夏休みの終わりが近づいていた。
八月の終わり。
昼間はまだ暑いのに、夕方になると少しだけ風が変わる。
蝉の声も、どこか弱くなったように聞こえた。
高瀬悠人は、自分の部屋で机の周りを片づけていた。
理由は単純だ。
夏休みが終われば、二学期が始まる。
三年生の二学期。
受験生としては、いよいよ逃げ場がなくなる時期だ。
今の机の上は、かなりひどい。
参考書。
模試の問題。
大学案内のパンフレット。
進路希望調査の控え。
適当に置かれたプリント。
使いかけのノート。
その隙間に、消しゴムやペンが転がっている。
悠人はため息をついた。
「これで勉強する気になるわけないな」
自分で言って、自分で納得する。
まずは机の上を片づける。
不要なプリントをまとめる。
終わった問題集を棚へ戻す。
大学案内を種類ごとに分ける。
ノートを積み直す。
そうしているうちに、引き出しの奥から一本のペンが出てきた。
黒く、落ち着いたデザインのペン。
伊集院レイから、クリスマスにもらったものだった。
記念品。
あの時、伊集院はそう言った。
伊集院家のクリスマスパーティ。
華やかな会場。
完璧な伊集院くんとして振る舞う伊集院。
その後、庭で二人になった時間。
そして、小さなペン。
悠人はそれを手に取った。
もらった直後は、少し使うのがもったいなかった。
だが今では、普通に使っている。
進路希望調査にも、模試の自己採点にも、資料室でのメモにも使った。
少しだけ重みがあって、書きやすい。
最初は、伊集院からもらったものだから意識した。
今は、机の上にあるのが自然になっている。
それに気づいて、悠人は少しだけ笑った。
伊集院らしい贈り物だと思う。
派手ではない。
けれど、ちゃんと使える。
記念品だと言いながら、実用性がある。
そして、言い訳もできる。
確認協力への対価。
記念品。
合理的な贈答。
伊集院なら、そう説明するだろう。
でも悠人は知っている。
あれは、それだけではなかった。
少なくとも、今の自分にはそう思える。
ペンを机の上に置き、整理を続ける。
次に出てきたのは、財布だった。
机の上に置いたままになっていた財布を開くと、奥に小さな紙が挟まっている。
水族館の半券だった。
まだ入っていた。
いや、入れていた。
ゴールデンウィークの水族館。
伊集院が固定電話をかけてきた日。
休日における外部行動確認。
街。
水族館。
暗い展示室。
青い光。
クラゲ。
悠人は、半券を指先で取り出した。
少し角が曲がっている。
何度か財布を開け閉めしたせいだろう。
もう使えない紙だ。
取っておく意味もない。
それなのに、捨てていない。
捨てようと思ったことも、あまりなかった。
水槽の青い光を思い出す。
クラゲの前で黙っていた伊集院。
ペンギンを見て、興味はないと言い張った伊集院。
限定のゼリーを、自分で頼んだ伊集院。
あの日の伊集院は、以前より自然だった。
伊集院くんでもなく。
伊集院家の者でもなく。
ただ、水槽の前に立つ一人の少女に見えた。
悠人は半券を机の上に置いた。
ペンの横に、半券が並ぶ。
妙な組み合わせだった。
クリスマスのペン。
水族館の半券。
どちらも、最初から大事なものとして取っておいたわけではない。
気づいたら残っていた。
それが少し不思議だった。
片づけを続ける。
ノートの間から、小さなメモが出てきた。
そこには、店の名前が書かれている。
駅前の菓子店。
ホワイトデーの時、伊集院へのお返しを選ぶために寄った店だった。
落ち着いた包装の焼き菓子。
紅茶に合いそうだったから選んだ。
伊集院はその理由を聞いて、少し黙った。
また見られていた。
そんな顔をしていた。
悠人はメモを見ながら、あの時の資料室を思い出す。
バレンタイン。
糖分補給。
確認協力への補助。
ホワイトデーのお返し。
どれも、言葉だけ見ればおかしい。
でも、そのおかしな言葉を使うことで、伊集院は受け取れた。
悠人も渡せた。
それが、二人にはちょうどよかったのだと思う。
机の端に、さらに別の記憶が浮かぶ。
雨の日。
傘を忘れた自分に、伊集院が折りたたみ傘を差し出した。
確認対象が濡れて体調を崩すと困る。
そう言っていた。
その翌日、悠人は小さな焼き菓子を返した。
糖分補給。
伊集院は、また「言葉を悪用するようになった」と言った。
けれど、受け取った。
傘も、焼き菓子も、もう手元にはない。
でも、そのやり取りは残っている。
悠人は椅子に座り、机の上に並んだものを見た。
ペン。
水族館の半券。
菓子店のメモ。
それだけなら、どれも小さなものだ。
誰かに見せても、特別な意味はわからないだろう。
ペンはただのペン。
半券はただの半券。
メモはただの店名。
でも悠人にとっては違った。
そこには伊集院がいる。
クリスマスの庭で、記念品だと言い張った伊集院。
水族館で、確認として有意義だったと言った伊集院。
ホワイトデーに、返礼としては過剰ではないと言った伊集院。
雨の日に、確認対象の管理だと言って傘を貸した伊集院。
そして夏の花火。
物は残っていない。
だが、あの夜の記憶は残っている。
川沿いの道。
遠くの祭りの明かり。
少し離れた場所から見た花火。
伊集院の横顔。
「覚えているのか」と聞いた声。
忘れるほど前じゃないだろ。
自分はそう答えた。
何気なく言ったつもりだった。
だが、伊集院は少し黙った。
あの時の沈黙が、今も少し引っかかっている。
なぜ、あんな反応をしたのだろう。
去年のことを覚えているかどうか。
ただそれだけの話だったはずだ。
でも伊集院にとっては、何か別の意味があったのかもしれない。
悠人は、椅子の背にもたれた。
最初は、巻き込まれただけだった。
秘密を知ってしまった。
退学させるぞと脅された。
資料室へ呼ばれた。
監視対象だと言われた。
あの頃の自分は、本当に面倒なことになったと思っていた。
伊集院レイは、遠い存在だった。
伊集院くん。
女子生徒たちに囲まれる完璧な人物。
伊集院家の人間。
学校中の噂になる相手。
そんな人の秘密を知ってしまった。
それだけだった。
けれど、今は違う。
本屋へ行った。
喫茶店へ行った。
夏祭りへ行った。
クリスマスパーティへ行った。
バレンタインのチョコをもらった。
ホワイトデーに返した。
水族館へ行った。
雨の日に傘を借りた。
花火を遠くから見た。
どれも、伊集院は確認だと言った。
自分も、そういうことにしてきた。
でも、全部を確認だけで片づけるには、少し無理がある。
悠人は机の上のペンを手に取った。
伊集院からもらったペン。
これで、進路希望調査も書いた。
自分の未来を書く時に、伊集院からもらったペンを使っていた。
そう考えると、少し妙な気分になる。
自分の進路は、自分で決める。
それは変わらない。
地元か近くの大学。
家から通える場所。
現実的な選択。
伊集院のために進路を変えるつもりはない。
それは違うと思う。
でも、卒業後に伊集院との関係が完全に消える前提で考えたいわけでもない。
そのことに、悠人は最近気づき始めていた。
伊集院は卒業後、渡米するかもしれない。
伊集院家の都合もある。
自分にはわからない事情もある。
それでも、だからといって全部をなかったことにしたいとは思わない。
「……なかったこと、か」
悠人は小さく呟いた。
机の上にあるものを見る。
ペン。
半券。
メモ。
物として残っているもの。
そして、物としては残っていないもの。
射的。
ラムネ。
花火。
チョコレート。
傘。
おかえり。
今年、見られてよかった。
それらは、誰かに説明するようなものではない。
自分と伊集院の間に積み重なったものだ。
もし、忘れたくないかと聞かれたら。
悠人は少し考えた。
好きかどうか、と聞かれると、まだ答えに詰まるかもしれない。
伊集院をどう思っているのか。
それを一言で決めるには、まだ自信がない。
だが、忘れたくないかと聞かれたら。
たぶん、忘れたくない。
そう思った。
その答えは、自分でも少し意外なほど自然だった。
忘れたくない。
資料室でのやり取りも。
伊集院が言い張る「確認」も。
伊集院が少しだけ笑った瞬間も。
言い訳の奥にある本音も。
水槽の青も。
花火の音も。
忘れたくない。
それは、まだ誰かに言うようなことではない。
伊集院に言えるようなことでもない。
言えば、きっと彼女は困る。
それに、自分もまだうまく言葉にできない。
けれど、机の上に残った小さなものたちを見ていると、認めないわけにはいかなかった。
伊集院との時間は、いつの間にか自分の高校生活の中に入り込んでいた。
特別な事件としてではなく。
面倒な確認としてでもなく。
普通に、そこにあった。
悠人は水族館の半券を、もう一度財布に戻した。
今度は、何となくではなかった。
捨てないでおこうと思った。
ペンは机の上のペン立てへ戻す。
いつも使える場所に。
菓子店のメモは少し迷ってから、ノートの間に挟んだ。
取っておく意味があるのかはわからない。
でも、今は捨てる気にならなかった。
机の上は少し片づいた。
参考書もノートも、前より使いやすい位置に並んでいる。
受験生らしい机になった、とは言いきれないが、少なくとも前よりはましだった。
悠人は椅子に座り直し、伊集院からもらったペンを手に取った。
ノートを開く。
夏休み明けの予定を書こうとした。
模試。
補習。
大学見学のまとめ。
二学期開始。
そして、少しだけ手が止まる。
資料室。
そう書くのは変かもしれない。
呼ばれているわけではない。
次の確認があるかどうかもわからない。
それでも、二学期が始まれば、また机の中を確認するのだろう。
白いカードがあるかどうか。
伊集院からの呼び出しがあるかどうか。
確認は、まだ続くのか。
その先に何があるのか。
悠人にはまだわからない。
けれど、少なくとも今の自分は、もうそれを面倒なだけのものとは思っていない。
ペン先がノートに触れる。
悠人は、予定の端に小さく書いた。
確認。
書いてから、自分で少し笑った。
「何やってるんだか」
伊集院が見たら、きっと言うだろう。
君は確認に慣れすぎている。
その通りかもしれない。
でも、それだけではない。
高瀬悠人は、忘れないものを少しずつ増やしている。
それに気づいた夏休みの終わりだった。