伊集院家のクリスマスパーティに招かれるのは、二度目だった。
去年、高瀬悠人はその会場に足を踏み入れた瞬間、ほとんど圧倒されていた。
広い屋敷。
磨かれた床。
整えられた照明。
華やかな招待客。
そして、その中心で完璧に振る舞う伊集院くん。
自分とは違う世界。
去年の悠人は、そう思った。
今年も、その感想がなくなったわけではない。
駅から伊集院邸へ向かう道を歩きながら、悠人はコートの内側にしまった小さな包みを確かめた。
ブックカバー。
まだ渡せるかどうかはわからない。
だが、用意してきた。
今年は、呼ばれてから慌てて考えたわけではない。
招待される前に、考えて、選んで、買った。
その事実が、悠人には少しだけ落ち着かないものに感じられた。
伊集院邸の門の前に立つと、去年のことを思い出す。
あの時は、ここへ来るだけで緊張していた。
今年は、緊張がないわけではない。
ただ、何も知らないまま来た去年とは違う。
伊集院レイのことを、少しは知っている。
伊集院家の重さも、少しだけ知っている。
そして、知らないことがまだたくさんあることも知っている。
門をくぐると、屋敷の明かりが見えた。
華やかな音楽が、扉の向こうからかすかに聞こえる。
「高瀬悠人様でいらっしゃいますね」
迎えに出た使用人に案内され、悠人は会場へ入った。
去年と同じように、そこは眩しかった。
シャンデリアの光。
整えられた花。
上品な料理。
談笑する招待客。
高校生のクリスマスというより、伊集院家という場所そのものを見せるための行事のようだった。
今年も、伊集院くんは中心にいた。
背筋を伸ばし、穏やかに微笑み、来賓と自然に言葉を交わしている。
女子生徒たちに囲まれている学校の伊集院くんとも少し違う。
ここにいるのは、伊集院家の一員としての伊集院くんだった。
完璧だった。
去年なら、悠人はただそう思ったはずだ。
すごい。
遠い。
自分とは違う。
今年もそう思わないわけではない。
だが、それだけではなかった。
あの笑みが少し硬いこと。
挨拶の間に一瞬だけ息を整えていること。
誰かに話しかけられる前に、すでに次の対応を考えているような目をしていること。
去年は見えなかったものが、今年は少し見える。
完璧さの裏に、役割の重さがある。
伊集院レイは、この場所で伊集院くんとして立っている。
そのことを、悠人は去年よりも強く感じた。
「高瀬様」
声をかけられて振り向くと、倉橋が立っていた。
初老でありながら若々しく、黒く整えられた髪と隙のない立ち姿は相変わらずだった。
悠人は内心で、漫画の執事みたいだと思った。
「倉橋さん」
「本日はお越しいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、招待していただいて」
「レイ様も、お待ちでございました」
その言い方に、悠人は少しだけ目を瞬いた。
倉橋は穏やかに微笑むだけだった。
「会場内はご自由にお過ごしください。後ほど、レイ様よりお声がけがあるかと存じます」
「わかりました」
倉橋は一礼し、離れていった。
悠人は会場の隅に立ち、全体を眺める。
去年よりは、居場所がわからないという感覚は薄い。
飲み物を受け取り、邪魔にならない位置へ移動することもできた。
それでも、完全に馴染んでいるわけではない。
ここは伊集院家の場所だ。
自分は招かれた外部者に過ぎない。
そのことは、去年よりもむしろはっきり感じる。
何人かの招待客が、悠人を見る。
ただの来客を見る視線ではなかった。
去年は、珍しい高校生の招待客として見られているのだと思った。
今年は、少し違う気がした。
誰かが、名前を知っているような目で見る。
何かを確認するような視線。
悠人は、それに気づいた。
少しだけ居心地が悪い。
すると、会場の向こうで伊集院の視線がこちらを捉えた。
ほんの一瞬。
伊集院の表情は変わらない。
だが、目だけが少し硬くなった。
彼女も気づいている。
そう思った。
パーティは進んでいった。
伊集院は完璧だった。
挨拶を受ける。
言葉を返す。
必要な相手に自分から声をかける。
会場の空気を保つ。
悠人は、その姿を見ながら、去年のクリスマスを思い出していた。
去年の自分は、伊集院が遠い世界の人だと痛感した。
今年の自分は、それだけでは終われなかった。
遠い世界にいる。
それは間違いない。
でも、資料室で紅茶を出して「お茶会ではない」と言い張る伊集院も同じ人だ。
水族館で青い光を見ていた伊集院も。
花火を遠くから見上げていた伊集院も。
チョコレートを糖分補給と言い張った伊集院も。
傘を貸して「管理だ」と言った伊集院も。
全部、同じ伊集院レイだ。
そう思えるようになったことが、去年との違いだった。
パーティの終盤。
倉橋が、静かに悠人のそばへ来た。
「高瀬様」
「はい」
「レイ様が、少しお時間をいただきたいとのことです」
「伊集院が?」
「はい。こちらへ」
倉橋に案内され、悠人は会場を出た。
去年は庭だった。
今年は違った。
長い廊下を進み、階段を上がる。
少し奥まった場所にある扉を倉橋が開けると、そこはバルコニーへ続いていた。
冬の空気が流れ込む。
冷たいが、会場の熱気から離れるにはちょうどよかった。
バルコニーには、すでに伊集院がいた。
会場での完璧な笑みは消えている。
それでも背筋は伸びている。
夜の空を背にして立つ姿は、やはり伊集院らしかった。
倉橋は一礼した。
「では、私は下がっております」
扉が静かに閉まる。
二人だけになった。
伊集院が最初に口を開いた。
「寒くはないか」
「大丈夫」
「無理をする必要はない」
「伊集院こそ」
「私は問題ない」
「言うと思った」
伊集院は少しだけ不満そうにする。
その表情が、会場で見た完璧な笑みよりずっと自然に見えた。
悠人はバルコニーの手すりの近くへ立った。
屋敷の庭が下に見える。
遠くには街の明かり。
会場の音楽は、扉越しにかすかに聞こえるだけだった。
「今年もすごいな」
悠人が言うと、伊集院は少しだけ目を伏せた。
「伊集院家の年中行事だ」
「去年より、少しだけ慣れた気がする」
「それは確認対象としての適応だな」
「またそれか」
「事実だ」
悠人は少し笑った。
そのあと、会場の方を振り返る。
「でも、今年は少し見られてる気がした」
伊集院の表情がわずかに硬くなる。
「……どういう意味だ」
「何となく。去年より、俺のことを知ってるみたいな視線があった」
伊集院は黙った。
悠人は続ける。
「今年、俺が来てよかったのか?」
「何を言っている」
「いや。伊集院家の事情とか、卒業後の話とか。最近、少し重い話があっただろ」
伊集院はすぐには答えなかった。
夜風が少しだけ吹く。
やがて、伊集院は短く言った。
「気にするな」
「伊集院が一番気にしてる顔してる」
「余計な観察だ」
「そうか」
悠人はそれ以上、聞かなかった。
聞きたいことはある。
けれど、今は違う。
今夜ここへ来た理由は、それだけではない。
悠人はコートの内側から、小さな包みを取り出した。
伊集院がそれに気づき、目を細める。
「高瀬」
「去年も渡したし」
「……今年も用意したのか」
「一応」
伊集院はわずかに固まった。
予想していなかったわけではないのだろう。
それでも、実際に差し出されると反応に困る。
そんな顔だった。
悠人は包みを差し出す。
「クリスマスだし。記念品、ってことで」
伊集院はその言葉に少し反応した。
去年、彼女が使った言葉だ。
記念品。
伊集院はゆっくりと包みを受け取った。
「開けても?」
「もちろん」
包装を丁寧に解く。
中から現れたのは、落ち着いた色のブックカバーだった。
深い紺色に近い色合い。
派手ではない。
けれど、手触りのよさそうな品だった。
伊集院は、それをしばらく見つめていた。
「去年も、君は本に関するものを選んだな」
「覚えてたのか」
「確認事項だ」
「じゃあ今年も確認事項になるな」
伊集院は答えなかった。
ブックカバーを指先でなぞる。
その表情は、会場で見せていたものとは違っていた。
去年の栞を思い出しているのかもしれない。
悠人はそこまでは知らない。
栞を使っているかどうかも知らない。
ただ、伊集院が本を読むことは覚えていた。
本を手にする姿が自然だったから。
だから選んだ。
それだけだ。
いや、それだけではないのかもしれない。
伊集院が受け取りやすいもの。
学校でも使えるもの。
高価すぎず、でも適当ではないもの。
伊集院が言い訳できるもの。
そういうことを、ずいぶん考えた。
「気に入らなかったら、確認資料のカバーにでも使ってくれ」
悠人が言うと、伊集院は少しだけ眉を寄せた。
「本に使う」
短い言葉だった。
悠人は少し驚く。
「そうか」
「……本に使うためのものだろう」
「まあ、そうだけど」
「なら、本に使う」
それ以上の言葉はなかった。
けれど、悠人には十分だった。
伊集院はブックカバーを丁寧に包み直す。
その動作を見て、悠人は選んでよかったと思った。
すると、今度は伊集院が小さな包みを取り出した。
「高瀬」
「何だ?」
「私からもある」
悠人は少し固まった。
去年と同じだ。
いや、去年よりも少し違う。
去年は、伊集院が先にペンを渡した。
今年は、こちらが先に渡した。
伊集院は包みを差し出す。
「記念品だ」
「また記念品か」
「伊集院家の年中行事に参加した記録として、妥当なものだ」
「プレゼントじゃないのか」
「記念品だ」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
悠人は包みを開けた。
中に入っていたのは、落ち着いた色のペンケースだった。
派手ではない。
しっかりした作りで、手に馴染みそうなものだった。
悠人は目を瞬く。
「ペンケース?」
「受験期における筆記具管理の補助だ」
「補助」
「去年渡したペンを、君が使っていることは確認済みだ」
「確認済みって」
「進路希望調査を書いた時も使っていただろう」
悠人は少しだけ笑った。
「見てたのか」
「見えただけだ」
「それ、俺がよく言うやつだな」
「真似をするな」
「してるのは伊集院だろ」
伊集院は少しだけ視線を逸らした。
悠人はペンケースを手に取る。
去年もらったペンを入れるもの。
受験期に使うもの。
伊集院らしい贈り物だった。
実用的で、言い訳ができて、それでもちゃんとこちらを見て選ばれている。
高瀬は、伊集院の本を包むものを渡した。
伊集院は、高瀬の書く道具を守るものを渡した。
そのことに気づき、悠人は少しだけ胸の奥が温かくなった。
「ありがとう」
素直に言った。
伊集院は、すぐには返事をしなかった。
「……受験期に、筆記具を紛失すると困るからな」
「確認対象の管理か?」
「そうだ」
「そっか」
悠人はペンケースを丁寧にしまった。
バルコニーには、冬の空気が満ちている。
会場の音楽は遠い。
去年と似ている。
でも、同じではない。
去年は、お互いに予想外のプレゼント交換だった。
今年は、どこかで互いに用意していた。
それをはっきり言葉にはしない。
でも、そういうことだ。
伊集院はブックカバーを見下ろしたまま、ぽつりと言った。
「去年の栞も」
悠人は顔を上げた。
「え?」
「……いや」
伊集院はすぐに口を閉じた。
だが、悠人は聞き逃さなかった。
「使ってるのか?」
伊集院は少しだけ黙った。
「使えるものだからな」
「そっか」
「それ以上の意味はない」
「うん」
「何だ、その返事は」
「いや。嬉しいと思って」
伊集院は固まった。
「……余計な感想だ」
「そうか」
「そうだ」
けれど、その否定は弱かった。
悠人はそれ以上言わなかった。
言わなくても、十分だった。
しばらく二人で夜景を見ていた。
遠くの街に、クリスマスの明かりが揺れている。
その向こうにある未来は、まだ見えない。
卒業後のこと。
連絡のこと。
伊集院家のこと。
高瀬が感じた視線のこと。
全部、まだそこにある。
それでも今夜は、少しだけ別のものを見ていたかった。
「伊集院」
「何だ」
「今年も来られてよかった」
伊集院の指が、ブックカバーの包みを少し強く握った。
「……確認としては、有意義だった」
「そう言うと思った」
「当然だ」
「でも、去年よりは少し苦しいな、その言い方」
伊集院は睨むようにこちらを見た。
「余計な観察だ」
「そうか」
「そうだ」
悠人は笑った。
伊集院も、ほんの少しだけ表情を緩めたように見えた。
扉の向こうから、倉橋の控えめな声が聞こえた。
「レイ様。そろそろお戻りいただくお時間でございます」
伊集院はすぐに表情を整えた。
「わかった」
その一言で、伊集院レイはまた伊集院くんへ戻っていく。
悠人はそれを見ていた。
去年なら、ただすごいと思った。
今年は、戻っていく前の一瞬も見えていた。
バルコニーを出る前、伊集院は小さく言った。
「高瀬」
「何だ?」
「今日の件は、誰にも言うな」
「プレゼント交換のこと?」
「すべてだ」
「わかってる」
「当然だ」
「確認済みだろ」
伊集院は少しだけ黙り、それから言った。
「再確認だ」
「そっか」
二人は会場へ戻った。
扉が開くと、華やかな光と音が一気に戻ってくる。
伊集院は、もう完璧な伊集院くんだった。
悠人は、その背中を見ながら、鞄の中のペンケースに手を触れた。
去年のペンを、これに入れようと思った。
そして、伊集院が受け取ったブックカバーを思い出す。
今年も、何かを渡せた。
今年も、何かを受け取った。
それはただの記念品かもしれない。
確認の一部かもしれない。
でも、悠人にはもうわかっていた。
これは、忘れたくないものがまた一つ増えた夜だった。