夏休み前、資料室で夏の予定の話をした。
高瀬悠人は、伊集院レイに聞きたかった。
夏休み中、確認はあるのか。
また急に海外へ行くのか。
今度は、事前に言ってくれるのか。
だが、結局そこまで踏み込めなかった。
伊集院は、夏休み中の予定について、
「現時点では未確定だ」
と言った。
長期渡航は決まっていない。
伊集院家側の予定が入る可能性はある。
必要があれば確認は行う。
いつものように、余白の多い答えだった。
悠人も、それ以上は聞かなかった。
聞けなかった、という方が近い。
そして夏休みに入った。
三年生の夏休みは、去年とは違っていた。
受験勉強。
大学見学。
補習。
模試。
進路相談。
学校に行かない日でも、完全に自由な感じはしない。
悠人も、近場の大学を一つ見に行った。
家から通える距離。
現実的な学費。
無茶をしない進路。
それは自分に合っていると思う。
だが、大学のキャンパスを歩きながら、ふと伊集院のことを考えた。
伊集院は卒業後、どこへ行くのだろう。
渡米。
帝王学。
伊集院家の都合。
外部者との関係整理。
自分とは違う場所へ行く可能性がある人。
それでも、今はまだ同じ高校にいる。
同じ夏休みの中にいる。
そんなことを考えていたある日の夕方、高瀬家の固定電話が鳴った。
悠人は少しだけ予感した。
受話器を取る。
「はい、高瀬です」
電話の向こうから、聞き慣れた声がした。
「高瀬か」
「伊集院?」
「そうだ」
「久しぶりだな」
「不要な感想だ」
「で、今日は何の確認だ?」
少しの沈黙。
それから、伊集院は言った。
「高校生最後の夏における外部環境確認を行う」
悠人は受話器を持ったまま、少し黙った。
「……ずいぶん大きく出たな」
「事実だ」
「高校生最後の夏って、自分で言うんだな」
「三年生だからな」
「それはそうだけど」
「明日の夜、時間を空けろ」
「場所は?」
「駅前ではない。去年の夏祭り会場に近いが、祭りの中には入らない」
悠人は少しだけ思い出した。
去年の夏祭り。
伊集院と一緒に歩いた人混み。
射的。
ラムネ。
花火。
伊集院が「確認として有意義だった」と言い張った夜。
「去年、夏祭りに行って花火見たな」
電話の向こうで、伊集院が少し黙った。
「……覚えているのか」
「忘れるほど前じゃないだろ」
言ってから、悠人は少しだけ引っかかった。
忘れる。
何気ない言葉だった。
けれど、電話の向こうの沈黙が、ほんの少しだけ長くなった。
「そうか」
伊集院は短く答えた。
「今年も祭りか?」
「違う」
「違うのか」
「人混みにおける確認は去年実施済みだ」
「出た、確認済み」
「今年は、遠距離からの視認確認を行う」
「花火を見るってことか?」
「視認確認だ」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
いつものやり取り。
だが、電話越しの伊集院の声は、どこか慎重だった。
悠人は、その慎重さの理由をうまく掴めなかった。
翌日の夜。
指定された場所は、夏祭り会場から少し離れた川沿いの道だった。
去年は神社に続く通りに入り、人混みの中を歩いた。
屋台の明かり。
提灯。
浴衣の人たち。
学校の生徒に見つかりそうになる緊張。
あれは、夏祭りの中に入る確認だった。
今年は違った。
川沿いの土手は、祭りの中心から少し離れている。
遠くには屋台の明かりが見える。
人の声も聞こえる。
だが、ここは比較的静かだった。
花火を見るために集まった人はいるが、混雑というほどではない。
悠人が少し早めに着くと、伊集院はすでにいた。
私服だった。
去年より、さらに自然に見えた。
落ち着いた色の薄いシャツ。
軽く羽織ったカーディガン。
動きやすそうなスカートにも見えるキュロット。
小さなバッグ。
浴衣ではない。
それが伊集院らしかった。
祭りに来たのではない。
確認に来たのだ。
そう言える余地を残している。
けれど悠人には、去年よりもずっと自然に、彼女が少女としてそこに立っているように見えた。
「遅い」
伊集院が言った。
「時間より早い」
「私より後に来た」
「去年もそれ言ってたな」
「当然だ」
悠人は少し笑った。
伊集院は川の向こうを見た。
「今年は会場内には入らない」
「人混みの確認は去年済んだから?」
「そうだ。去年の確認結果から、人混みの中での秘密保持行動には一定の成果が認められた」
「何か報告書みたいだな」
「確認結果だ」
「じゃあ今年は?」
「遠距離からの視認確認」
「つまり花火を見る」
「視認確認だと言っている」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
去年と同じようなやり取り。
だが、同じではなかった。
去年は、まだ「来年」という言葉を軽く言えた。
来年も確認できるな。
そう言った時、伊集院は少しだけ黙って、
「必要があればな」
と返した。
今年は、その言葉が出てこない。
来年。
高校を卒業した後。
伊集院はどこにいるのだろう。
悠人はどこにいるのだろう。
同じ花火を見られるのだろうか。
悠人は、その言葉を口にしなかった。
伊集院も、言わなかった。
二人は川沿いの石段に腰を下ろした。
周囲には、少し距離を空けて人がいる。
親子連れ。
友人同士。
浴衣姿のカップル。
祭りの中心から外れているせいか、ここではみんな少し落ち着いていた。
遠くで、花火大会の開始を告げるアナウンスが聞こえた。
伊集院は、川の向こうを見たまま言った。
「去年は、会場内での確認だった」
「そうだな」
「射的、ラムネ、人混み、花火」
「よく覚えてるな」
「確認事項だ」
「便利だな、それ」
「記録している」
「本当に?」
伊集院は一瞬、言葉を止めた。
「……頭の中でだ」
悠人は少し笑った。
「そっか」
去年の射的。
伊集院はやけに上手かった。
高瀬が外して、伊集院が少し得意げになった。
ラムネの開け方に一瞬戸惑っていた。
構造を確認していただけだ、と言い張った。
花火の下で、「楽しかったって言えばいいのに」と言った。
伊集院は「確認として有意義だった」と返した。
それらは、去年のことだ。
でも、遠い昔ではない。
「去年も見たな」
悠人が言うと、伊集院は少しだけこちらを見た。
「花火をか」
「花火も。祭りも。伊集院が射的で景品落としたのも」
「覚えているのか」
「だから、忘れるほど前じゃないだろ」
また、その言葉が出た。
忘れる。
今度は、伊集院がはっきりと黙った。
悠人は少しだけ彼女を見る。
「伊集院?」
「……何でもない」
「そうか?」
「そうだ」
伊集院は川の向こうへ視線を戻した。
その横顔は、少し硬かった。
悠人は、それ以上聞かなかった。
忘れる。
何気なく使った言葉が、伊集院の中で何かに触れたのかもしれない。
けれど、それが何かはまだわからない。
空に、最初の花火が上がった。
一拍遅れて、音が届く。
赤い光が夜空に広がり、川面にかすかに映った。
周囲から小さな歓声が上がる。
伊集院は、黙って空を見上げていた。
去年の花火は、人混みの中で見た。
祭りの熱気。
屋台の匂い。
人に押される感覚。
見つかるかもしれない緊張。
今年は違う。
距離がある。
音も、光も、少しだけ遠い。
その遠さが、三年生の夏に似ている気がした。
近くにあるのに、もう終わりが見えている。
悠人は隣の伊集院を見る。
水族館の時もそうだった。
水槽の青い光の中で、伊集院はただ一人の少女に見えた。
今日も同じだった。
伊集院くんでもなく。
伊集院家の者でもなく。
ただ花火を見ている少女。
それを、去年より自然に感じる。
同時に、去年より少しだけ切なく感じる。
「伊集院」
「何だ」
「今年は、祭りの中には入らないんだな」
「人混みの確認は実施済みだと言った」
「わかってる」
「それに、今年は受験生が多い。知り合いに遭遇する可能性も去年より高い」
「それも確認?」
「リスク管理だ」
「なるほど」
悠人は空を見上げた。
次の花火が上がる。
青い光。
その色に、水族館の水槽を少しだけ思い出した。
「遠くから見るのも、悪くないな」
伊集院は少しだけ間を置いた。
「視認距離としては妥当だ」
「そういう意味じゃなくて」
「ではどういう意味だ」
「落ち着いて見られる」
伊集院は何も言わなかった。
ただ、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
「……そうだな」
小さな声だった。
悠人は聞き逃さなかったが、追及しなかった。
花火は続いた。
大きなもの。
小さなもの。
白く広がるもの。
赤く弾けるもの。
金色の光がゆっくり落ちていくもの。
伊集院は、そのたびに黙って見上げていた。
楽しそうだな。
そう言いかけて、悠人はやめた。
言えば、きっと否定する。
確認として有意義だ。
視認確認として十分だ。
遠距離観測に適している。
そんな言葉で返されるだろう。
それでも、今はそれでよかった。
隣で同じ花火を見ている。
それだけで十分だった。
しばらくして、伊集院が言った。
「高瀬」
「何だ?」
「去年のことを、どの程度覚えている」
「急だな」
「確認だ」
「何の?」
「記憶保持の確認」
悠人は少し笑いかけて、やめた。
伊集院の声が少しだけ真面目だったからだ。
「射的。ラムネ。花火。あと、伊集院が人混みで少し緊張してたこと」
「余計なことまで覚えているな」
「覚えてるよ」
「……そうか」
「伊集院は?」
伊集院はすぐには答えなかった。
花火が一つ上がる。
音が遅れて届く。
その後で、彼女は言った。
「確認事項は覚えている」
「それだけ?」
「それだけだ」
「そっか」
悠人は、それ以上聞かなかった。
だが、たぶんそれだけではない。
伊集院は覚えている。
射的の景品を。
ラムネを。
花火を。
来年も確認できるな、と言われたことを。
覚えていないはずがない。
もし本当に確認事項だけなら、今日ここに来る理由はなかったはずだ。
祭りの中心に入らず、少し離れた場所から花火を見る理由も。
伊集院は、今年も花火を見たかったのだと思う。
高瀬と。
ただ、そうは言えない。
だから、遠距離からの視認確認にした。
その建前が、悠人にはもう少しだけわかる。
花火大会の終盤、大きな花火が続けて上がった。
空が一瞬、昼のように明るくなる。
伊集院の横顔が照らされる。
その表情は、いつもの作った笑みではなかった。
ただ静かに、空を見ていた。
高校生最後の夏。
電話で伊集院はそう言った。
その言葉を、悠人は今さら思い出した。
来年は。
そう言いかけて、やめる。
去年なら言えた。
来年も確認できるな。
そう言えた。
でも今年は、言えなかった。
来年、伊集院がどこにいるのかわからない。
自分がどこにいるのかも、まだはっきりしない。
同じように花火を見られる保証はない。
だから、その言葉は喉の奥で止まった。
花火が終わる。
周囲の人たちが少しずつ立ち上がる。
遠くの祭りの明かりはまだ残っているが、花火の後の空は急に暗く見えた。
伊集院も立ち上がった。
「確認は終了だ」
「今年の視認確認は?」
「有意義だった」
「楽しかったとは言わないんだな」
伊集院は少しだけこちらを見る。
そして、いつもより少し遅れて言った。
「……確認として、有意義だった」
「そっか」
悠人は笑った。
その返しに、伊集院は怒らなかった。
帰り道、二人は駅へ向かって歩いた。
祭りの中心から離れているため、人通りはそこまで多くない。
遠くから屋台の片づけの音が聞こえる。
夏の夜の湿った空気が、少しだけ肌に残る。
「高瀬」
「何だ?」
「今日のことも、誰にも言うな」
「言わない」
「当然だ」
「去年のことも言ってないだろ」
「確認済みだ」
「じゃあ大丈夫だな」
「油断は禁物だ」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
いつものやり取り。
けれど、その奥にあるものは、去年とは少し違っている。
駅が近づいた頃、悠人は言った。
「伊集院」
「何だ」
「来年のことは、まだわからないけどさ」
伊集院の足が、ほんの少し遅くなった。
悠人も、その先の言葉を探した。
来年も見よう。
そう言うのは、まだ違う気がした。
言えない。
けれど、何も言わないのも違う気がした。
「今年、見られてよかった」
伊集院は黙った。
長い沈黙ではなかった。
けれど、花火の音が消えた後の夜には、十分に長く感じられた。
「……確認としては、適切な判断だった」
「そういうことにしておく」
「その言い方はやめろ」
伊集院はそう言った。
だが、声は強くなかった。
駅前で別れる。
伊集院は最後に振り返った。
「高瀬」
「何だ?」
「今日の確認結果は、後日整理する」
「また確認するのか?」
「必要があればな」
「そっか」
去年と同じ言葉。
必要があればな。
だが、今年のそれは、少しだけ違って聞こえた。
悠人は頷いた。
「じゃあ、必要があれば呼んでくれ」
伊集院は少しだけ目を伏せた。
「……当然だ」
それだけ言って、彼女は背を向けた。
悠人はその後ろ姿を見送る。
高校生最後の夏。
伊集院がそう言った夏。
花火はもう終わっている。
けれど、夜空に残った煙のように、言えなかった言葉だけが、しばらく胸の奥に残っていた。