翌日の放課後。
高瀬悠人は、旧校舎三階の資料室へ向かっていた。
二日続けて同じ場所へ行くことになるとは、数日前の自分なら想像もしなかっただろう。
旧校舎の階段は、相変わらず少し軋む。
放課後の校舎には部活動の声が満ちているのに、この場所だけはその音が遠い。
昨日、伊集院レイは言った。
明日も、ここへ来い。
監視だ、と。
だから悠人は来た。
来ないという選択肢も、たぶんあった。
けれど、来なかった場合の面倒さを考えると、素直に来た方がまだましだった。
それに。
昨日の伊集院の声が、耳に残っていた。
――本当に、誰にも言っていないのだな。
あの時の声は、いつもの伊集院レイではなかった。
誰もが憧れる伊集院くんでも、伊集院家の御曹司でもなかった。
秘密を抱えた、一人の少女の声だった。
そう思ってしまった時点で、悠人はもう完全な傍観者ではいられなかった。
資料室の前で足を止める。
中からは物音がしない。
悠人は一度だけ深呼吸して、扉をノックした。
「入れ」
昨日と同じ声。
悠人は扉を開けた。
資料室の中には、すでに伊集院レイがいた。
夕陽の差し込む窓際。
古い資料棚。
机の上に並んだファイル。
そこまでは昨日と同じだった。
だが、今日は少し様子が違った。
机の上に、見慣れない紙袋が置かれていた。
大きすぎず、小さすぎない。
上質な紙袋。
中には布のようなものが入っているように見える。
悠人は、それに気づいて眉をひそめた。
「今日は何を確認するんだ?」
「君には、私に同行してもらう」
伊集院は当然のように言った。
「どこへ?」
「街だ」
「……街?」
悠人は思わず聞き返した。
「監視じゃなかったのか?」
「監視の一環だ」
「どう考えても違うだろ」
「違わない」
「いや、違うだろ。監視って、ここで尋問されるやつじゃないのか」
「昨日の時点ではそうだった」
「監視って日替わりなのか?」
「必要に応じて形を変える」
「便利な言葉だな」
悠人がそう言うと、伊集院は涼しい顔で紙袋を手に取った。
「君は、私の秘密を知った」
「それはもう何度も聞いた」
「そして私は、君がその秘密を外でどう扱うか確認する必要がある」
「外で?」
「そうだ」
伊集院は紙袋を持ったまま、資料室の奥にある古い衝立の方へ歩いた。
「私がこの姿で君と外を歩いても、君が余計な反応をしないか確認する」
「それ、俺を試してるだけだろ」
「そうだ」
「認めるのかよ」
「隠す必要がない」
あまりに堂々と言われて、悠人は返す言葉を失った。
伊集院は衝立の向こうへ入る。
「そこで待っていろ。覗けば今度こそ本当に退学だ」
「覗かないって」
「信用していない」
「わかってるよ」
悠人は資料棚の方を向いた。
背後で紙袋が開く音がする。
衣擦れの音。
小さく何かを置く音。
悠人は意識しないように、古い資料の背表紙を眺めた。
体育祭記録。
文化祭実行委員会資料。
進路指導統計。
まったく興味はない。
だが、背後の音を聞かないためには、それを見るしかなかった。
しばらくして、伊集院の声がした。
「もういい」
悠人は振り返った。
そして、一瞬だけ言葉を失った。
そこに立っていたのは、伊集院レイだった。
けれど、学校で見る伊集院くんとは少し違っていた。
制服ではない。
落ち着いた色のシャツに、細身の上着。
どちらかといえば中性的で、男性的にも女性的にも見える服装だった。
ただ、髪型が少しだけ違う。
いつもより柔らかく流されていて、顔の輪郭が少しだけ優しく見える。
胸元も、仕草も、立ち姿も、学校での彼とは微妙に違っていた。
大きく変わったわけではない。
だから、知らない人が見れば、少し綺麗な少年に見えるかもしれない。
けれど、悠人にはそう見えなかった。
伊集院レイは、少女だった。
その事実が、昨日よりも静かに、はっきりと目の前にあった。
伊集院は平然としているふりをしていた。
顎を上げ、いつものように悠人を見下ろすような目をしている。
だが、悠人は気づいた。
指先がわずかに硬い。
視線も、ほんの少しだけこちらの反応をうかがっている。
緊張している。
伊集院レイが。
「何を見ている」
「いや……」
「余計な感想は不要だ」
「まだ何も言ってないだろ」
「言う前に止めた」
悠人は少し迷った。
からかうつもりはなかった。
そんなことをすれば、きっと伊集院はすぐに硬くなる。
だから、なるべく普通に言った。
「似合ってる」
伊集院の目が、わずかに揺れた。
「……誰が感想を求めた」
「いや、言った方がいいかと思って」
「不要だ」
「そうか」
「そうだ」
伊集院はすぐに視線を逸らした。
しかし、その横顔は、ほんの少しだけ赤くなっているようにも見えた。
気のせいかもしれない。
気のせいということにしておいた方がいい気がした。
「出るぞ」
「その格好で?」
「そのために着替えた」
「まあ、そうだよな」
「君は、私の少し後ろを歩け」
「なんで?」
「余計な詮索を避けるためだ」
「一緒に行く意味あるのか、それ」
「ある。君が不用意な反応をしないか確認する必要がある」
「徹底して俺を試すんだな」
「当然だ」
伊集院は当然のように言って、資料室の扉へ向かった。
悠人もその後に続く。
旧校舎を出る時、伊集院は一度だけ周囲を確認した。
誰もいない。
それを確かめてから、足早に校門の外へ向かう。
学校の中では、伊集院レイは伊集院くんだった。
だが校門を越え、駅へ向かう道に出ると、その空気が少しだけ変わった。
すれ違う人々は、伊集院を知らない。
きらめき高校の伊集院レイとしてではなく、ただの綺麗な学生として見る。
それが、伊集院にとって慣れないことなのだと、悠人にはなんとなくわかった。
駅前は、放課後の学生や買い物客で賑わっていた。
店の看板。
自転車のベル。
交差点の信号音。
喫茶店から流れるコーヒーの香り。
いつもの街だった。
だが、伊集院と一緒に歩いているだけで、少し違って感じる。
「まずは本屋へ行く」
伊集院が言った。
「本屋?」
「何か問題が?」
「いや。伊集院らしいと思って」
「私らしい?」
「なんとなく」
伊集院は少しだけ眉を寄せた。
「曖昧な感想だな」
「悪かったな」
駅前の本屋は広すぎず、狭すぎず、学生がよく立ち寄る店だった。
参考書、雑誌、小説、漫画、文庫本。
棚ごとに人がまばらに立っている。
伊集院は迷いなく文庫本の棚へ向かった。
その歩き方はいつもの伊集院に近かった。
背筋が伸びていて、目的がはっきりしている。
悠人は少し後ろからついていく。
伊集院は数冊の本を手に取り、背表紙を確かめた。
古典文学。
歴史書。
外国文学の翻訳。
いかにも伊集院が読みそうな本だった。
だが、ふと彼女の視線が隣の棚へ流れた。
そこには、恋愛小説や雑誌が並んでいる。
表紙には、柔らかい色合いのイラストや、流行の服を着たモデルの写真が並んでいた。
伊集院の視線が、ほんの一瞬だけ止まる。
悠人はそれに気づいた。
「それ、見るのか?」
伊集院はすぐに顔を戻した。
「見ない」
「今、見てただろ」
「視界に入っただけだ」
「視界に入っただけにしては、結構見てたけど」
「高瀬」
「はい」
「余計な観察をするな」
「監視されてるのは俺のはずなんだけどな」
伊集院は答えなかった。
だが、文庫本の棚に戻る前に、もう一度だけ雑誌の表紙へ視線を向けた。
本当に一瞬。
悠人は、それ以上何も言わなかった。
言えば伊集院は、きっとその棚を見なくなる。
そう思ったからだ。
結局、伊集院は外国文学の文庫を一冊だけ購入した。
雑誌には手を伸ばさなかった。
本屋を出ると、少し日が傾き始めていた。
「次は?」
悠人が聞くと、伊集院は当然のように答えた。
「喫茶店だ」
「予定決まってるんだな」
「無計画に歩く趣味はない」
「俺は予定を聞かされてないけど」
「君に事前説明する必要はない」
「またそれか」
駅前の角にある喫茶店へ入る。
店内は落ち着いた雰囲気で、学校帰りの生徒も何人かいたが、騒がしくはなかった。
店員が近づいてくる。
「二名様ですか?」
伊集院の肩が、ほんの少しだけ動いた。
「お連れ様はこちらでよろしいですか?」
店員が悠人の方を見て聞いた。
悠人は深く考えずに答えた。
「あ、はい」
その瞬間、伊集院が少しだけ視線を伏せた。
本当にわずかだった。
だが、悠人には見えた。
“連れ”。
ただそれだけの言葉に、伊集院は反応したのだ。
席に案内され、向かい合って座る。
伊集院はメニューを開いた。
悠人も何気なくメニューを見る。
コーヒー。
紅茶。
サンドイッチ。
ケーキセット。
季節限定のショートケーキ。
伊集院の視線が、ケーキセットのところで止まった。
悠人はそれを見た。
そして、見なかったことにしようか迷った。
だが、結局口に出した。
「それ食べたいんだろ」
「違う」
即答だった。
「今、見てた」
「メニューを確認していただけだ」
「じゃあ俺が頼む」
伊集院の動きが止まった。
「……なぜ君が頼む」
「俺が食べたいから」
「本当か?」
「半分くらい」
「残り半分は何だ」
「伊集院が少し食べたそうだったから」
伊集院は、非常に不本意そうな顔をした。
「私は頼まない」
「そうか。じゃあ俺が頼む」
「……なら」
「なら?」
「少しだけもらう」
「はいはい」
「その言い方はやめろ」
悠人は店員を呼び、コーヒーとケーキセットを注文した。
伊集院は紅茶だけを頼んだ。
注文が届くまで、少し沈黙が落ちる。
店内の音楽。
カップの触れる音。
他の客の話し声。
伊集院は窓の外を見ていた。
学校にいる時より、少しだけ表情が柔らかい気がした。
いや、本人に言えば絶対に否定するだろう。
それでも、悠人にはそう見えた。
「こういう店、よく来るのか?」
悠人が聞くと、伊集院は視線を戻した。
「なぜ聞く」
「いや、なんとなく」
「なんとなく質問するな」
「会話ってだいたいそういうものじゃないか?」
「君の会話は雑だ」
「伊集院の会話は命令が多い」
「事実だから問題ない」
「問題あると思うけどな」
伊集院は紅茶が届くと、静かにカップを持ち上げた。
仕草は綺麗だった。
何気ない動作まで、妙に整っている。
だが、ケーキが運ばれてきた時だけ、ほんの少し目が動いた。
悠人はそれを見て、皿を少し伊集院側へ寄せた。
「どうぞ」
「私は少しだけと言った」
「わかってる」
「君が先に食べろ」
「なんで」
「毒味だ」
「ひどいな」
悠人はフォークを手に取った。
しかし、思ったよりケーキが柔らかかった。
クリームを崩さないように切ろうとして、少し力加減を間違える。
フォークの先から、クリームが皿の端に滑った。
「あ」
声が出た。
落としたわけではない。
だが、きれいに食べるつもりが、かなり不格好になった。
伊集院がそれを見ていた。
そして、ふっと笑った。
ほんの一瞬。
柔らかく、無防備な笑みだった。
学校で見る、余裕を含んだ笑みではない。
人を見下すような笑みでもない。
取り巻きに向ける優雅な微笑でもない。
普通の少女が、目の前の少し間抜けな失敗を見て、思わずこぼした笑みだった。
悠人は、思わず固まった。
伊集院はすぐに表情を戻した。
「何だ」
「今、笑った?」
「笑っていない」
「いや、笑っただろ」
「見間違いだ」
「絶対笑った」
「高瀬」
「はい」
「余計な記憶は消せ」
「それは無理だな」
「ならば忘れたふりをしろ」
「またそれか」
伊集院は紅茶を口に運んだ。
だが、耳元が少しだけ赤い。
悠人は、それ以上追及しなかった。
あれは、学校で見る伊集院くんの笑顔とは違った。
そのことだけが、なぜか胸に残った。
ケーキを少し取り分ける。
伊集院は最初こそ不本意そうな顔をしていたが、一口食べると、わずかに目を細めた。
「どうだ?」
「普通だ」
「普通にうまい?」
「普通だ」
「それ、気に入ってる時の言い方か?」
「違う」
「じゃあもう食べないか?」
伊集院は無言で、もう一口分だけフォークを伸ばした。
悠人は笑いそうになったが、笑わなかった。
笑えば、きっと二度と食べなくなる。
喫茶店を出る頃には、夕方の空が赤くなっていた。
駅前の人通りはまだ多い。
学生、会社員、買い物帰りの人たち。
その中を、伊集院と悠人は並んで歩いた。
学校に戻るわけではない。
途中の交差点まで歩き、そこで別れることになっていた。
「今日のことも、誰にも言うな」
伊集院が言った。
「言わない」
「当然だ」
「本屋で雑誌見てたことも?」
「見ていない」
「ケーキ食べたことも?」
「食べていない。少し味を確認しただけだ」
「かなり食べてたけど」
「高瀬」
「はい」
「君は口が軽いのか?」
「軽くないから、伊集院の前でしか言ってない」
伊集院は少しだけ黙った。
それから、ふいに悠人が聞いた。
「……楽しかったか?」
伊集院の足が、ほんの少しだけ止まった。
本当にわずかだった。
だが、悠人にはわかった。
答えが遅れた。
「何を馬鹿なことを」
伊集院はすぐに冷たい顔に戻った。
「今日の外出は、君の口の堅さを確認するためのものだ」
「そういうことにしておく」
「その言い方はやめろ」
「昨日も言われたな」
「君が直さないからだ」
「伊集院も命令口調を直してないだろ」
「私は直す必要がない」
「あると思うけどな」
伊集院は前を向いたまま、少しだけ黙った。
夕陽が彼女の横顔を照らしている。
制服ではなく、落ち着いた私服。
けれど背筋は相変わらず伸びている。
“伊集院くん”でいようとする癖は、服を変えたくらいでは消えないのだろう。
それでも今日、悠人は見てしまった。
雑誌に目を留める伊集院。
ケーキを少しだけ欲しがる伊集院。
クリームを落としかけた自分を見て、素で笑った伊集院。
学校で見る伊集院レイとは違う。
でも、別人ではない。
どちらも、伊集院レイなのだ。
そう思った。
交差点の手前で、伊集院が足を止めた。
「私はここで別れる」
「わかった」
「高瀬」
名字で呼ばれた。
もう、少しだけ慣れてきた。
「何だ?」
伊集院は、一度視線を外した。
それから、いつものように顎を上げる。
「……次も、必要があれば呼ぶ」
「監視か?」
「監視だ」
「わかった」
「遅れるな」
「はいはい」
「返事は一回でいい」
「はい」
伊集院は満足したように頷いた。
そして、駅とは反対側の道へ歩き出す。
数歩進んだところで、ふと振り返った。
「それと」
「まだあるのか?」
「今日のケーキの件は忘れろ」
「ケーキの件って、どれ?」
「全部だ」
「それは無理だな」
「忘れたふりをしろ」
「はい」
伊集院は少しだけ目を細めた。
怒っているようにも、呆れているようにも見えた。
けれど昨日や一昨日のような鋭さはなかった。
そして今度こそ、彼女は背を向けて歩いていった。
悠人は、その背中をしばらく見送った。
今日の外出は、伊集院に言わせれば監視の一環だった。
口の堅さを確認するため。
不用意な反応をしないか試すため。
秘密を守れるか見極めるため。
きっと、そうなのだろう。
少なくとも、伊集院はそう言い張る。
けれど悠人は、あの喫茶店で見た笑顔を思い出していた。
ほんの一瞬だけ、伊集院が普通の少女のように笑った顔。
あれは、作り物ではなかった。
悠人は小さく息を吐いた。
「……本当に、面倒なことになったな」
そう呟いた。
けれど、その声にはもう、最初ほど困惑だけがあるわけではなかった。
秘密を知ってしまった。
監視されることになった。
利用されている。
それは間違いない。
でも今日、高瀬悠人は少しだけ知ってしまった。
伊集院レイが、伊集院くんではない時間を、ほんの少しだけ欲しがっていることを。
そして自分が、その時間に付き合わされていることを。
いや。
付き合ってしまっていることを。
夕方の駅前で、悠人はもう一度、伊集院が去っていった道を見た。
彼女の姿は、もう人混みに紛れて見えなくなっていた。
それでも、あの一瞬の笑顔だけは、妙にはっきりと残っていた。