伊集院レイは、伝説の木の下で少女になる   作:エーアイ

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高瀬悠人は、夏の予定を聞けない

 伊集院レイから借りた折りたたみ傘は、翌日きちんと返した。

 

 ただ返すだけでは、少し気が引けた。

 

 雨の日、あの傘がなければ、高瀬悠人は駅までの道でかなり濡れていたはずだ。

 教科書も鞄も無事では済まなかったかもしれない。

 

 だから悠人は、帰り道に小さな焼き菓子を買った。

 

 派手なものではない。

 高価すぎるものでもない。

 伊集院が受け取っても、言い訳できる程度のもの。

 

 資料室で傘を返した時、悠人はそれも一緒に差し出した。

 

 「これ、傘の礼」

 

 伊集院は一瞬、怪訝そうに見た。

 

 「礼?」

 

 「この前の雨の日。助かったから」

 

 「傘を貸したのは確認対象の体調管理のためだ」

 

 「だから、糖分補給」

 

 伊集院の眉がわずかに動いた。

 

 「……君は、私の言葉を悪用するようになったな」

 

 「伊集院から学んだ」

 

 「不本意だ」

 

 そう言いながらも、伊集院は焼き菓子を受け取った。

 

 「確認協力への補助に対する返礼としては、過剰ではない」

 

 「評価は?」

 

 「悪くない」

 

 「褒めてる?」

 

 「評価だ」

 

 いつものやり取り。

 

 それで終わった。

 

 けれど、伊集院が包みを鞄にしまう動作が少し丁寧だったことを、悠人は見逃さなかった。

 

 そして六月は、少しずつ終わりに近づいていった。

 

 雨の日は続いたが、教室ではもう一学期末の話が増えていた。

 

 期末試験。

 模試。

 進路希望調査の再提出。

 夏休みの補習。

 受験勉強。

 

 三年生の夏は、去年までの夏とは違う。

 

 遊ぶ予定よりも、勉強の予定が先に話題になる。

 

 昼休み、友人が机に突っ伏しながら言った。

 

 「夏休みって言っても、今年は休みって感じしないよな」

 

 「受験生だからな」

 

 悠人が答えると、友人は大げさにため息をついた。

 

 「嫌な言葉だな、受験生」

 

 「事実だろ」

 

 「高瀬、お前夏どうする?」

 

 「どうするって?」

 

 「塾とか、補習とか。あと大学見学とか」

 

 悠人は少し考えた。

 

 「近場の大学、いくつか見に行くかもしれない」

 

 「真面目だな」

 

 「いや、まだ全然決めてないから」

 

 「地元志望だっけ?」

 

 「たぶん。近くの大学も含めて」

 

 「お前、ほんと堅実だな」

 

 「無茶する理由がないだけだ」

 

 友人は弁当の最後の一口を食べながら言った。

 

 「まあ、遠く行くのも大変だしな。金もかかるし」

 

 「だな」

 

 そう答えながら、悠人は別のことを考えていた。

 

 遠くへ行く。

 

 その言葉で思い浮かぶのは、自分の進路ではなかった。

 

 伊集院レイ。

 

 帝王学を学ぶために、卒業後は渡米する可能性がある。

 

 そして、ゴールデンウィーク明けには実際にしばらく日本を離れていた。

 

 本人は何も言わなかった。

 

 水族館へ行った時も。

 帰国後の確認で再会するまで。

 

 「そういや伊集院様って、夏も海外とか行くのかな」

 

 教室のどこかから、そんな声が聞こえた。

 

 悠人は顔を上げる。

 

 女子生徒たちが話していた。

 

 「ありそう。伊集院家だし」

 

 「夏休みも予定すごそうだよね」

 

 「海外の大学とか見に行くのかな」

 

 「伊集院様なら何でも似合うよね」

 

 軽い噂話だった。

 

 いつものことだ。

 

 伊集院は学校中の話題になる。

 

 それだけの存在だ。

 

 けれど悠人は、その噂を軽く聞き流せなかった。

 

 夏休み。

 

 伊集院はどうするのだろう。

 

 また海外へ行くのか。

 

 また、何も言わずにいなくなるのか。

 

 聞けばいい。

 

 そう思った。

 

 次に資料室で会った時に聞けばいい。

 

 夏休み、確認はあるのか。

 どこかへ行く予定はあるのか。

 また海外に行くのか。

 

 聞くこと自体は難しくない。

 

 だが、口に出すことを考えると、少し引っかかった。

 

 それは、ただの予定確認ではなくなる気がした。

 

 伊集院が夏にどこへ行くのかを知りたい。

 急にいなくなられると困る。

 また会えない日々が続くのは嫌だ。

 

 そういう意味が、少しだけ混じってしまう気がした。

 

 悠人は自分の弁当箱を片づけた。

 

 友人が言う。

 

 「高瀬?」

 

 「何だ?」

 

 「なんか考え込んでたぞ」

 

 「進路のこと」

 

 「偉いな」

 

 「たぶん偉くない」

 

 「じゃあ伊集院様のこと?」

 

 悠人は一瞬だけ返事に詰まった。

 

 友人は冗談のつもりだったのだろう。

 

 すぐに笑って、別の話題へ移った。

 

 悠人もそれに合わせた。

 

 だが、胸の奥には小さな違和感が残った。

 

 放課後。

 

 悠人の机の中には、また白いカードが入っていた。

 

 放課後、資料室へ。

 確認事項あり。

 伊集院レイ

 

 最近は、本当に確認が多い。

 

 不在期間の補填。

 帰国後確認。

 雨の日の確認。

 進路に関する確認。

 

 伊集院は言い訳をいくらでも作る。

 

 そして悠人も、もうそれを特に不自然だとは思わなくなっていた。

 

 旧校舎の資料室へ向かう。

 

 廊下の窓から見える空は、梅雨の合間の曇り空だった。

 

 雨は降っていない。

 

 けれど湿気が多く、空気が少し重い。

 

 資料室の扉を叩く。

 

 「入れ」

 

 悠人は扉を開けた。

 

 伊集院は、いつもの席で待っていた。

 

 「遅い」

 

 「時間通りだ」

 

 「私より後に来た」

 

 「今日は雨じゃないんだな」

 

 「天候と確認に直接の関係はない」

 

 「この前はあっただろ」

 

 「雨天時の確認対象管理は別件だ」

 

 「便利だな、別件」

 

 「君が雑にまとめすぎているだけだ」

 

 悠人は椅子に座った。

 

 机の上には、進路希望調査らしい紙と、いくつかのメモがある。

 

 「今日は何の確認?」

 

 「一学期末に伴う行動予定の確認だ」

 

 「夏休み前だから?」

 

 「そうだ」

 

 伊集院は当然のように言った。

 

 「夏休み中は、学校という管理された環境から離れる。行動範囲も増える。確認体制を調整する必要がある」

 

 「やっぱり夏休みも確認あるのか」

 

 言ってから、悠人は少しだけ自分の言葉に引っかかった。

 

 聞くつもりだった。

 

 けれど、もう少し自然に聞きたかった。

 

 伊集院の目が、わずかに動いた。

 

 「何だ」

 

 「いや」

 

 「何か言いかけたな」

 

 「別に」

 

 「高瀬」

 

 伊集院の声が少し低くなる。

 

 「言え」

 

 悠人は少し迷った。

 

 夏休みは確認あるのか。

 

 そこまでは言える。

 

 でも、その先が言えない。

 

 伊集院は夏休み、どこかへ行くのか。

 また海外へ行くのか。

 今度は、言ってくれるのか。

 

 それは聞いていいことなのか。

 

 聞いたら、踏み込みすぎではないのか。

 

 高瀬悠人は、伊集院の事情を全部知っているわけではない。

 

 知ったふりもしないと決めた。

 

 でも、知らないままでいたくないと思う自分もいる。

 

 「夏休みは……確認あるのか?」

 

 結局、そこまでしか言えなかった。

 

 伊集院は一瞬だけ黙った。

 

 ほんの少し。

 

 だが、悠人にはわかった。

 

 その質問は、伊集院にも何かを引っかけた。

 

 「必要があれば行う」

 

 いつもの答えだった。

 

 けれど、答えるまでに少しだけ間があった。

 

 「必要があれば、か」

 

 「そうだ」

 

 「夏休み中も?」

 

 「必要があれば」

 

 「また海外とか……」

 

 そこまで言って、悠人は止めた。

 

 伊集院がこちらを見る。

 

 「何だ」

 

 「いや」

 

 「言いかけたなら最後まで言え」

 

 「今のはいい」

 

 「よくない」

 

 「伊集院が言う必要があると思ったら言うだろ」

 

 伊集院は黙った。

 

 その沈黙が、少しだけ痛かった。

 

 悠人は続ける。

 

 「前みたいに、言わなかったことを責めたいわけじゃない」

 

 「……」

 

 「ただ、また急にいなくなるのかと思っただけだ」

 

 伊集院の指が、机の上の紙を押さえる。

 

 「それは、確認上の懸念か」

 

 「そういうことにしておく」

 

 「その言い方はやめろ」

 

 いつもの返し。

 

 けれど、声は少しだけ弱かった。

 

 悠人は、自分でも踏み込みかけていることを感じた。

 

 今までは、伊集院が話さないことを無理に聞かなかった。

 

 それは間違っていないと思っている。

 

 でも、聞かないことと、気にならないことは違う。

 

 知りたいと思うことと、無理に聞き出すことも違う。

 

 その境目が、最近少しわからなくなってきた。

 

 「高瀬」

 

 伊集院が呼んだ。

 

 「何だ?」

 

 「夏休み中の予定は、現時点では未確定だ」

 

 悠人は少し驚いた。

 

 伊集院が、自分から言った。

 

 「未確定?」

 

 「伊集院家側の予定が入る可能性はある。だが、現時点で確定している長期渡航はない」

 

 「そっか」

 

 悠人は、思ったより安心していた。

 

 それが顔に出たのか、伊集院が目を細める。

 

 「何だ」

 

 「いや、そうかって思っただけ」

 

 「それ以上の意味がある顔だった」

 

 「顔で判断するな」

 

 「君は顔に出る」

 

 「伊集院ほどじゃないだろ」

 

 「私は出ない」

 

 「出る時は出る」

 

 「出ない」

 

 「そういうことにしておく」

 

 「その言い方はやめろ」

 

 言い合いながらも、空気は少しだけ軽くなった。

 

 悠人は、言いかけて止めた言葉を飲み込む。

 

 必要、あるといいな。

 

 そう言いそうになった。

 

 夏休みに確認が必要であればいい。

 

 つまり、夏休みに伊集院と会う理由があればいい。

 

 そんなことを言うのは、まだ早い。

 

 言えば、伊集院はきっと反応に困る。

 

 そして自分も困る。

 

 だから言わなかった。

 

 代わりに、悠人は言った。

 

 「じゃあ、必要があれば呼べばいいだろ」

 

 伊集院は少しだけ間を置いた。

 

 「……当然だ」

 

 「固定電話か?」

 

 「必要であれば」

 

 「カードは学校ないと無理だしな」

 

 「方法は検討する」

 

 「検討って」

 

 「夏休み中の確認手段については、別途整理が必要だ」

 

 「本当に確認っぽくするな」

 

 「確認だ」

 

 「はいはい」

 

 「その返事はやめろ」

 

 いつもの会話。

 

 けれど、悠人にはわかっていた。

 

 これはもう、ただの確認の話ではない。

 

 夏休みに会うかどうか。

 

 会えるのかどうか。

 

 また、伊集院がどこかへ行ってしまうのかどうか。

 

 それを、互いに直接聞けないまま、確認という言葉で包んでいる。

 

 伊集院は紙を整えた。

 

 「一学期末までの確認は継続する」

 

 「まだあるのか」

 

 「当然だ。夏休み前は行動予定の変動が多い」

 

 「まあ、そうだな」

 

 「君も進路関係の予定があるのだろう」

 

 「大学見学くらいは行くかも」

 

 「地元か近隣だったな」

 

 「覚えてたのか」

 

 伊集院は一瞬だけ視線を逸らした。

 

 「確認事項だ」

 

 「そっか」

 

 「何だ」

 

 「いや、覚えてたんだなって」

 

 「だから確認事項だと言っている」

 

 「はいはい」

 

 「その返事はやめろ」

 

 悠人は少し笑った。

 

 伊集院が自分の進路を覚えていた。

 

 それだけのことが、なぜか嬉しかった。

 

 確認事項。

 

 そう言われれば、それまでだ。

 

 でも、伊集院はこうやって、自分のことを覚えている。

 

 紅茶に合う焼き菓子を覚えていた時の自分と同じように。

 

 伊集院もまた、確認という形で覚えている。

 

 資料室の外では、曇り空の光が少しずつ夕方へ変わっていく。

 

 悠人は立ち上がった。

 

 「じゃあ、今日はこれで?」

 

 「今日の確認は終了だ」

 

 「了解」

 

 扉へ向かいかけて、悠人は振り返った。

 

 「伊集院」

 

 「何だ」

 

 「夏休みの予定、決まったら……」

 

 そこまで言って、また止まった。

 

 言ってくれ。

 

 そう続けるつもりだったのかもしれない。

 

 でも、それは言えなかった。

 

 伊集院も、すぐには何も言わなかった。

 

 二人の間に、短い沈黙が落ちる。

 

 悠人は少しだけ笑って誤魔化した。

 

 「いや、確認に必要なら教えてくれ」

 

 伊集院は、ほんのわずかに目を伏せた。

 

 「……必要があればな」

 

 「そうだな」

 

 「高瀬」

 

 「何だ?」

 

 「君の夏の予定も、必要があれば報告しろ」

 

 悠人は少し驚いた。

 

 それから、頷いた。

 

 「わかった」

 

 「確認のためだ」

 

 「そういうことにしておく」

 

 「その言い方はやめろ」

 

 いつものやり取りで終わった。

 

 悠人は資料室を出る。

 

 廊下は湿った空気で満ちていた。

 

 雨は降っていない。

 

 それでも、梅雨の気配はまだ残っている。

 

 夏休みは近づいている。

 

 三年生の夏。

 

 去年とは違う夏。

 

 伊集院の予定を聞きたい。

 

 でも、まだ聞けない。

 

 自分の予定を伝えたい。

 

 でも、何をどこまで言えばいいのかわからない。

 

 踏み込まないことは、たぶん高瀬悠人の良さだった。

 

 けれど、踏み込みたいと思う気持ちも、少しずつ生まれている。

 

 そのことを、悠人はもう否定できなかった。

 

 確認は、まだ続く。

 

 けれどその言葉の中に、別の意味が混ざり始めている。

 

 夏休みが来る前に、それに気づいてしまった。

 

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