高瀬悠人が資料室を出ていった後、伊集院レイはしばらく机の前に立っていた。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
旧校舎三階の廊下は、すぐに静かになった。
レイは机の上の書類に手を伸ばす。
確認記録。
帰国後の行動確認。
不在期間中の秘密保持状況。
水族館での外部行動確認に関する追加確認。
紙は整っている。
必要な事項は確認した。
高瀬が秘密を漏らしていないこと。
不在期間中に不用意な行動を取っていないこと。
水族館の件を誰にも話していないこと。
確認は終了した。
そのはずだった。
けれど、レイの手は書類を揃えるだけで、なかなか片づけられなかった。
頭の中には、さっきの声が残っていた。
――おかえり。
必要のない挨拶だ。
そう言った。
確認としては、受理しておく。
そう返した。
いつものように、言葉を整えたはずだった。
けれど、その言葉は確認事項ではなかった。
報告でも、命令でも、義務でもなかった。
高瀬悠人が、ただ自分が戻ってきたことを受け止めて言った言葉だった。
だから処理できない。
レイは椅子に座った。
資料室は静かだった。
この数日間、海外での予定は詰まっていた。
ホテル。
車の移動。
会議室。
親族との面会。
伊集院家の関係者。
現地法人の者たち。
卒業後の渡米準備。
帝王学に関する事前面談。
どれも伊集院家の者として必要なことだった。
そして帰国後、すぐに高瀬を呼び出した。
確認を再開するため。
そういうことになっている。
だが、高瀬が来るまで、レイは落ち着かなかった。
机の上に確認資料を並べた。
必要な質問も用意した。
返答の想定もした。
不在期間中、秘密を漏らしていないか。
水族館の件を誰かに話していないか。
資料室へ不用意に近づいていないか。
それらは確認事項として妥当だった。
同時に、別の想定もしていた。
なぜ黙っていたんだ。
海外に行くなら、言ってくれてもよかっただろ。
水族館の日には、もう決まっていたのか。
高瀬なら、そう言うかもしれない。
怒るかもしれない。
責めるかもしれない。
あるいは、何も言わないかもしれない。
そのどれもが、少し怖かった。
怖い、という言葉は不適切だ。
レイは自分にそう言い聞かせる。
単に、確認対象の反応が予測しづらかっただけだ。
不在情報を共有しなかったことによる影響を測定する必要があっただけだ。
高瀬がどう反応するかは、今後の秘密保持体制に関わる。
だから気にしていた。
それだけだ。
それでも、扉が開いて高瀬が入ってきた時。
そして、いつものように言った時。
「帰国してもそれなんだな」
そう言った時。
レイは、少しだけ安心した。
高瀬は変わっていなかった。
怒鳴らなかった。
距離を置かなかった。
妙に気を遣いすぎることもなかった。
いつもの高瀬悠人だった。
それが、思っていたよりも大きかった。
なのに。
――不満か。
そう聞いた時、高瀬は少し考えてから言った。
――少しだけ。
少しだけ。
レイは、その言葉を思い返して眉を寄せた。
責められなかったことには、安心した。
しかし、少しだけという返答には、なぜか引っかかった。
少しだけ。
自分は海外にいる間、水槽の青を思い出していた。
クラゲの水槽。
青い光。
隣に立つ高瀬。
限定のゼリー。
確認として有意義だったと言い張った自分。
帰国したら、どう呼び出すかを考えていた。
資料室にするか。
屋敷にするか。
カードの文面はどうするか。
不在を説明する必要があるのか。
高瀬は何を言うのか。
そんなことを、何度も考えていた。
それなのに、高瀬は少しだけ。
「……何を不満に思っている」
レイは小さく呟いた。
少しだけで十分ではないか。
強く責められるよりよい。
何も感じていないと言われるよりよい。
少しだけ不満だったということは、少しは気にしていたということだ。
それで十分なはずだ。
それ以上を望む理由などない。
自分は何を期待していたのか。
もっと不満だと言われたかったのか。
もっと心配したと言われたかったのか。
もっと寂しかったと、言われたかったのか。
そこまで考えて、レイはすぐに打ち消した。
馬鹿な。
高瀬がどう感じたかは、確認上の情報にすぎない。
彼が不在をどう受け止めたか。
確認再開をどう認識していたか。
秘密保持体制に影響があったか。
それだけだ。
それだけなのに、胸の奥のざわつきは消えなかった。
海外での会議室を思い出す。
窓の大きな部屋だった。
外には、日本とは違う街並みが広がっていた。
親族の一人が、淡々と話していた。
卒業後の渡米。
現地での教育。
伊集院家の次代としての顔見せ。
外部関係者との整理。
その中で、ある言葉が出た。
「高校卒業後は、外部者との関係も整理しておく必要があります」
別の者が続けた。
「特に、内情に触れる可能性のある者については、管理方法を検討すべきです」
さらに、誰かが言った。
「必要であれば、記憶処理を含めた措置も、選択肢としては残しておくべきでしょう」
その場で、レイは表情を変えなかった。
伊集院家の者として、冷静に聞いた。
外部者。
内情に触れる者。
管理方法。
記憶処理。
高瀬悠人の名前は出ていない。
誰も、彼のことを直接言ったわけではない。
だが、レイの頭には高瀬の顔が浮かんだ。
資料室へ来る高瀬。
水族館で隣に立っていた高瀬。
クラゲの水槽を見て、きれいだなと言った高瀬。
机の中にカードがないと静かだと言った高瀬。
おかえりと言った高瀬。
伊集院家から見れば、高瀬は外部者だ。
秘密を知る者。
将来のリスク。
卒業後、学校という管理された環境から外れる存在。
そう分類できる。
分類できるはずだった。
だが、レイは会議室で思った。
高瀬は、管理対象ではない。
そう思いかけて、すぐに自分で止めた。
危険な言葉だった。
管理対象ではないと言うなら、では何なのか。
秘密保持者か。
確認対象か。
資料室に来る者か。
水族館で隣にいた者か。
自分におかえりと言った者か。
そのどれも正しい。
だが、どれか一つでは足りない。
それを認めることは、高瀬悠人が自分にとって特別な存在だと認めることに近い。
だから、認めない。
高瀬は確認対象だ。
秘密保持者だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
レイは机の上の書類を揃えた。
いつものように、整える。
整えれば、考えも整う。
そう思ったが、うまくいかなかった。
資料室を出て屋敷へ戻ると、玄関ホールで倉橋が待っていた。
「お帰りなさいませ、レイ様」
その声はいつも通りだった。
静かで、丁寧で、過不足がない。
レイは短く答えた。
「ああ」
倉橋は一礼した後、少しだけ間を置いた。
「高瀬様とは、お話しになれましたか」
レイは目を細めた。
「確認は行った」
「左様でございますか」
倉橋はそれ以上、何も言わなかった。
何も言わなかったのに、レイには聞こえた気がした。
本当に、それだけでございましたか。
そう言われたような気がした。
「何だ」
「いいえ」
「言いたいことがあるなら言え」
「確認が滞りなく行われたのであれば、何よりでございます」
「……余計な含みを持たせるな」
「失礼いたしました」
倉橋は穏やかに頭を下げた。
その態度が、また腹立たしい。
倉橋は幼い頃からレイを見ている。
言葉にしなくても、余計なことを察する。
水族館から帰った時もそうだった。
今日もそうだ。
高瀬に会ったこと。
おかえりと言われたこと。
それをまだ処理できていないこと。
まるで見透かされているようだった。
レイはそれ以上何も言わず、自室へ向かった。
部屋に入り、扉を閉める。
屋敷の静けさが戻る。
机の前に座ると、確認記録を開いた。
帰国後確認。
不在期間中の秘密保持状況。
高瀬悠人の行動確認。
書けることはいくらでもある。
高瀬は秘密を漏らしていない。
水族館の件も誰にも話していない。
資料室の前まで来たことはあるが、秘密保持上の問題はない。
不在について少しだけ不満を示した。
確認再開について受容した。
そこまでは書ける。
だが、
おかえり。
その一言は、どこにも書けなかった。
レイはペンを止める。
屋敷では、何度も言われる言葉だ。
お帰りなさいませ、レイ様。
倉橋も、使用人も言う。
それは、伊集院家の者が伊集院家へ戻ったことへの挨拶だ。
役割へ戻ったことへの言葉。
レイ様への言葉。
整えられた家の中で、整えられた立場に戻るための言葉。
高瀬の「おかえり」は違った。
敬語ではない。
役割への挨拶でもない。
伊集院家のレイ様への言葉でもない。
高瀬悠人が、伊集院レイに言った。
そこには、待っていた側の気配があった。
高瀬は、自分を待っていたのか。
そう考えかけて、レイは顔をしかめた。
違う。
確認再開を待っていただけだ。
秘密保持体制の復旧を確認したにすぎない。
机の中にカードがない状態に慣れず、確認が再開されたことで安心しただけだ。
そう説明できる。
だが、その説明はあまりに苦しい。
高瀬は、最後に言った。
おかえり。
それは、確認ではなかった。
だから、受理できない。
レイは確認記録を見下ろした。
記録欄は、どれも整っている。
日時。
場所。
確認事項。
結果。
備考。
そのどこにも、「おかえり」を書く場所はない。
書く必要もない。
そもそも、記録するようなことではない。
そう思うのに、胸の奥から消えない。
「……必要のない挨拶だ」
レイは呟いた。
その言葉は、部屋の中に静かに落ちた。
必要はない。
だが、不要ではなかった。
そう思いかけて、レイはペンを置いた。
おかえり。
その言葉は、確認事項ではなかった。
報告でも、命令でも、義務でもなかった。
だから、受理するという処理では片づかなかった。
伊集院レイは机の上の確認記録を閉じた。
だが、高瀬悠人の「おかえり」だけは、どの欄にも記録できないまま、胸の奥に残っていた。