伊集院レイは、伝説の木の下で少女になる   作:エーアイ

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幕間:伊集院レイは、忘れるほど前ではない

 「お帰りなさいませ、レイ様」

 

 屋敷へ戻ると、玄関ホールで倉橋が頭を下げた。

 

 いつもの声だった。

 

 静かで、丁寧で、過不足がない。

 

 伊集院レイは短く答える。

 

 「ああ」

 

 それだけで、本来なら十分だった。

 

 外出から戻った。

 屋敷へ帰った。

 伊集院家の人間として、いつもの場所へ戻った。

 

 ただ、それだけのはずだった。

 

 だが、今夜は違った。

 

 屋敷の中は静かだった。

 

 磨かれた床。

 整えられた花。

 音を立てずに動く使用人たち。

 規則正しく置かれた調度品。

 

 何も乱れていない。

 

 けれど、レイの耳の奥には、まだ花火の音が残っていた。

 

 遠くから遅れて届く、低い音。

 

 夜空に広がる光。

 

 川面にかすかに映る色。

 

 人混みから少し離れた場所で、高瀬悠人と並んで見上げた花火。

 

 屋敷の静けさは、あの夜の余韻を消すには整いすぎていた。

 

 倉橋が静かに言う。

 

 「本日の確認は、滞りなく終えられましたでしょうか」

 

 レイは少しだけ目を細めた。

 

 「確認は完了した」

 

 「左様でございますか」

 

 倉橋はそれ以上、踏み込まなかった。

 

 だが、何も聞かないことが、かえって何かを察しているように思えた。

 

 レイは先に視線を外す。

 

 「明日の予定は」

 

 「午前中にご親族への報告、午後に進路関係の資料確認がございます。詳細はお部屋の机へ置いております」

 

 「わかった」

 

 「今夜はお疲れでしょう。お早めにお休みください」

 

 「指示されるまでもない」

 

 「承知しております」

 

 倉橋は一礼した。

 

 レイはその横を通り、自室へ向かった。

 

 廊下を歩くたびに、屋敷の静けさが戻ってくる。

 

 けれど、その静けさの奥で、花火の音だけがまだ遠く鳴っていた。

 

 自室に入る。

 

 扉を閉める。

 

 レイは小さく息を吐いた。

 

 机の前に立ち、しばらく何もせずにいた。

 

 今夜の外出は、高校生最後の夏における外部環境確認だった。

 

 人混みの確認は去年実施済み。

 今年は遠距離からの視認確認。

 花火大会会場周辺における秘密保持上のリスク確認。

 人混みを避けた際の行動経路確認。

 

 説明はいくらでもできる。

 

 実際、そう説明した。

 

 高瀬にもそう言った。

 

 だが、電話をかける前の自分を思い出すと、その説明は少しだけ頼りなかった。

 

 受話器の前で、レイはしばらく立っていた。

 

 夏休み。

 

 高瀬が家にいるとは限らない。

 

 大学見学に行っているかもしれない。

 友人と出かけているかもしれない。

 受験勉強で図書館か予備校にいるかもしれない。

 家族の用事があるかもしれない。

 

 固定電話にかけても、本人が出るとは限らない。

 

 誰か家族が出たら、何と言えばよいのか。

 

 高瀬が不在だったら、どうするのか。

 

 断られたら。

 

 その時は、確認を延期すると言えばよい。

 

 日程を再調整する。

 別日を指定する。

 必要なら、確認方法を変更する。

 

 それだけだ。

 

 それだけのはずだった。

 

 だが本当は、断られたくなかった。

 

 レイはそこまで考えて、すぐに表情を引き締める。

 

 違う。

 

 高瀬の所在確認は、確認実施上必要だっただけだ。

 

 対象者が不在では確認が成立しない。

 外部行動確認には同行者が必要であり、予定の確認は合理的な手順だ。

 

 高瀬が電話に出た時、少しだけ胸の奥が軽くなったのも、確認実施の見通しが立ったからだ。

 

 それ以上ではない。

 

 レイは自分にそう言い聞かせた。

 

 けれど、高瀬が電話口で言った声を思い出す。

 

 「去年、夏祭りに行って花火見たな」

 

 あの時、少しだけ言葉が止まった。

 

 覚えているのか。

 

 そう聞いてしまった。

 

 聞く必要などなかった。

 

 去年の夏祭りは確認事項だった。

 高瀬が覚えているかどうかも、確認対象として把握しておくべき情報だった。

 

 そう説明できる。

 

 だが、高瀬は何気なく言った。

 

 「忘れるほど前じゃないだろ」

 

 忘れるほど前ではない。

 

 レイは椅子に座った。

 

 その言葉が、まだ胸の奥に残っている。

 

 去年は、祭りの中に入った。

 

 提灯。

 屋台。

 人混み。

 射的。

 ラムネ。

 花火。

 

 学校の生徒に見つかりそうになって、高瀬が自然に人混みの陰へ誘導した。

 射的では、高瀬が外し、自分が景品を落とした。

 ラムネの開け方を少しだけ迷い、高瀬に見抜かれた。

 花火の後、帰り道で「来年も確認できるな」と言われた。

 

 その時は、まだ来年という言葉が遠くなかった。

 

 必要があればな。

 

 そう返せた。

 

 言葉としてはいつも通りだった。

 

 だが、今年は誰も言わなかった。

 

 来年。

 

 その言葉は、今年の夏には重すぎた。

 

 高瀬も言わなかった。

 

 レイも言わなかった。

 

 高校生最後の夏。

 

 自分でそう言った。

 

 その言葉の意味を、自分が一番よく知っている。

 

 卒業後、どうなるのか。

 

 渡米。

 帝王学。

 伊集院家の予定。

 外部関係の整理。

 

 高瀬悠人との確認が、今のまま続く保証はない。

 

 だから今年は、祭りの中には入らなかった。

 

 人混みの確認は去年実施済み。

 

 そう説明した。

 

 だが本当は、少し離れた場所でよかった。

 

 落ち着いた場所で、高瀬と並んで花火を見たかった。

 

 人混みに紛れなくても。

 誰かに見つかることを過剰に警戒しなくても。

 確認という言葉を盾にしながらでも。

 

 ただ、隣にいたかった。

 

 「……馬鹿な」

 

 レイは小さく呟いた。

 

 そうではない。

 

 遠距離からの視認確認だった。

 

 会場内の人混みを避けることは合理的だった。

 三年生で知人に遭遇するリスクも高かった。

 去年の確認結果を踏まえた上で、今年は別条件を検証したにすぎない。

 

 そう説明する。

 

 説明できる。

 

 だが、その説明では、花火が終わった後の高瀬の言葉までは処理できなかった。

 

 「今年、見られてよかった」

 

 高瀬はそう言った。

 

 来年も、とは言わなかった。

 

 その代わりに、今年を見ていた。

 

 今ある時間を、ちゃんと受け取った言葉だった。

 

 レイは、その時うまく返せなかった。

 

 確認としては、適切な判断だった。

 

 そう言った。

 

 いつものように、確認という言葉に置き換えた。

 

 だが本当は。

 

 本当は、自分も同じことを思っていた。

 

 今年、見られてよかった。

 

 高瀬と。

 

 そこまで考えて、レイは机の上に置かれた封筒へ目を向けた。

 

 倉橋が置いていった資料だった。

 

 表には、整った文字でこう記されている。

 

 卒業後移行準備資料

 外部関係整理に関する確認事項

 

 レイはしばらく封筒を見ていた。

 

 開ける必要はない。

 

 少なくとも、今夜は。

 

 そう思ったが、手は自然に伸びた。

 

 封筒を開ける。

 

 中には、数枚の資料が入っていた。

 

 卒業後の滞在予定。

 渡米準備。

 親族・関係者への報告事項。

 学校卒業後における外部関係の整理。

 

 その中に、冷たい言葉が並んでいる。

 

 外部者管理。

 秘密保持対象。

 接触履歴。

 必要措置。

 継続監視。

 記憶処理。

 

 高瀬悠人の名前は、そこには直接書かれていない。

 

 少なくとも、この資料には。

 

 だが、レイにはわかった。

 

 これは高瀬にも関係する話だ。

 

 秘密を知る外部者。

 卒業後、学校という環境から外れる者。

 伊集院家の事情に触れた者。

 

 条件だけ見れば、高瀬は該当する。

 

 レイは資料を閉じた。

 

 指先に少し力が入る。

 

 高瀬は管理対象ではない。

 

 そう思いかけて、すぐに打ち消す。

 

 伊集院家から見れば、彼は外部者だ。

 

 秘密を知る者。

 将来のリスク。

 管理すべき対象。

 

 それは事実だ。

 

 だが、レイにとって高瀬はそれだけではない。

 

 資料室に来る人。

 確認だと言えば、呆れながらも付き合う人。

 水族館で隣に立っていた人。

 雨の日に傘を返し、糖分補給と称して焼き菓子を渡した人。

 海外から戻った時に、おかえりと言った人。

 去年の夏祭りを覚えていた人。

 今年、見られてよかったと言った人。

 

 それを、管理対象という言葉でまとめられるはずがない。

 

 まとめてはいけない。

 

 そう思う。

 

 だが、それを認めれば、高瀬が自分にとって特別だと認めることになる。

 

 レイは唇を引き結んだ。

 

 高瀬は確認対象だ。

 

 秘密保持者だ。

 

 それ以上でも、それ以下でもない。

 

 そう言い聞かせる。

 

 しかし、目の前の資料に並ぶ「記憶処理」という言葉を見た瞬間、その言い訳はあまりに薄く感じられた。

 

 忘れるほど前ではない。

 

 高瀬はそう言った。

 

 その通りだ。

 

 去年の夏祭りも。

 クリスマスも。

 バレンタインも。

 ホワイトデーも。

 水族館も。

 雨の日の傘も。

 帰国後の「おかえり」も。

 今夜の花火も。

 

 どれも、忘れるほど前ではない。

 

 むしろ、どれも鮮やかに残っている。

 

 伊集院家の資料に書かれた無機質な文字よりも、ずっと鮮やかに。

 

 記憶処理。

 

 その言葉は、紙の上ではただの選択肢だった。

 

 将来のリスクを抑えるための措置。

 外部者管理の一項目。

 必要に応じて検討すべき手段。

 

 だが、レイにはそれが、射的の景品を消すことのように思えた。

 

 水槽の青を消すことのように思えた。

 

 高瀬の「おかえり」を消すことのように思えた。

 

 今夜の花火を、一緒に見た事実を消すことのように思えた。

 

 レイは資料を封筒に戻した。

 

 そして、机の端へ押しやった。

 

 今はまだ、検討段階だ。

 

 決定ではない。

 

 そもそも、高瀬個人の名前が出ているわけではない。

 

 だから今、考える必要はない。

 

 そう結論づける。

 

 だが、胸の奥は静まらなかった。

 

 忘れるほど前ではない。

 

 高瀬はそう言った。

 

 あの言葉は、ただ去年の夏祭りを指しただけのものだったのかもしれない。

 

 彼にとっては何気ない返答だったのだろう。

 

 だが、レイにはもっと別の意味を持って響いていた。

 

 忘れるほど前ではない。

 

 忘れさせていいほど、軽いものでもない。

 

 レイは椅子の背に体を預け、目を閉じた。

 

 花火の音はもう聞こえない。

 

 屋敷は静かだった。

 

 遠くの祭りの気配も、川沿いの夜風も、もうどこにもない。

 

 それでも、夜空に広がった光と、高瀬の声だけは、まだ胸の奥に残っていた。

 

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