二学期に入ってから、進路という言葉を聞かない日はほとんどなくなった。
朝のホームルーム。
授業の合間。
昼休みの会話。
廊下に貼られた模試の日程表。
担任が配るプリント。
どこを見ても、卒業後のことを考えろと言われているようだった。
その日の放課後前、担任は進路希望調査の用紙を何枚か手にして言った。
「高瀬。お前、これもう一度書き直して出せ」
悠人は、呼ばれて教卓の前に立っていた。
「書き直し、ですか」
「ああ。内容が悪いわけじゃない。現実的だとは思う」
担任は用紙を軽く叩いた。
そこには、悠人が以前書いた志望先が並んでいる。
地元の大学。
近隣の大学。
家から通える範囲。
学費が現実的なところ。
かなり無難だった。
「ただな、理由が少し弱い。家から通える、学費が現実的、一人暮らしは避けたい。まあ大事な理由ではあるが、それだけだと面談で突っ込まれるぞ」
「そうですか」
「現実的だが、もう少し理由を明確にしろ。自分がそこで何をしたいのか、どういう生活を考えているのか。そのあたりを書け」
「わかりました」
用紙を受け取る。
薄い紙一枚のはずなのに、少し重く感じた。
自分がそこで何をしたいのか。
どういう生活を考えているのか。
悠人は、教室へ戻りながら用紙を見下ろした。
今まで、進路について考えていなかったわけではない。
ただ、かなり現実的に考えていた。
家から通える。
学費面で無理がない。
一人暮らしの負担がない。
地元に残れば生活も大きく変わらない。
それでいいと思っていた。
たぶん、今でもそれは間違っていない。
けれど、担任に言われると、少しだけ引っかかった。
それだけなのか。
昼休み、友人が弁当を食べながら聞いてきた。
「高瀬、お前結局近場なんだろ?」
「たぶん」
「遠く行く気ないの?」
「今のところない」
「理由は?」
「家から通えるし、学費も現実的だし」
「それだけ?」
悠人は箸を止めた。
「……それだけだと思う」
友人は特に深く考えず、頷いた。
「まあ、お前らしいな。無茶しない感じ」
「らしいって何だよ」
「堅実ってこと」
「褒めてる?」
「評価だ」
その言い方に、悠人は思わず少し笑いそうになった。
評価だ。
その言葉は、伊集院レイを思い出させる。
友人は気づかず、別の話題へ移っていった。
けれど悠人の中には、さっきの問いが残っていた。
それだけ?
以前なら、本当にそれだけだった。
家から通えるから。
学費が現実的だから。
遠くへ行く理由がないから。
それ以上でも、それ以下でもない。
けれど今は、その答えに少しだけ違和感がある。
遠くへ行く理由がない。
そう言った時、悠人は以前、伊集院が少し黙ったことを思い出した。
伊集院には、遠くへ行く理由がある。
帝王学。
伊集院家。
海外。
卒業後。
それは、彼女自身がどこまで選んだものなのか、悠人にはわからない。
自分は近くに残る。
伊集院は遠くへ行くかもしれない。
その対比は、思っていたよりもはっきりしている。
ただし、だからといって悠人が急に遠くへ行こうと思うわけではなかった。
海外へ行くとか、伊集院を追うとか、そういう話ではない。
それは違う。
自分の進路は自分で決める。
それは変わらない。
けれど、卒業後に伊集院と完全に関係が切れることを前提にしたくはない。
それは、進路希望調査に書けることではなかった。
放課後、悠人は家へ帰ってから机に向かった。
進路希望調査の書き直し。
机の上には、大学案内と資料が並んでいる。
悠人はペン立てから一本のペンを取った。
黒く、落ち着いたデザインのペン。
伊集院からクリスマスにもらったものだった。
記念品。
そう言って渡されたペン。
最初は使うたびに少し意識した。
今では普通に手に取っている。
そのペンで、自分の進路を書く。
少し妙な気分だった。
でも、不自然ではなかった。
悠人は用紙に向かい、志望理由を書き始めた。
家から通学可能。
学費面で現実的。
地元で学びながら、将来の進路を考えたい。
生活基盤を大きく変えず、学業に集中したい。
文字にすると、やはり現実的だった。
悪くない。
自分らしいとも思う。
その途中で、少しだけ手が止まった。
地元に残る理由。
その中に、伊集院の顔が浮かんだ。
資料室で向かいに座る伊集院。
確認だと言い張る伊集院。
水族館で水槽を見ていた伊集院。
花火の下で黙っていた伊集院。
お茶会ではないと否定した伊集院。
けれど、それは書かない。
進路希望調査に書くことではない。
伊集院のために進路を選ぶわけではない。
自分の進路は、自分のものだ。
それでも、その未来の中に伊集院の存在が少し混じっていることを、悠人はもう否定できなかった。
翌日。
放課後、机の中には白いカードが入っていた。
放課後、資料室へ。
進路希望再提出に伴う確認事項あり。
伊集院レイ
悠人はカードを見て、少し笑った。
「進路希望まで確認するのか」
そう呟き、鞄にしまう。
旧校舎へ向かう足取りは、以前よりずっと自然になっていた。
資料室の扉を叩く。
「入れ」
悠人は扉を開けた。
伊集院は、いつもの席にいた。
机の上には確認用の紙。
筆記具。
そして、端の方には見覚えのある封筒が置かれていた。
伊集院家のものらしい、厚みのある封筒。
悠人が視線を向けると、伊集院はすっと別の資料をその上に重ねた。
隠した。
そうわかったが、悠人は何も言わなかった。
伊集院はいつものように口を開く。
「遅い」
「時間通りだ」
「私より後に来た」
「進路まで確認するんだな」
「当然だ」
「当然なのか」
「三年生の二学期において、進路は行動予定へ大きく影響する。確認対象の進路を把握することは必要事項だ」
「確認対象ね」
悠人は椅子に座った。
今日は紅茶も菓子もなかった。
少しだけ安心したような、残念なような気がした。
伊集院は紙を確認しながら言う。
「志望は近隣大学中心で変更なし、か」
「一応な」
「理由は」
「家から通える。学費も現実的。遠くへ行く理由も、今のところない」
その言葉を聞いた瞬間、伊集院の手が止まった。
ほんの一瞬。
だが、悠人にはわかった。
「……遠くへ行く理由もない、か」
伊集院が静かに繰り返す。
「前にも言った気がするな」
「そうだな」
「伊集院にはあるんだよな。遠くへ行く理由」
伊集院はすぐには答えなかった。
窓の外を見る。
二学期の夕方の光が、資料室の古い窓から入っている。
「可能性はある」
「卒業後は、やっぱり海外なのか?」
悠人は、以前より少しだけ踏み込んだ。
伊集院は目を伏せる。
「可能性はある」
同じ言葉。
けれど、今度は少し重かった。
「そっか」
「まだ確定ではない」
「でも、準備は進んでるんだろ」
伊集院の視線が、机の端の封筒へほんの少しだけ動いた。
すぐに戻る。
「……そうだな」
悠人は、それを見逃さなかった。
けれど、聞かなかった。
伊集院が隠したこと。
封筒の中身。
卒業後の準備。
どれも気になる。
だが、今はそこへ踏み込むより、別のことを聞きたかった。
悠人は少し迷ってから言った。
「でもさ」
「何だ」
「卒業後も連絡くらいは――」
一度、言葉が止まりかけた。
けれど、今回は飲み込まなかった。
「卒業後も連絡くらいは取れるんじゃないのか?」
言った瞬間、資料室の空気が変わった。
伊集院の表情は大きく崩れない。
だが、明らかに返事が遅れた。
悠人は、自分がかなり踏み込んだことを理解した。
付き合いたいと言ったわけではない。
離れたくないと言ったわけでもない。
ただ、卒業後も連絡くらいは取れるのではないかと言っただけだ。
けれど、それは自分にとって思った以上に大きな言葉だった。
卒業したら終わり。
確認が終われば終わり。
資料室が使えなくなれば関係もなくなる。
そういう前提では考えたくなかった。
伊集院は答えなかった。
ペンを持った手が、机の上で止まっている。
「伊集院?」
「……今は、答えられない」
短い言葉だった。
いつもの「必要があればな」ではなかった。
「今は話す必要がない」でもなかった。
答えられない。
伊集院がそう言った。
それは、彼女としてはかなり正直な言葉に聞こえた。
悠人は少しだけ息を吐いた。
「そっか」
伊集院は視線を落としたままだった。
「不満か」
「少し」
伊集院の肩が、ほんのわずかに動いた。
悠人は続けた。
「でも、今すぐ答えろって言いたいわけじゃない」
「……」
「じゃあ、いつか答えられる時に聞く」
伊集院が顔を上げた。
その目には、少し驚きがあった。
以前なら、悠人はそこで引いて終わったかもしれない。
伊集院が答えないなら、聞かなかったことにしたかもしれない。
けれど今回は違った。
追及はしない。
でも、聞かなかったことにはしない。
問いは、そこに置いておく。
伊集院がいつか答えられる時まで。
伊集院はしばらく黙っていた。
やがて、小さく言う。
「君は、時々扱いづらい」
「よく言われる」
「主に私が言っている」
「知ってる」
少しだけ、いつもの空気が戻った。
しかし、完全には戻らなかった。
卒業後。
連絡。
答えられない。
その言葉は、資料室の中に残っている。
伊集院は確認用紙を整えた。
「進路希望の再提出については、確認した」
「評価は?」
「現実的だ」
「褒めてる?」
「評価だ」
「だと思った」
「ただし」
「ただし?」
「自分の進路を、他人に左右されすぎるな」
悠人は少しだけ目を細めた。
「伊集院が言うのか」
「だから言っている」
その言葉は、軽く聞こえなかった。
伊集院自身の進路が、自分だけでは決められないものだから。
悠人にも、それはわかった。
「大丈夫だよ」
「何がだ」
「俺の進路は俺が決める」
伊集院は黙る。
悠人は続けた。
「でも、卒業後に誰とも関係がなくなる前提で考えたいわけじゃない」
「……誰とも、か」
「今はそういう言い方にしておく」
「曖昧だな」
「まだ、はっきり言えるほど整理できてない」
伊集院は、何かを言いかけてやめた。
「そうか」
それだけだった。
確認は、それ以上大きく進まなかった。
伊集院はいつものように紙を揃え、
「今日の確認は終了だ」
と言った。
悠人は立ち上がる。
「じゃあ、また」
「次回は必要があれば連絡する」
「わかった」
扉へ向かう前に、悠人はもう一度だけ伊集院を見た。
机の端の封筒は、まだ資料の下に隠れている。
中身はわからない。
でも、伊集院が答えられない理由の一部が、そこにあるような気がした。
悠人は何も言わず、資料室を出た。
廊下には、秋に近づく夕方の光が差していた。
進路希望調査は、もう書き直した。
志望校の欄も、理由の欄も。
自分の進路は自分で決める。
それは変わらない。
けれど本当に書き直していたのは、志望校の欄だけではなかったのかもしれない。
卒業後も、伊集院レイとまったく関係のない未来を選ぶつもりはない。
それをまだ、はっきりした言葉にはできない。
好きだとか、離れたくないとか、そういう言葉にはまだ届いていない。
でも、卒業したら終わりでいいとは思えなくなっている。
そのことだけは、もう消せなかった。
悠人は階段を下りながら、鞄の中の進路希望調査に手を触れた。
紙は一枚。
けれど、その向こうに続く未来は、以前より少しだけ複雑になっていた。