六月に入ってから、雨の日が増えた。
朝から降っている日もあれば、昼過ぎから急に空が暗くなる日もある。
廊下には、濡れた傘の匂いが残り、教室の窓は白く曇ることが多くなった。
高瀬悠人は、放課後の教室で机の中を確認した。
白いカードが入っている。
放課後、資料室へ。
確認事項あり。
伊集院レイ
見慣れた文字だった。
連休明け、伊集院が海外から戻ってきて、最初にこのカードを見つけた時、悠人は少しだけ安心した。
その時のことを、今でも覚えている。
伊集院は資料室にいた。
いつものように「遅い」と言った。
いつものように確認を始めた。
けれど、その確認は、以前とは少し違っていた。
伊集院が不在だったこと。
海外で卒業後のことをいくつか確認してきたこと。
そして、悠人が「おかえり」と言ったこと。
それらが、資料室の空気の中に残っていた。
あれから、確認は再開された。
いや、再開どころではない。
以前より少し増えた気がする。
悠人はカードを鞄にしまい、窓の外を見た。
雨はまだ降っている。
朝は小雨だったはずだが、放課後になってから少し強くなっていた。
傘はある。
……と思って鞄を見て、悠人は手を止めた。
ない。
朝、玄関に置いたままだ。
「やったな」
小さく呟く。
梅雨の時期に傘を忘れるとは、さすがに迂闊だった。
だが、今さら取りに帰るわけにもいかない。
とりあえず、資料室へ行くしかない。
旧校舎の廊下は、雨の日だとさらに静かだった。
窓の外では雨が細かく降り続けている。
古い窓枠に当たる雨音が、一定のリズムで響いていた。
資料室の前で、悠人は扉を叩く。
「入れ」
いつもの声。
悠人は扉を開けた。
伊集院レイは、窓際の机に座っていた。
雨の日の薄暗さのせいか、資料室の中はいつもより少し落ち着いて見える。
机の上には、また数枚の紙が並んでいる。
「遅い」
「時間通りだ」
「私より後に来た」
「雨の日でもそれなんだな」
「当然だ」
いつものやり取り。
悠人は椅子に座った。
「で、今日は何の確認だ?」
伊集院は紙を一枚手に取る。
「帰国後確認の補足だ」
「また?」
「また、とは何だ」
「最近、確認多いなと思って」
伊集院は当然のように答えた。
「不在期間があったため、補填が必要だ」
「補填」
「そうだ。不在期間中の確認欠落を放置するわけにはいかない」
「そんな大げさなものだったか?」
「大げさではない。確認体制の維持に必要な措置だ」
「便利だな、確認体制」
「君が雑に扱いすぎているだけだ」
伊集院は淡々としている。
だが、悠人には少しだけわかる。
これは建前だ。
もちろん、秘密保持の確認という意味はあるのだろう。
でも、それだけではない。
海外から戻って以来、伊集院は以前より少し頻繁に資料室へ呼ぶようになった。
帰国後確認。
不在期間中の補足確認。
水族館の外部行動確認の再確認。
進路希望調査に伴う行動範囲確認。
言葉はいくらでもある。
けれど、本当にそれだけなのか。
悠人は少しだけ笑った。
「何だ」
伊集院が鋭く見る。
「いや。帰ってきたんだなと思って」
伊集院の手が止まる。
「……何を今さら」
「確認が増えたから」
「不在期間分の補正だと言った」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
雨音が、窓の外で続いている。
伊集院は紙に目を戻した。
「では確認する。不在期間中、私に関する不用意な発言は」
「してない」
「水族館に関する発言は」
「してない」
「資料室への不用意な接近は」
「前に言っただろ。一回だけ」
「理由は」
「何となく」
「不合理だ」
「それも前に聞いた」
「再確認だ」
「本当に最近多いな、再確認」
「補填だ」
伊集院は表情を変えずに言う。
悠人は少し肩をすくめた。
このやり取りが戻ってきたことを、面倒だと思う一方で、どこか安心している。
それが自分でも少しおかしかった。
確認が一通り終わる頃には、雨がさらに強くなっていた。
窓の外を見ると、校庭に細かい波紋が広がっている。
雲は厚く、夕方にはまだ少し早いのに、外は薄暗い。
伊集院は窓の外を見た。
「雨が強くなっている」
「みたいだな」
「傘はあるのか」
悠人は一瞬黙った。
伊集院がこちらを見る。
「……ないのか」
「朝、玄関に置いてきた」
伊集院は目を細めた。
「六月に傘を忘れるとは、確認対象としての危機管理が甘い」
「そこまで言うか」
「事実だ」
「返す言葉がない」
悠人は苦笑する。
駅まで走ることも考えたが、この雨ではかなり濡れる。
教科書も鞄も無事では済まないだろう。
伊集院は机の横に置いていた鞄を開けた。
中から、折りたたみ傘を取り出す。
「これを使え」
悠人は少し驚いた。
「いいのか?」
「予備だ」
「用意いいな」
「当然だ。天候変化は想定しておくべきだ」
伊集院は傘を差し出した。
落ち着いた色の折りたたみ傘だった。
悠人は受け取りながら言う。
「助かった」
伊集院はすぐに視線を逸らした。
「確認対象が濡れて体調を崩すと困る」
「心配してる?」
「管理だ」
「管理か」
「そうだ。確認対象の体調不良は、今後の確認計画に支障をきたす」
「確認のため、か」
「確認のためだ」
伊集院はきっぱり言った。
悠人は傘を見下ろした。
以前なら、こういう時も、もっと硬い言い方だったかもしれない。
あるいは、貸す前にもう少し嫌味を言ったかもしれない。
今も十分言っている。
だが、差し出す動作は自然だった。
迷いがなかった。
まるで、最初からそうするつもりだったみたいに。
「伊集院は?」
「私は別の傘がある」
「予備が二本あるのか?」
「一本は通常用、一本は予備だ」
「本当に用意いいな」
「君が不用意すぎるだけだ」
「それは否定しない」
悠人は傘を丁寧に鞄へ入れた。
「駅までなら、これで十分だと思う」
「駅まで使え。明日返せばいい」
「わかった」
少し間が空く。
雨音が部屋に満ちる。
悠人はふと、言った。
「こういうのも確認なのか?」
伊集院は少しだけ眉を上げる。
「何がだ」
「傘を貸すの」
「当然だ」
「どういう確認?」
「雨天時における確認対象の行動維持」
「また便利な言葉だな」
「事実だ」
「じゃあ、ありがとう。確認のために助かった」
伊集院は一瞬、言葉に詰まった。
「……礼の言い方が不適切だ」
「そうか?」
「そうだ」
「普通に言ったつもりだけど」
「君は時々、余計なところで素直になる」
「それ、褒めてる?」
「評価だ」
いつもの言葉が返ってきた。
悠人は少し笑った。
伊集院もすぐに目を逸らしたが、雨の日の資料室の空気は、少しだけ柔らかくなっていた。
確認は終わった。
伊集院は書類を整える。
悠人は立ち上がる。
「じゃあ、帰る」
「傘は忘れるな」
「今度は借りたやつだから忘れない」
「信用できない」
「ひどいな」
「実績に基づく評価だ」
「傘一本でそこまで言われるのか」
「六月に傘を忘れた事実は重い」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
資料室の扉を開ける前に、悠人は振り返った。
伊集院は机の上の紙を片づけている。
雨の光の中で、その横顔は静かだった。
伊集院くんとしての完璧な顔でも、伊集院家の者としての遠い顔でもない。
資料室にいる、いつもの伊集院。
確認だと言い張りながら、傘を貸してくれる伊集院。
悠人は短く言った。
「明日、返す」
「当然だ」
「濡らさないようにする」
「借り物だからな」
「わかってる」
「高瀬」
「何だ?」
伊集院は少しだけ間を置いて言った。
「……駅まで、気をつけて帰れ」
悠人は目を瞬いた。
それから、少しだけ笑った。
「それも確認?」
伊集院はすぐに答えた。
「確認だ」
「そっか」
「何だ、その顔は」
「いや、助かった」
伊集院は、また視線を逸らす。
「確認のためだ」
「わかった」
悠人は資料室を出た。
旧校舎の廊下を歩く。
窓の外では、雨がまだ降っている。
昇降口で伊集院の傘を開くと、小さく布が広がった。
しっかりした傘だった。
駅までの道を歩きながら、悠人は少しだけ考えた。
帰国後、確認は再開した。
むしろ増えている。
不在期間の補填。
帰国後確認。
雨天時の確認対象管理。
伊集院は、相変わらず何でも確認にする。
でも、それが以前とまったく同じではないことも、悠人にはわかっていた。
傘を貸したこと。
駅まで気をつけて帰れと言ったこと。
それを確認だと言い張ったこと。
その全部が、伊集院らしい。
そして、その伊集院らしさを、少し嬉しいと思っている自分がいる。
雨は強かった。
けれど、借りた傘のおかげで、悠人はほとんど濡れずに駅まで着いた。
改札の前で、ふと傘を見下ろす。
明日、返す。
それだけの約束だ。
でも、その約束があることに、少しだけ安心していた。
確認は、まだ続くらしい。
雨の日でも。
伊集院レイは、確認を続ける。
そして高瀬悠人も、もうそれを面倒なだけのものとは思えなくなっていた。