高瀬悠人が資料室を出ていった後、伊集院レイはしばらく動けなかった。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
旧校舎三階の廊下は、すぐに静かになる。
レイは机の上に視線を落とした。
確認記録。
進路希望再提出に関するメモ。
高瀬悠人の志望校。
地元、あるいは近隣の大学。
家から通える範囲。
学費面で現実的な選択。
そして、机の端には伊集院家の封筒が置かれている。
高瀬は気づいていた。
見えたはずだ。
だが、聞かなかった。
いつものように、踏み込みすぎなかった。
それが今は、少しだけ苦しかった。
――卒業後も連絡くらいは取れるんじゃないのか?
高瀬は、そう言った。
連絡くらい。
その言葉は、高瀬にとっては自然なものだったのだろう。
卒業後も、友人や知人と連絡を取る。
たまに電話をする。
手紙を書く。
会う約束をする。
近況を話す。
普通の高校生なら、当たり前のことだ。
卒業したら同じ教室にはいなくなる。
それでも、関係が完全に切れるわけではない。
高瀬はきっと、そのくらいの感覚で言った。
連絡くらいは取れるんじゃないのか。
だが、レイにとってそれは、当たり前ではなかった。
卒業後。
その言葉がつくと、ただの連絡ではなくなる。
伊集院家。
渡米。
外部関係整理。
秘密保持。
高瀬悠人。
それらが一度に重なる。
レイは、あの時すぐに答えられなかった。
必要があればな。
そう言えばよかったのかもしれない。
卒業後に確認する。
そう逃げることもできた。
今は話す必要がない。
そう切ることもできた。
これまでなら、いくらでも言葉はあった。
けれど、そのどれも口にできなかった。
なぜなら、高瀬が聞いていたのは、確認体制の話ではなかったからだ。
卒業後も、自分たちはつながっていられるのか。
そう聞かれた。
レイは、それを理解してしまった。
だから答えられなかった。
「……今は、答えられない」
自分の声を思い出す。
あれは、逃げだったのか。
いや、違う。
少なくとも、完全な逃げではなかった。
答えたいと思わなかったわけではない。
答えたくなかったわけでもない。
答えられなかった。
レイは、机の端に置かれた封筒へ手を伸ばした。
封を開ける。
中には、すでに何度か目を通した資料が入っている。
卒業後移行準備資料
外部関係整理に関する確認事項
整った文字。
無機質な項目。
そこでは、高瀬の言った「連絡」は、別の言葉に変換されていた。
外部者との接触継続。
秘密保持対象者との通信管理。
卒業後の関係整理。
接触頻度の制限。
必要措置。
記憶処理。
レイは、その文字を見つめる。
高瀬の言う「連絡くらい」と、伊集院家の資料にある「外部者との接触継続」は、同じものを指しているはずだった。
卒業後も、関わりを持つこと。
それだけのはずだった。
だが、まるで違って見える。
高瀬にとっては、電話や手紙や会う約束の可能性。
レイにとっても、本当はそうであってほしいもの。
けれど伊集院家にとっては、管理すべきリスク。
外部者との接触。
秘密保持対象者との通信。
卒業後の関係整理。
同じものが、こんなにも冷たく書き換えられる。
レイは資料を閉じようとして、手を止めた。
高瀬悠人の名前は、まだ明確には載っていない。
少なくとも、この資料には。
だが、彼が無関係ではないことを、レイは知っている。
秘密を知っている。
伊集院家の事情の一端を知っている。
卒業後、学校という管理された環境から外れる。
条件だけを見れば、該当する。
それが一番腹立たしかった。
高瀬悠人という一人の人間が、条件で分類される。
外部者。
秘密保持対象。
接触継続の可否。
必要措置。
記憶処理。
そのどれも、間違いではないのかもしれない。
だが、レイにとっては足りなかった。
高瀬は、ただの外部者ではない。
資料室へ来る人。
お茶会ではないと言っても、紅茶を飲んでいく人。
傘を返す時に糖分補給と称して菓子を渡す人。
水族館の青を一緒に見た人。
花火を覚えていた人。
海外から戻った自分に、おかえりと言った人。
卒業後も連絡くらいは取れるんじゃないのか、と言った人。
それを、外部関係整理という言葉に収められるはずがない。
資料室を出る前、高瀬は言った。
――じゃあ、いつか答えられる時に聞く。
いつか。
その言葉が、今になって胸に残る。
いつかとは、いつなのか。
高瀬に、君は伊集院家で検討対象になっている、と言えるのか。
卒業後も連絡を取れるかどうかは、私一人では決められない、と言えるのか。
資料の中に、記憶処理という言葉があると、言えるのか。
言えない。
まだ言えない。
けれど、言わないままでいいのか。
レイはその問いを処理できず、封筒を机の上に戻した。
その日の夜。
屋敷へ戻ったレイが自室で資料を整理していると、控えめなノックが響いた。
「入れ」
扉が開き、倉橋が姿を見せた。
初老でありながら背筋は伸び、黒く整えられた髪に乱れはない。
いつものように静かで、丁寧な立ち姿だった。
「失礼いたします、レイ様」
「何だ」
「卒業後移行準備について、追加の資料がございます」
レイは黙って倉橋を見た。
倉橋は机の前まで進み、封筒を差し出す。
レイはそれを受け取った。
「追加とは」
「外部関係整理に関する補足でございます」
その言葉に、レイの指がわずかに止まる。
倉橋は、それを見逃さなかっただろう。
だが、何も指摘しなかった。
レイは封筒を開ける。
中に入っていた紙を一枚取り出す。
そこには、いくつかの項目が簡潔に並んでいた。
秘密保持対象者候補:高瀬悠人
卒業後接触継続の可否:要検討
必要措置:未定
レイは、文字を読んだ瞬間、言葉を失った。
高瀬悠人。
名前が、そこにあった。
ただの条件ではない。
外部者という分類ではない。
高瀬悠人という名前が、伊集院家の資料の中にあった。
「……倉橋」
声は、自分でも思ったより低かった。
「はい」
「これは何だ」
倉橋は、わずかに目を伏せた。
「現時点では、整理候補の一項目にすぎません」
「誰が決めた」
「まだ決定ではございません」
「可能性と言ったな」
倉橋は静かに頷いた。
「はい。高瀬様のお名前が、正式な検討対象に入る可能性がございます」
レイは何も言えなかった。
可能性。
ただそれだけの言葉だった。
決定ではない。
命令でもない。
だが、それだけで胸の奥が強く反応した。
高瀬悠人が、正式な検討対象になる。
卒業後接触継続の可否。
必要措置。
未定。
その言葉の中に、高瀬が置かれている。
「現時点では、卒業後に備えた整理対象として検討されている段階でございます」
倉橋の声は慎重だった。
冷たくはない。
事務的でもない。
むしろ、言葉を選んでいるのがわかった。
倉橋自身も、この話を快く思っていない。
それはレイにも伝わった。
だが、倉橋は伊集院家の者として伝えなければならない。
その立場も、レイにはわかっていた。
だから余計に苛立った。
「高瀬は、まだ何も知らない」
「はい」
「本人に話す段階ではないということか」
「現時点では、そのように伺っております」
「受験期だからか」
「それも理由の一つかと存じます。高瀬様に不要な負担をおかけしないため、少なくとも進路に関わる時期は避けるべきとの意見がございます」
不要な負担。
その言葉もまた、正しいようで冷たかった。
高瀬のため。
伊集院家のため。
秘密保持のため。
どの理屈も成立する。
それが嫌だった。
「記憶処理は」
レイは、自分からその言葉を出した。
倉橋の表情がわずかに沈む。
「現時点では、必要措置の選択肢の一つに留まっております」
「選択肢」
「はい。決定事項ではございません」
「当然だ」
レイは即座に言った。
「当然でございます」
倉橋は静かに答えた。
その返答には、少しだけ倉橋自身の思いも含まれているように聞こえた。
レイは資料を机に置いた。
「高瀬に話す必要はない」
そう言いかけて、止まった。
本当にそうなのか。
まだ話す段階ではない。
それは事実かもしれない。
だが、話さないままでいいのか。
高瀬は言った。
いつか答えられる時に聞く。
では、その「いつか」とはいつなのか。
すべてが決められてからか。
本人に選択肢が提示される時か。
それとも、もう取り返しがつかなくなってからか。
レイは唇を結んだ。
倉橋は静かに言う。
「レイ様」
「何だ」
「差し出がましいことを申し上げますが、高瀬様は、知らぬままで済む方ではないと存じます」
レイは倉橋を睨む。
「以前も似たようなことを言ったな」
「はい」
「高瀬を巻き込めと言っているのか」
「いいえ」
倉橋はすぐに答えた。
「ただ、レイ様が一人で抱え続けるには、あまりに重い話かと存じます」
「……余計なことだ」
「承知しております」
倉橋は深く頭を下げた。
だが、引かなかった。
「資料は、こちらに置いてまいります」
「わかった」
「失礼いたします」
倉橋は静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
部屋に一人になる。
レイは机の上の資料を見下ろした。
秘密保持対象者候補:高瀬悠人
卒業後接触継続の可否:要検討
必要措置:未定
高瀬の名前が、そこにある。
それだけで、これまで資料の中にあった無機質な言葉が急に重みを持った。
外部者との接触継続。
秘密保持対象者との通信管理。
卒業後の関係整理。
記憶処理。
高瀬が言った「連絡くらい」は、伊集院家の資料では、こんな形になる。
電話をするかもしれない。
手紙を書くかもしれない。
会う約束をするかもしれない。
何気ない近況を話すかもしれない。
それだけのことが、管理項目になる。
制限対象になる。
必要措置の対象になる。
レイは、資料を閉じた。
今は、答えられない。
高瀬にそう言った。
あれは逃げではなかった。
けれど、答えでもなかった。
いつか答えられる時に聞く。
高瀬の言葉が胸の奥に残っている。
いつか。
その「いつか」が来る前に、何かが決められてしまうかもしれない。
高瀬の知らないところで。
自分がまだ言えないでいる間に。
レイは資料の上に手を置いた。
確認なら、いつもできた。
秘密保持の確認。
行動予定の確認。
水族館の確認。
花火の確認。
進路の確認。
けれど、これは確認では済まない。
卒業後も、高瀬悠人とつながっていられるのか。
その問いには、今のレイは答えられなかった。
そして、答えられないままでいることが、初めて怖いと思った。