伊集院レイは、伝説の木の下で少女になる   作:エーアイ

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伊集院レイは、放課後に呼び出す

 翌日のきらめき高校は、いつも通りだった。

 

 朝の昇降口では、眠そうな顔をした生徒が靴を履き替えている。

 廊下では、昨日のテレビ番組の話をしている連中がいる。

 教室では、小テストの範囲を確認している女子たちがいて、その横で男子が「今日だったっけ」と絶望していた。

 

 何も変わっていない。

 

 少なくとも、学校はそう見えた。

 

 けれど高瀬悠人にとっては、昨日までと同じではなかった。

 

 昨日、見てしまった。

 

 立ち入り禁止だった特別教室棟の奥。

 更衣室代わりに使われていた小部屋。

 そこにいた伊集院レイ。

 

 きらめき高校の誰もが知る、完璧な伊集院くん。

 

 その伊集院が――本当は女性だった。

 

 考えないようにしても、頭の中に浮かんでしまう。

 

 見てはいけないものを見た。

 知ってはいけないことを知った。

 そして、言ってはいけないことを抱え込んだ。

 

 そんな感覚だった。

 

 「高瀬、どうした? 眠そうだけど」

 

 隣の席の友人が声をかけてきた。

 

 「いや、ちょっと寝不足」

 

 「珍しいな。ゲーム?」

 

 「違う」

 

 「じゃあ勉強?」

 

 「それも違う」

 

 「じゃあ何だよ」

 

 「……秘密」

 

 自分で言ってから、悠人はしまったと思った。

 

 秘密。

 

 その単語だけで、昨日のことが胸の奥から顔を出す。

 

 友人は何も気づかず、軽く笑った。

 

 「なんだよ、それ」

 

 「何でもない」

 

 悠人は曖昧に笑って、教科書を開いた。

 

 授業が始まる。

 

 教師の声。

 黒板に書かれる文字。

 ノートを取る音。

 いつもの午前中。

 

 けれど、集中できなかった。

 

 視線が、どうしても廊下側の窓へ向いてしまう。

 

 伊集院レイのクラスは別だ。

 授業中に姿が見えるわけではない。

 

 それでも、昨日の伊集院の声が耳に残っていた。

 

 ――この秘密を漏らせば、君の高校生活は終わる。

 

 退学。

 

 あれは冗談ではなかった。

 

 伊集院家なら、本当にできるのかもしれない。

 

 だが、悠人が気になっていたのはそこだけではなかった。

 

 ――そして、私の高校生活も終わる。

 

 あの一言。

 

 脅しではなく、ほとんど本音のように落ちた声。

 

 伊集院は怖かったのだ。

 

 あの伊集院レイが。

 

 学校中の誰より余裕がありそうで、何を言われても涼しい顔をしているあの伊集院が、昨日は確かに追い詰められていた。

 

 その事実が、悠人の中に残っていた。

 

 昼休みになった。

 

 教室の空気が一気に緩む。

 

 弁当を広げる者。

 購買へ走る者。

 机を寄せて話し始める者。

 

 悠人も弁当を出そうとして、ふと廊下がざわつくのを感じた。

 

 「伊集院様だ」

 

 誰かが小さく言った。

 

 廊下を見る。

 

 伊集院レイが歩いていた。

 

 昨日と同じ制服。

 昨日と同じ姿勢。

 昨日と同じ、誰も寄せつけないほど整った横顔。

 

 女子生徒たちが自然と視線を向ける。

 

 「やっぱり格好いいよね」

 

 「今日も素敵……」

 

 そういう声が、どこかから聞こえた。

 

 男子の何人かは面白くなさそうに目を逸らしている。

 

 それも、いつもの光景だった。

 

 伊集院は、いつも通りだった。

 

 昨日、秘密を見られた人間とは思えないほど。

 

 あの小部屋で青ざめていた少女の面影など、どこにもない。

 完全に、きらめき高校の伊集院レイだった。

 

 悠人は思わず見てしまった。

 

 本当に昨日のことは現実だったのか。

 

 そう思いかけた瞬間、伊集院の視線がこちらへ向いた。

 

 目が合った。

 

 ほんの一瞬。

 

 だが、その瞬間だけ、伊集院の目が鋭くなった。

 

 冷たい刃物のような視線。

 

 昨日のことを忘れるな。

 

 余計なことをするな。

 

 そう言われた気がした。

 

 悠人は反射的に背筋を伸ばした。

 

 伊集院はすぐに視線を外し、何事もなかったかのように廊下を歩いていった。

 

 周囲の女子たちは、ただ伊集院の横顔に見とれているだけだった。

 

 誰も気づいていない。

 

 今の一瞬に、どれだけの意味があったのかを。

 

 悠人だけが知っている。

 

 あれは夢ではない。

 

 昨日の出来事は、確かに現実だった。

 

 その日の放課後。

 

 授業が終わり、帰り支度をしていた悠人は、自分の机の中に見慣れないものが入っていることに気づいた。

 

 白い封筒だった。

 

 名前は書かれていない。

 

 しかし、封の仕方も、紙の質も、妙に上品だった。

 

 「何だこれ」

 

 周囲に見られないように、悠人はそっと中を開けた。

 

 中には一枚のカードが入っていた。

 

 短い文字。

 

 整った筆跡。

 

 放課後、旧校舎三階の資料室へ来い。

 遅れるな。

 伊集院レイ

 

 悠人は、しばらくカードを見つめた。

 

 果たし状か。

 

 そう思った。

 

 いや、実際には呼び出し状だ。

 

 もっと悪いかもしれない。

 

 旧校舎三階の資料室。

 

 普段、生徒がほとんど近づかない場所だ。

 古い資料や使われなくなった教材が置かれているだけで、用がなければ行くことはない。

 

 そこへ来い。

 

 遅れるな。

 

 伊集院らしいと言えば、伊集院らしい。

 

 命令形しかない。

 

 悠人は小さく息を吐いた。

 

 行かない、という選択肢はたぶんない。

 

 いや、あるにはある。

 

 だが、行かなかったら明日はもっと面倒なことになる気がした。

 

 友人に「一緒に帰ろうぜ」と言われたが、悠人は首を横に振った。

 

 「悪い。ちょっと用事」

 

 「何だよ、昨日から秘密多くないか?」

 

 「気のせい」

 

 「怪しいな」

 

 「怪しくない」

 

 適当にごまかして、悠人は鞄を持った。

 

 旧校舎へ向かう。

 

 新校舎の明るい廊下と違って、旧校舎は少し空気が違う。

 床板がわずかに軋む。

 窓枠も古く、差し込む夕陽が少し埃っぽく見える。

 

 三階へ上がる階段には、ほとんど人の気配がなかった。

 

 放課後の学校のざわめきが遠くに聞こえる。

 

 部活動の声。

 吹奏楽の音。

 グラウンドの掛け声。

 

 そのどれもが、旧校舎の中では少し遠い。

 

 資料室の扉の前で、悠人は足を止めた。

 

 ノックするべきか。

 

 そう思った瞬間、中から声がした。

 

 「入れ」

 

 まだノックしていない。

 

 監視でもされているのか。

 

 悠人は扉を開けた。

 

 資料室の中は薄暗かった。

 

 窓から夕陽が差し込み、古い棚の影を長く伸ばしている。

 壁際には教材用の地図や、古いファイルが積まれていた。

 

 その中央に、伊集院レイが立っていた。

 

 相変わらず隙のない姿だった。

 

 制服の乱れもない。

 髪も整っている。

 表情も涼しい。

 

 昨日の動揺など、最初から存在しなかったかのようだった。

 

 「遅い」

 

 第一声がそれだった。

 

 悠人は時計を見た。

 

 「時間通りだけど」

 

 「私を待たせた時点で遅い」

 

 「理不尽すぎるだろ」

 

 「君には、その理不尽を受け入れる立場にある」

 

 「秘密保持者だから?」

 

 「理解が早くて助かる」

 

 助かっているようには見えなかった。

 

 むしろ、最初から悠人を試すような目だった。

 

 伊集院は、窓際の机に軽く手を置いた。

 

 「昨日のことを、誰かに話したか」

 

 「話してない」

 

 「本当に?」

 

 「本当に」

 

 「証明できるか」

 

 「できるわけないだろ」

 

 「ならば信用できない」

 

 「だろうな」

 

 悠人は思わず肩を落とした。

 

 最初からそうなると思っていた。

 

 伊集院は一歩近づいた。

 

 「今日一日、君の様子を見ていた」

 

 「見てたのかよ」

 

 「当然だ」

 

 「監視って、もう始まってたんだな」

 

 「君は昼休みに私を見ていた」

 

 「そりゃ見るだろ」

 

 「なぜだ」

 

 「昨日のことがあったから」

 

 「不審な視線だった」

 

 「それは悪かった。でも伊集院もこっち睨んだだろ」

 

 「注意喚起だ」

 

 「目だけで?」

 

 「十分だったはずだ」

 

 確かに十分だった。

 

 悠人は否定できなかった。

 

 伊集院は腕を組んだ。

 

 「君の友人が、今日の君は様子がおかしいと言っていた」

 

 「そこまで聞いてるのか?」

 

 「聞こえただけだ」

 

 「本当か?」

 

 「私が嘘をつく必要があるか?」

 

 「……今の状況だと、あるかないかわからない」

 

 伊集院の目が少し細くなる。

 

 悠人は慌てて手を振った。

 

 「いや、言ってない。本当に言ってない。友人には寝不足って言っただけだ」

 

 「なぜ寝不足と?」

 

 「実際、あんまり眠れなかったから」

 

 「何を考えていた」

 

 「……それ、言わないとだめか?」

 

 「答えろ」

 

 命令口調。

 

 昨日と同じだった。

 

 悠人は少し迷った。

 

 ここで適当にごまかしても、伊集院は納得しないだろう。

 

 それに、隠すほどのことでもない。

 

 「伊集院のことだよ」

 

 伊集院の表情が、ほんのわずかに硬くなった。

 

 「私の何を」

 

 「昨日見たこと。伊集院が女だったこと。なんで隠してるのかとか、学校はどこまで知ってるのかとか、色々」

 

 「……」

 

 「でも、誰かに話そうとは思ってない」

 

 「なぜだ」

 

 「昨日も言っただろ。俺が面白半分で話していいことじゃないと思ったから」

 

 伊集院は黙った。

 

 その沈黙は、怒りとは少し違っていた。

 

 悠人は続けた。

 

 「聞きたいことはある。でも、それは伊集院が話したくなったらでいい。俺が勝手に詮索することじゃない」

 

 「君は、自分が随分と聞き分けのいい人間だと思っているようだな」

 

 「そういうわけじゃない」

 

 「では何だ」

 

 「普通だろ。嫌がってることを無理に聞くのは」

 

 伊集院の指が、机の縁に触れた。

 

 白い指先が、ほんの少しだけ動いた。

 

 「……普通、か」

 

 小さな声だった。

 

 「何か言ったか?」

 

 「何でもない」

 

 伊集院はすぐに表情を戻した。

 

 「いずれにせよ、私は君を信用していない」

 

 「それはわかってる」

 

 「今後しばらく、君の行動を確認する」

 

 「確認?」

 

 「監視だ」

 

 「言い直さなくても、そっちが本音だってわかってた」

 

 「ならば話が早い」

 

 「俺に拒否権は?」

 

 「ない」

 

 即答だった。

 

 悠人は額に手を当てた。

 

 「毎日呼び出されるのか?」

 

 「必要なら」

 

 「必要じゃなかったら?」

 

 「私が必要と判断すれば必要だ」

 

 「結局、全部伊集院次第じゃないか」

 

 「当然だ。これは私の秘密だ」

 

 その言葉は、強かった。

 

 けれど、悠人には少し違って聞こえた。

 

 これは私の秘密だ。

 

 つまり、他の誰にも委ねられないもの。

 

 誰にも触れさせたくないもの。

 

 それが昨日、自分に知られてしまった。

 

 だから伊集院は必死なのだ。

 

 悠人は、少しだけ息を吐いた。

 

 「わかった。秘密は守る。呼び出しにも、できる範囲では応じる」

 

 「できる範囲?」

 

 「授業とか用事とかあるだろ」

 

 「私の呼び出しより優先する用事が?」

 

 「あるだろ、普通に」

 

 伊集院は不満そうに目を細めた。

 

 悠人は、そこで一度言葉を切った。

 

 そして、はっきり言った。

 

 「でも、一つだけ」

 

 「何だ」

 

 「俺は秘密を守る。伊集院が困るようなことはしない」

 

 「当然だ」

 

 「でも、便利な道具扱いされる筋合いはない」

 

 資料室の空気が、一瞬止まった。

 

 伊集院が、静かに悠人を見た。

 

 「……道具?」

 

 「そう。秘密を知ったからって、何でも命令されるのは違うだろ」

 

 「君は自分の立場を理解していないようだ」

 

 「理解してるよ。かなりまずい立場だってことは」

 

 「ならば――」

 

 「でも、俺にも俺の生活がある。友人もいるし、授業もあるし、用事もある。伊集院の秘密を守るために協力はする。でも、俺自身まで伊集院の持ち物になったわけじゃない」

 

 言いながら、少し心臓が速くなった。

 

 相手は伊集院レイだ。

 

 怒らせたら本当に面倒なことになる。

 

 けれど、ここで何も言わなければ、今後ずっと理不尽な命令に従うだけになる気がした。

 

 それは違う。

 

 秘密は守る。

 

 だが、それとこれとは別だ。

 

 伊集院は、しばらく何も言わなかった。

 

 怒っているのかと思った。

 

 だが、そうではなかった。

 

 彼は――いや、彼女は、少し意外そうに見えた。

 

 命令に対して、ただ怯えるわけでも、反発して秘密を盾にするわけでもない。

 

 秘密は守る。

 でも道具にはならない。

 

 そんな返事を、予想していなかったのかもしれない。

 

 「……君は」

 

 伊集院が言いかけて、止めた。

 

 「何だよ」

 

 「いや。思ったより、面倒な人間だ」

 

 「それはこっちの台詞だ」

 

 「君が私に向かってそれを言うのか」

 

 「言うくらいは許してほしい」

 

 伊集院は目を細めた。

 

 ほんの少しだけ、空気が緩んだ気がした。

 

 だが、それも一瞬だった。

 

 伊集院は再び冷たい表情に戻る。

 

 「高瀬悠人」

 

 フルネームで呼ばれて、悠人は少し身構えた。

 

 「はい」

 

 「ふざけるな」

 

 「まだ何もしてないだろ」

 

 「今後もするな」

 

 「それは内容による」

 

 「君は本当に、自分の立場をわかっているのか?」

 

 「だから、わかってるって」

 

 「ならば、もう一度確認する」

 

 伊集院は悠人をまっすぐ見た。

 

 その目は鋭い。

 

 だが、その奥に、ほんのわずかな揺れがあった。

 

 「……本当に、誰にも言っていないのだな」

 

 さっきまでとは、声が違った。

 

 問い詰める声ではなかった。

 

 命令でもない。

 

 ほとんど、確認だった。

 

 いや。

 

 不安だった。

 

 悠人は、その違いに気づいた。

 

 伊集院レイは、まだ怖がっている。

 

 当然だ。

 

 昨日、秘密を知られたばかりなのだから。

 

 悠人は、まっすぐ答えた。

 

 「言ってない」

 

 「……」

 

 「これからも言わない」

 

 「……なぜ、そこまで断言できる」

 

 「俺がそう決めたから」

 

 「それだけで信じろと?」

 

 「信じなくていい。伊集院が信用できないなら、それは仕方ない」

 

 悠人は少しだけ言葉を柔らかくした。

 

 「でも、毎回退学をちらつかせなくてもいい。俺は言わない」

 

 伊集院の表情がわずかに揺れた。

 

 本当に一瞬だった。

 

 肩の力が、少しだけ抜けたように見えた。

 

 だが、すぐに彼女は視線を逸らした。

 

 「勘違いするな。確認しただけだ」

 

 「そういうことにしておく」

 

 「その言い方は気に入らない」

 

 「伊集院の言い方もだいたい気に入らないから、お互い様だな」

 

 「君は命知らずなのか?」

 

 「秘密保持者だから、多少は言っても大丈夫かなって」

 

 「調子に乗るな」

 

 伊集院の声は冷たかったが、昨日ほど刺々しくはなかった。

 

 少なくとも、悠人にはそう感じられた。

 

 窓の外で、部活動の声が響いた。

 

 夕陽が資料室の床に長く伸びている。

 

 しばらく沈黙が落ちた。

 

 先に口を開いたのは伊集院だった。

 

 「明日も、放課後ここへ来い」

 

 「また尋問?」

 

 「監視だ」

 

 「同じだろ」

 

 「違う」

 

 「どう違うんだ?」

 

 「私が違うと言えば違う」

 

 「すごい理屈だな」

 

 伊集院は悠人を睨んだ。

 

 「高瀬」

 

 今度は名字だけだった。

 

 昨日は、名前を確認した。

 今日は、初めて名字で呼ばれた。

 

 それだけなのに、少し奇妙な感じがした。

 

 「何だよ」

 

 「明日、遅れるな」

 

 「……わかった」

 

 「それと」

 

 「まだあるのか?」

 

 「学校では、今まで通りにしろ。私を見るな。不自然な態度を取るな。余計な気遣いも不要だ」

 

 「見るなって言われると、逆に意識するんだけど」

 

 「意識するな」

 

 「無茶を言うな」

 

 「努力しろ」

 

 「はいはい」

 

 「返事は一回でいい」

 

 「はい」

 

 伊集院は満足したように頷いた。

 

 まるで、本当に命令が通ったことを確認しているみたいだった。

 

 悠人は鞄を持ち直した。

 

 「じゃあ、帰っていいか?」

 

 「許可する」

 

 「許可制なのか……」

 

 「秘密保持者に自由があると思うな」

 

 「さっき道具扱いは困るって言ったばかりなんだけど」

 

 「だから、道具ではなく秘密保持者と呼んでいる」

 

 「余計悪い気がする」

 

 伊集院はそれ以上答えなかった。

 

 悠人は扉へ向かう。

 

 取っ手に手をかけたところで、ふと思い出して振り返った。

 

 「伊集院」

 

 「何だ」

 

 「明日も来る。でも、本当に用事がある時は先に言うからな」

 

 「……勝手にしろ」

 

 「あと」

 

 「まだあるのか」

 

 「昨日のこと、本当に悪かった。わざとじゃなかったけど、見たのは事実だから」

 

 伊集院の表情が止まった。

 

 謝罪を予想していなかったのかもしれない。

 

 悠人はそれだけ言って、扉を開けた。

 

 背後から声が聞こえた。

 

 「高瀬」

 

 振り返る。

 

 伊集院は、窓際に立ったままだった。

 

 夕陽を背にしているせいで、その表情は少し見えにくい。

 

 「明日も、ここへ来い」

 

 さっきと同じ言葉だった。

 

 だが、少しだけ違って聞こえた。

 

 命令なのは変わらない。

 

 監視なのも変わらない。

 

 けれど、その奥に、ほんのわずか別の色が混じっている気がした。

 

 不安を確かめるためなのか。

 

 本当に秘密を守るか見張るためなのか。

 

 それとも。

 

 悠人には、まだわからなかった。

 

 「わかった。明日な」

 

 そう答えて、悠人は資料室を出た。

 

 旧校舎の廊下は、夕陽で赤く染まっていた。

 

 階段を下りながら、悠人は深く息を吐く。

 

 昨日、秘密を知った。

 今日、秘密保持者にされた。

 明日も呼び出されるらしい。

 

 面倒なことになった。

 

 本当に、面倒なことになった。

 

 けれど、さっきの伊集院の声が耳に残っていた。

 

 ――本当に、誰にも言っていないのだな。

 

 あの声だけは、いつもの伊集院レイではなかった。

 

 きらめき高校の完璧な伊集院くんではなく、秘密を抱えた一人の少女の声だった。

 

 悠人は、ポケットの中の呼び出しカードに触れた。

 

 捨ててもよかった。

 

 でも、なぜか捨てられなかった。

 

 明日も旧校舎の資料室へ行く。

 

 監視されるために。

 

 尋問されるために。

 

 そしてたぶん、伊集院レイが少しだけ安心するために。

 

 そう思ってしまった自分に、悠人は苦笑した。

 

 「本当に、面倒なことになったな」

 

 誰もいない廊下で呟く。

 

 けれど、その声は昨日ほど重くはなかった。

 

 秘密はまだ怖い。

 

 伊集院も怖い。

 

 だが、昨日より少しだけ、彼女のことがわからなくなった。

 

 そして、少しだけ、知りたいと思ってしまった。

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