ苦笑する。
もちろん覚えているだろう。
あの伊集院が、確認事項を忘れるはずがない。
そういう意味ではない。
あの日を、ただの外部行動確認として覚えているのか。
それとも、少しは別のものとして覚えているのか。
悠人にはわからなかった。
家に帰ると、固定電話が目に入った。
伊集院から電話がかかってきた朝のことを思い出す。
こちらからかけることも、できるのかもしれない。
伊集院邸に連絡すれば、何かはわかるかもしれない。
海外にいるのか。
いつ帰るのか。
何かあったのか。
聞きたいことはある。
けれど、悠人は受話器を取らなかった。
伊集院が言わなかったことを、自分から屋敷へ問い合わせるのは違う気がした。
伊集院が自分から話していないことを、周りから聞き出すのも違う。
倉橋から話を聞いた時も、そう思った。
伊集院から聞いていないことを、自分がわかった顔で言うつもりはない。
なら、今回も同じだ。
伊集院が帰ってきて、話す必要があると思ったら話すだろう。
話さないなら、それも伊集院の判断だ。
悠人はそう考え、受話器から目を離した。
それでも、寂しくないわけではなかった。
翌日も、その次の日も、伊集院はいなかった。
教室では進路の話が進んでいく。
第一志望を仮に書いた生徒。
担任に呼ばれた生徒。
模試の話をする生徒。
部活の引退時期を気にする生徒。
三年生の日常は、伊集院がいなくても進んでいく。
当たり前だ。
学校は、一人の生徒がいなくても止まらない。
それでも悠人にとって、どこかが静かだった。
放課後の机の中。
旧校舎への廊下。
資料室の扉。
昇降口の人混み。
そこに伊集院がいないだけで、学校の中の音が少し遠く聞こえる。
伊集院がいない日々は、思ったより静かだった。
それを寂しいと思う程度には、自分はもう、確認に慣れてしまっている。
悠人は、そう認めるしかなかった。
好きだとか、そういう言葉はまだよくわからない。
けれど、伊集院がいないことを何とも思わないほど、自分はもう無関係ではない。
それだけは、はっきりしていた。
数日後。
放課後、悠人はいつものように机の中を見た。
そして、息を止めた。
白いカードが入っていた。
見慣れた文字。
放課後、資料室へ。
確認事項あり。
伊集院レイ
悠人は、そのカードをしばらく見つめた。
戻ってきた。
そう思ってしまった。
そのことに、自分で気づいた。
安心したのだと、少し遅れてわかった。
カードを手に取る。
紙の感触は、以前と何も変わらない。
文面も、いつも通りだ。
ただ、それだけで、放課後の教室が少しだけ元の広さに戻ったような気がした。
悠人はカードを鞄にしまった。
そして、旧校舎へ向かうために席を立った。