二学期のある放課後。
高瀬悠人は、いつものように机の中を確認した。
白いカードが入っている。
放課後、資料室へ。
二学期行動予定の追加確認あり。
伊集院レイ
もう驚かなかった。
驚かないどころか、カードを見つけた瞬間に、今日はどんな確認だろうかと思うようになっている。
それだけならまだいい。
問題は、その次だった。
今日は紅茶あるかな。
そう考えてしまい、悠人は自分で少し固まった。
「……慣れすぎだろ」
小さく呟く。
最初の頃なら、机の中に伊集院からのカードが入っているだけで、少し身構えた。
また何を言われるのか。
秘密のことで責められるのか。
何か失敗したのか。
そんなことを考えながら、旧校舎へ向かった。
それが今では、紅茶の有無を気にしている。
これは本当に確認なのか。
そう思いながらも、悠人はカードを鞄にしまい、旧校舎へ向かった。
二学期の校舎は、放課後でも人の気配が多い。
三年生は進路相談や補習で残っている生徒が増えた。
廊下には模試の案内が貼られ、教室からは参考書を開く音が聞こえる。
その中で旧校舎だけは、少し時間が遅れているように静かだった。
資料室の前に立ち、扉を叩く。
「入れ」
いつもの声だった。
悠人は扉を開けた。
伊集院レイは、いつもの席に座っていた。
窓際の机。
整えられた確認用の紙。
筆記具。
資料を押さえるための小さな文鎮。
そして、今日は机の端に紙コップが二つ置かれていた。
湯気が立っている。
さらに、その横には購買で買ったらしい小さな焼き菓子の袋があった。
伊集院は当然のように言った。
「遅い」
「時間通りだ」
「私より後に来た」
「……やっぱりそれなんだな」
「当然だ」
悠人は椅子に座りながら、机の上を見る。
「今日は飲み物付きか」
伊集院は紙から目を上げずに答えた。
「長時間の確認では水分補給が必要だ」
「お茶会みたいだな」
「違う」
即答だった。
「早いな」
「否定すべき誤認は、速やかに訂正する必要がある」
「誤認なのか」
「当然だ」
伊集院は紙コップを一つ、悠人の前へ押し出した。
「熱い。気をつけろ」
「ありがとう」
「礼は不要だ。確認中の集中力維持のためだ」
「それ、もう気遣いじゃないのか」
「管理だ」
「便利だな、管理」
「君が雑に解釈しているだけだ」
悠人は紙コップを受け取った。
中身は紅茶だった。
甘すぎない香り。
以前、午後に甘すぎるものを食べると眠くなる、と何気なく言ったことがある。
それを覚えていたのかもしれない。
いや、伊集院なら覚えているだろう。
確認事項として。
そういうことにしておく。
悠人は紅茶を一口飲んだ。
熱いが、飲みやすい。
資料室の古い空気に、紅茶の香りが少し混ざる。
そこでふと、最初の頃の資料室を思い出した。
あの頃、この部屋はもっと寒く感じた。
窓から入る光も薄く、机を挟んで座る伊集院は、今よりずっと遠かった。
秘密を漏らしたら退学。
そう言われた。
冗談ではなかった。
伊集院の声には本気があった。
机を挟んで座りながら、自分はまるで事情聴取を受けているような気分だった。
確認というより、尋問に近かった。
伊集院の視線は鋭く、こちらの一言一言を逃さないようにしていた。
それが今はどうだ。
机の上には紅茶がある。
小さな焼き菓子まである。
伊集院は確認用の紙を整えながら、当然のように自分の前に飲み物を置いた。
悠人は普通に椅子へ座り、紅茶を飲んでいる。
かなり変わった。
変わりすぎている。
「何を見ている」
伊集院が言った。
「いや」
「いや、ではわからない」
「最初の頃って、もっと怖かったよなと思って」
伊集院の眉が動いた。
「何の話だ」
「確認。退学とか言ってたし」
「必要な警告だった」
「今は菓子まで出る」
「糖分補給だ」
「やっぱりお茶会じゃないか」
「違う」
二度目の否定も早かった。
悠人は少し笑った。
「本当に違うのか?」
「違う。これは二学期行動予定の追加確認であり、茶菓を伴う社交行為ではない」
「茶菓って言ったぞ」
「言葉の分類上、そう表現しただけだ」
「お茶会っぽいな」
「高瀬」
「はい」
「確認を始める」
強引に切り替えた。
悠人は紅茶を置き、姿勢を正す。
伊集院は紙を一枚取った。
「二学期中の行動予定について確認する。模試、補習、大学見学、帰宅時間の変動、資料室への来訪可能日」
悠人は思わず口を挟んだ。
「最後だけ妙に具体的だな」
「必要事項だ」
「俺の予定を把握したいだけじゃないのか」
「確認体制の維持に必要だ」
「やっぱりこれ、放課後の予定合わせじゃないか?」
「違う」
「さっきから否定だけ早いな」
「誤認が多すぎるからだ」
伊集院はペンを構えた。
「模試の日程は」
「来週末と、十月に一回」
「補習は」
「数学が週二回。英語が週一回」
「大学見学は」
「夏休みに一つ行った。二学期中にもう一つ行くかもしれない」
「帰宅時間の変動は」
「補習の日は遅くなる。模試前は図書室に残るかも」
「資料室への来訪可能日は」
「だから、それだけ別の話じゃないか?」
「確認上、重要だ」
「伊集院の予定も合わせる必要があるだろ」
伊集院のペンが少し止まった。
「私の予定は、必要に応じて調整する」
「つまり合わせるってことじゃないか」
「表現が不適切だ」
「じゃあ何て言うんだ?」
「確認体制の調整だ」
「便利すぎるだろ、確認体制」
伊集院は少し不満そうにした。
だが、完全には怒っていない。
こういうやり取りも、今ではいつものことになっている。
悠人は焼き菓子の袋を見た。
「これ、食べてもいいのか?」
「糖分補給のために置いている」
「つまり食べていいんだな」
「そうだ」
悠人は袋を開けた。
小さなビスケットだった。
甘すぎない。
紅茶に合う。
「これ、甘さ控えめだな」
「君は前回、甘すぎるものは午後の勉強に向かないと言っていた」
悠人は手を止めた。
「覚えてたのか」
「確認対象の集中力に関わる」
「それ、もう普通に気を遣ってるだろ」
「管理だ」
「本当に全部管理にするな」
「事実だ」
伊集院は平然としている。
だが、その耳のあたりがほんの少し赤いように見えた。
たぶん、指摘しない方がいい。
指摘すれば、また「余計な観察だ」と言われる。
悠人はビスケットを一つ食べた。
たしかに甘すぎない。
紅茶とも合う。
これを選んだのは、偶然ではないだろう。
伊集院は、自分の言ったことを覚えていた。
確認対象の集中力。
そう言い訳するのだろう。
でも、それはもう、普通にこちらのことを気にしているのと何が違うのか。
悠人には、その境目がよくわからなかった。
「確認の範囲、広がりすぎじゃないか?」
悠人が言うと、伊集院は紙から目を上げた。
「何を今さら」
「いや、最初は秘密を漏らさないかどうかだけだっただろ」
「それが基本だ」
「それが、本屋に行って、喫茶店に行って、夏祭りに行って、クリスマスに呼ばれて、バレンタインに糖分補給されて、ホワイトデーに返して、水族館に行って、傘借りて、花火見て」
言ってから、悠人は自分でも少し呆れた。
「……やっぱり範囲広すぎるだろ」
伊集院は少しだけ黙った。
「それぞれ、必要な確認だった」
「本屋は?」
「外部接触時の秘密保持確認」
「喫茶店は?」
「休憩時の行動確認」
「夏祭りは?」
「人混みにおける秘密保持確認」
「クリスマスは?」
「伊集院家における外部者の反応確認」
「バレンタインは?」
「糖分補給」
「ホワイトデーは?」
「糖分補給に対する返礼確認」
「水族館は?」
「屋内展示施設における外部行動確認」
「傘は?」
「雨天時の確認対象管理」
「花火は?」
「高校生最後の夏における遠距離視認確認」
悠人はしばらく伊集院を見た。
「全部言い切ったな」
「当然だ」
「逆にすごい」
「感心するところではない」
「でも、それだけ並ぶと、もう確認っていうより……」
「言うな」
「まだ何も言ってない」
「言おうとした」
「お茶会とか、デートとか?」
伊集院の目が鋭くなった。
「高瀬」
「悪い」
「極めて不適切な分類だ」
「どっちが?」
「両方だ」
「お茶会も駄目なのか」
「当然だ」
伊集院は強く否定した。
悠人はそれ以上からかわなかった。
けれど、心の中では思っていた。
お茶会、というのは案外近いのかもしれない。
もちろん、伊集院は認めない。
この資料室は、最初は秘密保持のための場所だった。
伊集院が自分を呼び出し、監視し、確認する場所。
でも今は違う。
机の中にカードがあると、少し安心する。
資料室に行くと、伊集院がいる。
確認と言い張る会話が始まる。
紅茶が出る。
時々、菓子もある。
帰る時には、また次があるような気がする。
ここは、いつの間にか落ち着く場所になっていた。
旧校舎の古い資料室なのに。
最初は、呼び出されるのが嫌だった場所なのに。
悠人は紙コップを見下ろした。
紅茶は少し冷めて、飲みやすくなっている。
「伊集院」
「何だ」
「この確認、最初よりだいぶ居心地よくなったな」
伊集院はペンを止めた。
「確認対象が慣れただけだ」
「それだけかな」
「それだけだ」
すぐに返ってきた。
だが、その声は少しだけ弱かった。
悠人はそれ以上言わなかった。
出したら、伊集院が困る。
それはもう、わかっている。
この時間が何なのか。
確認なのか。
お茶会なのか。
定例会なのか。
ただの放課後なのか。
今は、はっきり決めなくてもいい。
伊集院が確認だと言うなら、そういうことにしておく。
それでも、この場所が変わったことだけは確かだった。
確認は続いた。
とはいえ、内容はほとんど日常の予定確認だった。
模試の日。
補習の時間。
大学見学の可能性。
図書室で勉強する日。
帰宅が遅くなる日。
資料室に来られそうな日。
伊集院は真面目に書き込んでいる。
悠人は、ふと尋ねた。
「これ、伊集院の予定表にも反映するのか?」
「必要があれば」
「やっぱり予定合わせじゃないか」
「確認体制の調整だ」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
いつものやり取り。
少し笑う。
伊集院は不満そうにする。
それでも紅茶は冷めないうちに飲めと言う。
ビスケットも、残すなら持って帰れと言う。
確認なのか、これは。
やはり、かなり怪しい。
確認が終わる頃、悠人は机の端に封筒があることに気づいた。
前にも見たことがある。
伊集院家のものらしい、厚みのある封筒。
今日は、資料の下に半分だけ隠れていた。
悠人の視線に気づいたのか、伊集院はさりげなくそれを引き寄せ、別の紙の下へ完全にしまった。
動きは自然だった。
しかし、隠したことはわかった。
悠人は何も聞かなかった。
この回は、そういう空気ではない気がした。
伊集院も、何も言わなかった。
その代わりに、確認用の紙を揃える。
「今日の確認は終了だ」
「了解」
悠人は立ち上がった。
机の上に残ったビスケットの袋を見て、伊集院が言う。
「持って帰っても構わない」
「いいのか?」
「糖分補給用に用意したものだ。不要なら処分する」
「じゃあ、もらう」
「帰宅後すぐに食べる必要はない。勉強の合間に使え」
「やっぱり気を遣ってるだろ」
「管理だ」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
悠人はビスケットの袋を鞄に入れた。
扉の前で振り返る。
「次は?」
伊集院は少しだけ顔を上げた。
「次回の確認日程は追って連絡する」
「もう定例会みたいだな」
「違う」
「じゃあ、お茶会?」
「断じて違う」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
最後までいつもの調子だった。
悠人は資料室を出る。
廊下に出ると、旧校舎の空気が少し冷たく感じられた。
扉の向こうには、まだ紅茶の香りが残っているような気がした。
伊集院は否定するだろう。
確認だ。
管理だ。
糖分補給だ。
予定調整ではなく確認体制の維持だ。
そう言うに決まっている。
でも、最初にここへ来た時とは、もう何もかも違っている。
机を挟んで緊張していた頃とは違う。
退学という言葉に身構えていた頃とは違う。
ただの古い資料室だと思っていた頃とは違う。
今は、ここへ来ると伊集院がいる。
紅茶がある日もある。
菓子が出る日もある。
確認という名目で、二人の放課後が始まる。
それが少しだけ嬉しかった。
悠人は鞄の中のビスケットの袋に手を触れた。
これは確認なのか。
たぶん、伊集院に聞けば、そうだと答える。
それなら今は、そういうことにしておこう。
高瀬悠人は、少しだけ笑って旧校舎の階段を下りた。