白いカードを見つけた時、高瀬悠人は少しだけ息を止めた。
放課後、資料室へ。
確認事項あり。
伊集院レイ
見慣れた文面だった。
何度も見てきた文字。
何度も従ってきた呼び出し。
何度も面倒だと思いながら、それでも旧校舎へ向かったカード。
それが、久しぶりに机の中に入っていた。
戻ってきた。
そう思ってしまった自分に、悠人は少し遅れて気づいた。
伊集院レイが戻ってきた。
海外に行っていたらしいことは、噂で聞いていた。
伊集院家の用事。
卒業後の準備。
渡米に向けた何か。
詳しいことは知らない。
本人から聞いたわけではない。
けれど、そのカードがあるだけで、伊集院が学校に戻ってきたことはわかった。
放課後、悠人は旧校舎へ向かった。
三階の廊下は、相変わらず静かだった。
数日前、呼ばれてもいないのに、この資料室の前まで来た。
その時は扉が閉まっていて、中には誰もいなかった。
ただの古い資料室。
そのはずだった。
けれど今、扉の向こうに伊集院がいるかもしれないと思うだけで、その場所は以前の意味を取り戻しているように感じた。
悠人は資料室の前で立ち止まる。
少しだけ懐かしい。
そう思ってから、軽く扉を叩いた。
「入れ」
聞き慣れた声がした。
悠人は扉を開けた。
窓際の机。
整えられた書類。
背筋を伸ばして座る伊集院レイ。
そこに、伊集院がいた。
制服姿。
相変わらず隙がない。
表情も声も落ち着いている。
何も変わっていないように見えた。
けれど悠人は、そこで初めて、自分が安心していることに気づいた。
伊集院は、こちらを見るなり言った。
「遅い」
「時間通りだ」
「私より後に来た」
「帰国してもそれなんだな」
「当然だ」
そのやり取りだけで、空気が少し戻った。
戻った、と思ってしまった。
悠人は椅子に座る。
机の上には数枚の紙が置かれている。
いつもの確認用らしい。
「海外に行ってたんだな」
悠人が言うと、伊集院の指がわずかに止まった。
「誰から聞いた」
「噂で」
「そうか」
伊集院は短く答えた。
それだけだった。
海外へ行っていたことを否定しない。
けれど、自分から説明するつもりもない。
その態度は、いかにも伊集院らしかった。
悠人は少しだけ迷ってから言った。
「言ってくれてもよかっただろ」
伊集院はすぐには答えなかった。
窓の外へ視線を向ける。
春から初夏に変わりかけた光が、古いガラス越しに入っている。
「必要がなかった」
ようやく、伊集院はそう言った。
「そうか」
「不満か」
悠人は少し考えた。
怒っているわけではない。
責めたいわけでもない。
ただ、数日間、伊集院がいない学校が思ったより静かだった。
机の中にカードがないことを、何度も確認してしまった。
資料室の前まで行った。
財布の中の水族館の半券を見た。
それを、何も感じていないことにはできなかった。
「少しだけ」
そう答えると、伊集院がこちらを見た。
表情はほとんど変わらない。
けれど、確かに一瞬、言葉を失ったように見えた。
「……少し?」
「少しだけ」
「確認の有無に依存しすぎだ」
「伊集院が慣らしたんだろ」
「責任転嫁だ」
「そうか?」
「そうだ」
いつもの形に戻った。
だが、伊集院の声は少しだけ硬かった。
高瀬が「少しだけ」と言った意味を、彼女はたぶん理解している。
責めているわけではない。
けれど、何も思わなかったわけでもない。
それをどう受け取ればいいのか、伊集院は少し困っているように見えた。
悠人は、それ以上追及しなかった。
伊集院が言わなかった理由を、無理に聞き出すつもりはなかった。
言えなかったのだろう。
そう思った。
水族館の日。
休日に固定電話をかけてきた理由。
あれが、しばらく会えなくなる前の外出だったのだとすれば。
そう考えかけて、悠人は止めた。
それを自分の中で決めつけるのは違う。
伊集院本人が言っていないのだから。
伊集院は机の上の紙を一枚手に取った。
「確認を始める」
「帰国後確認ってやつか?」
「名称は重要ではない」
「重要そうだけどな」
「重要なのは内容だ」
伊集院は淡々と言った。
「まず、私の不在期間中、君が私の秘密に関する情報を第三者へ漏らしていないか確認する」
「漏らしてない」
「即答か」
「漏らしてないからな」
「次に、不在期間中の君の放課後の行動について」
「それも確認するのか?」
「机の中にカードが入っていない期間、君が不用意な行動を取った可能性がある」
悠人は少しだけ目を逸らした。
資料室の前まで行ったことを思い出した。
伊集院はそれを見逃さなかった。
「何だ」
「いや」
「何かあるな」
「不用意な行動ってほどじゃない」
「具体的に言え」
悠人は少し迷ったが、隠すほどのことでもないと思った。
「一度、資料室の前まで行った」
伊集院の表情が、ほんの少しだけ動いた。
「呼んでいない」
「わかってる」
「なら、なぜ行った」
「何となく」
「何となくで旧校舎三階まで行くな」
「俺もそう思った」
伊集院は紙を見るふりをした。
「……確認がない期間の行動としては、不合理だ」
「だよな」
「だが、秘密保持上の問題はない」
「そこは評価されるのか」
「評価ではない。記録だ」
悠人は少し笑った。
伊集院はその笑いを無視して、次の紙へ移る。
「次に、水族館での外部行動確認について」
水族館。
その言葉が出た瞬間、悠人は無意識に財布の入ったポケットへ指を触れた。
中には、あの半券が入っている。
伊集院はその動きには気づかなかったようだった。
「誰かに話したか」
「話してない」
「本当に?」
「本当に」
「休日に女子と水族館へ行ったなどと、友人に話していないだろうな」
「女子って言うんだな」
伊集院の目が鋭くなる。
「揚げ足を取るな」
「悪い」
「答えろ」
「話してない。誰にも」
「ならよい」
伊集院は紙に何かを書き込む。
悠人はそれを見ながら思った。
この確認は、たぶん建前だ。
伊集院が本当に知りたいのは、自分が秘密を漏らしたかどうかだけではない。
伊集院がいない間、自分がどうしていたのか。
水族館のことをどう覚えているのか。
確認がない日々を、どう感じていたのか。
それを聞きたいのだろう。
けれど、伊集院はそれをそのまま聞かない。
聞けない。
だから確認にする。
以前なら、それが少し面倒だったかもしれない。
今は、少しだけわかる気がした。
「高瀬」
「何だ?」
「不在期間中、特に問題はなかったという認識でよいな」
「秘密保持については、問題ない」
「それ以外は?」
悠人は少しだけ伊集院を見る。
伊集院は、こちらを見ていない。
紙を見ている。
けれど、返事は待っている。
「少し静かだった」
伊集院のペンが止まった。
「……それは、確認事項ではない」
「そうか」
「不要な感想だ」
「でも、聞いたのは伊集院だろ」
「聞き方の解釈が不適切だ」
「そういうことにしておく」
「その言い方はやめろ」
また、いつものやり取りだった。
けれど、今度は伊集院がすぐに次の紙へ移らなかった。
少しだけ間があった。
その間を、悠人は壊さなかった。
しばらくして、伊集院が口を開いた。
「向こうで、卒業後のことをいくつか確認した」
悠人は顔を上げた。
「渡米の準備?」
「それも含む」
「他にもあるのか?」
伊集院は答えなかった。
窓の外を見る。
その横顔は、いつものように整っている。
だが、どこか遠い。
「……今は話す必要がない」
「そうか」
悠人はそれ以上聞かなかった。
本当は、気になった。
卒業後のこと。
渡米の準備以外のこと。
伊集院家のしきたり。
秘密を知っている自分。
倉橋が言っていた「レイ様を一人の方として見て差し上げてください」という言葉。
それらが全部、頭の中でつながりかけた。
けれど、まだ形にはならない。
伊集院が今は話す必要がないと言うなら、今は聞かない。
それが正しいのかどうかはわからない。
でも、高瀬悠人はそうすることにした。
伊集院は紙を揃えた。
「今日の確認は、以上だ」
「短いな」
「必要な事項は確認した」
「海外の話は?」
「今は話す必要がないと言った」
「わかった」
伊集院は少しだけ意外そうに悠人を見た。
「追及しないのか」
「してほしいのか?」
「そういう意味ではない」
「ならしない」
「……君は、時々扱いづらい」
「よく言われるな、それ」
「主に私が言っている」
「知ってる」
少しだけ、空気が緩んだ。
それがありがたかった。
重い話の隙間に、いつもの会話がある。
それだけで、ここがまた資料室になる。
ただの古い部屋ではなくなる。
伊集院は立ち上がった。
「確認は、再開する」
悠人も立ち上がる。
「しばらく休みだったしな」
「休みではない。不在だっただけだ」
「じゃあ、再開だな」
伊集院は、ほんの少しだけ間を置いた。
「……そうだ」
その声は、小さかった。
けれど、否定ではなかった。
確認は再開する。
二人の関係も、いつもの形に戻ったように見える。
だが、完全に同じではない。
伊集院は海外へ行っていた。
そこで卒業後の何かを確認した。
今は話す必要がない、と言った。
その言葉の奥に、まだ何かがある。
悠人には、それがわかった。
それでも今は、伊集院が戻ってきたことに少しだけ安心していた。
資料室を出る前に、悠人はふと振り返る。
伊集院は机の上の紙を片づけていた。
いつものように整った姿。
けれど、その横顔にはどこか、帰ってきたばかりの遠さが残っているように見えた。
「伊集院」
「何だ」
「おかえり」
伊集院の手が止まった。
ほんの一瞬。
それから、彼女は視線を逸らした。
「……必要のない挨拶だ」
「そうか?」
「そうだ」
「でも、言っとく」
伊集院は黙った。
そして、小さく言った。
「確認としては、受理しておく」
悠人は少し笑った。
「何でも確認にするな」
「私の自由だ」
そのやり取りを最後に、悠人は資料室を出た。
廊下には、夕方の光が差していた。
確認は、再開した。
けれどその先にあるものは、まだ見えなかった。