九月になった。
夏休みが終わり、きらめき高校には二学期の空気が戻ってきた。
けれど、それは一学期と同じ空気ではなかった。
廊下には、模試の日程表が貼られている。
教室では、推薦入試や志望校の話が増えた。
職員室の前には、進路相談の順番を待つ生徒が何人か立っている。
三年生の二学期。
その言葉は、思っていた以上に重かった。
高瀬悠人は、教室の席に座りながら、黒板の端に書かれた模試の日付を見ていた。
「高瀬、お前もう志望校決めた?」
友人が前の席から振り返る。
「一応、近場の大学を中心に」
「一応かよ」
「まだ迷ってる」
「俺も。推薦狙うか一般で行くか、先生に早く決めろって言われた」
「そりゃ言われるだろ」
「三年生の二学期って、もっと青春っぽいものかと思ってた」
「現実は進路と模試だな」
「嫌な現実だ」
友人は机に突っ伏した。
悠人は少し笑ったが、自分も同じ気分だった。
去年の二学期とは違う。
文化祭や体育祭の話よりも、進路の話が先に出る。
放課後の予定にも、補習や自習室の文字が増える。
夏休みも終わった。
高校生最後の夏。
伊集院レイと遠くから花火を見た夜が、少し前のことのようで、もう遠いようにも感じられる。
あの夜、悠人は言った。
今年、見られてよかった。
来年も、とは言えなかった。
言えなかったことを、今でも少し覚えている。
昼休み、悠人は廊下で伊集院を見かけた。
別クラスなので、毎日会うわけではない。
だが、二学期最初の日ということもあって、廊下は少し騒がしかった。
女子生徒たちに囲まれる伊集院くんは、相変わらず完璧だった。
背筋はまっすぐ。
声は落ち着いている。
誰に対しても丁寧で、余裕がある。
「伊集院様、夏休みはいかがでしたか?」
「有意義だった」
「やっぱり海外とか行かれたんですか?」
「いくつか家の用事はあった」
「さすが伊集院様ですね」
伊集院は穏やかに微笑む。
その姿は、学校中が知っている伊集院くんだった。
けれど、悠人には少しだけ違って見えた。
ほんの少し。
本当に、気づくかどうかの小さな違い。
目元が少し疲れている。
笑みがいつもより薄い。
女子生徒たちの声に応じる間が、わずかに遅い。
他の生徒なら気づかないだろう。
たぶん、以前の自分でも気づかなかった。
でも今の悠人には、見えてしまった。
伊集院は、完璧なまま少し疲れている。
そう思った。
その時、伊集院の視線が一瞬だけこちらに向いた。
目が合う。
ほんの短い時間だった。
伊集院はすぐに女子生徒たちへ視線を戻した。
悠人も、何も言わずに通り過ぎた。
放課後。
悠人の机の中には、白いカードが入っていた。
放課後、資料室へ。
二学期以降の行動予定確認。
伊集院レイ
二学期以降。
行動予定確認。
いかにも伊集院らしい文面だった。
悠人はカードを見て、少しだけ笑った。
確認は、二学期も続くらしい。
旧校舎へ向かう。
九月の空気はまだ暑い。
だが、夏休み中の熱とは少し違う。
学校の中に戻ってきた湿った暑さと、どこか落ち着かない進路の空気が混ざっている。
資料室の扉を叩く。
「入れ」
悠人は扉を開けた。
伊集院は窓際の机に座っていた。
机の上には、確認用の紙が数枚。
そして、その横に一通の封筒が置かれていた。
見覚えのある、伊集院家のものらしい封筒だった。
厚みがある。
学校のプリントではない。
悠人がそれに気づくと、伊集院はすぐに封筒を別の資料の下へ滑り込ませた。
自然な動作だった。
だが、隠したことはわかった。
悠人は何も言わなかった。
「遅い」
伊集院が言う。
「時間通りだ」
「私より後に来た」
「二学期でもそれなんだな」
「当然だ」
いつものやり取り。
いつもの資料室。
それでも、机の端に隠された封筒の存在が、少しだけ空気を変えていた。
悠人は椅子に座る。
「二学期以降の行動予定確認って?」
伊集院は紙を一枚手に取った。
「二学期は進路関係の行事、模試、補習、学校行事が増える。行動範囲と接触機会が変化するため、確認体制を再構築する必要がある」
「再構築って大げさだな」
「大げさではない」
「夏休み中は、結局あの花火だけだったしな」
そう言うと、伊集院の指がわずかに止まった。
「……そうだな」
短い返事だった。
夏休み中、高瀬と伊集院が直接会った確認は、あの花火だけだった。
固定電話で呼び出され、遠くから花火を見た。
人混みには入らず、川沿いで並んで空を見上げた。
高校生最後の夏における外部環境確認。
伊集院はそう言っていた。
悠人は続けた。
「三年生の夏って、思ったより忙しいよな」
「当然だ。受験、進路、家の予定。それぞれ優先すべき事項がある」
「伊集院も忙しかったのか?」
「家の用事がいくつかあった」
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
伊集院も、それ以上は言わなかった。
机の上の封筒が、ほんの少しだけ気になった。
だが、中身を聞くのは違う気がした。
伊集院が隠したということは、今は見せたくないのだろう。
聞けば答えるかもしれない。
あるいは、いつものように「今は話す必要がない」と言うかもしれない。
どちらにしても、今はまだ早い。
伊集院は紙を整えた。
「君の二学期以降の予定を確認する」
「俺の?」
「そうだ。進路関係で行動予定が変化する可能性がある」
「模試と大学見学くらいかな。あとは補習」
「志望校は」
「まだ近場中心。地元か近隣の大学」
「変更はないのか」
「今のところは」
伊集院は小さく頷き、紙に何かを書き込む。
「伊集院は?」
悠人が聞くと、伊集院は手を止めた。
「何がだ」
「二学期以降の予定。進路とか、家の予定とか」
「確認の対象は君だ」
「俺だけ?」
「必要に応じて、私の予定も共有する」
「必要に応じて、か」
「そうだ」
悠人は少しだけ息を吐いた。
伊集院らしい。
だが、その言い方は以前より少し苦しそうにも聞こえた。
「もう卒業まで半年くらいか」
何気なく言った。
本当に、何気なく。
けれど、その言葉に伊集院が反応した。
ペン先が止まる。
顔は上げない。
だが、明らかに止まった。
悠人はその様子を見て、自分の言葉の重さに気づいた。
卒業まで半年くらい。
それは事実だ。
夏休みは終わった。
二学期が始まった。
この先は、秋、冬、そして卒業。
伊集院が何度も逃げてきた「卒業後」という言葉が、少しずつ近づいている。
「半年という表現は正確ではない」
伊集院はようやく言った。
「まだ七か月近くある」
「細かいな」
「事実は正確に扱うべきだ」
「そうだけど」
「卒業式までの日数を概算で処理するのは不適切だ」
「そこまで?」
「そこまでだ」
いつものように聞こえる。
けれど、悠人にはわかった。
伊集院は、卒業という言葉を避けたいのだ。
正確さを理由にして、少しだけ距離を取ろうとしている。
悠人は、机の上の資料を見た。
隠された封筒の端が、少しだけ見えている。
「卒業後の確認は?」
言いかけて、悠人は止まった。
伊集院の視線が上がる。
「何だ」
「いや」
「言いかけたなら最後まで言え」
「卒業後の確認って、どうなるのかと思って」
言った瞬間、資料室の空気が少しだけ硬くなった気がした。
伊集院は悠人を見る。
その目は、いつものように鋭い。
だが、どこか疲れていた。
「今は話す必要がない」
短く、そう言った。
「そうか」
悠人は引かなかったが、踏み込まなかった。
「必要が出たら?」
「その時に確認する」
「またそれか」
「当然だ」
「でも、いつかは必要になるんだろ」
伊集院は答えなかった。
その沈黙が、答えのようでもあった。
悠人は、机の端の封筒に視線を向けた。
伊集院はそれに気づき、封筒を完全に資料の下へ隠した。
「高瀬」
「何だ?」
「余計な観察はやめろ」
「見えただけだ」
「見えたものをすべて確認する必要はない」
「それ、伊集院が言うのか?」
「私は必要なものだけ確認する」
「そういうことにしておく」
「その言い方はやめろ」
いつもの言い合い。
だが、今回は少しだけ空気が重い。
封筒。
卒業後。
外部関係。
悠人には中身はわからない。
だが、何かが動いていることだけはわかった。
伊集院は隠している。
話す必要がないと言っている。
けれど、それは「何もない」という意味ではない。
伊集院は確認用の紙へ視線を戻した。
「二学期中の確認は、状況に応じて実施する」
「頻度は?」
「未定だ」
「夏休みよりは多い?」
「学校がある以上、接触機会は増える」
「それ、確認しやすいってことか」
「そうだ」
悠人は少し笑った。
「なら、またカードが入るわけだ」
「必要があればな」
「二学期も確認か」
「当然だ」
伊集院はそう言った。
しかし、悠人にはわかった。
その「当然だ」は、少しだけ以前より弱かった。
確認は続く。
でも、卒業後はどうなるのか。
伊集院はまだ答えられない。
悠人も、まだ聞ききれない。
だから二人は、二学期の確認という言葉に戻る。
今ある時間を、いつもの形で続けるために。
確認は終わった。
伊集院は紙を揃える。
悠人は立ち上がる。
「じゃあ、今日はこれで?」
「二学期初回確認は終了だ」
「初回ってことは、続くんだな」
「当然だ」
「わかった」
扉へ向かいかけて、悠人は振り返った。
「伊集院」
「何だ」
「疲れてるなら、無理するなよ」
伊集院の表情が固まった。
ほんの一瞬。
それから、いつもの顔に戻る。
「余計な心配だ」
「そうか」
「私は問題ない」
「ならいいけど」
「高瀬」
「何だ?」
「君は、自分の進路を優先しろ」
悠人は少し驚いた。
「急だな」
「二学期は重要だ。確認にかまけて本来の予定を疎かにされても困る」
「確認に呼んでるのは伊集院だろ」
「だから調整すると言っている」
「そっか」
悠人は少しだけ笑った。
「じゃあ、必要があれば呼んでくれ。俺も、行ける時は行く」
伊集院は目を伏せた。
「……そうだな」
その返事は小さかった。
確認としては、曖昧だった。
けれど、悠人にはそれで十分だった。
資料室を出る。
廊下には、二学期の放課後の空気があった。
夏は終わった。
秋が近づいている。
進路、卒業、伊集院家。
いろいろなものが、少しずつ近づいている。
悠人は、伊集院が隠した封筒のことを思い出した。
中身は聞かなかった。
でも、忘れたわけではない。
資料室の扉が、背後で静かに閉まる。
確認は二学期も続く。
ただ、その先にあるものは、もう確認だけでは済まない気がしていた。