伊集院レイは、伝説の木の下で少女になる   作:エーアイ

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幕間:伊集院レイは、去年の栞をまだ使っている

 クリスマスパーティが終わった後、伊集院レイは自室へ戻った。

 

 廊下は静かだった。

 

 会場に残っていた音楽も、来賓たちの声も、遠ざかっている。

 屋敷の使用人たちは手際よく後片づけを進めているはずだが、その音すら自室まではほとんど届かない。

 

 扉を閉める。

 

 レイは、ようやく一人になった。

 

 完璧な伊集院くんとして立ち続けた時間が、肩に残っていた。

 

 挨拶。

 会話。

 視線。

 微笑。

 立ち位置。

 親族への対応。

 関係者への返答。

 

 毎年のことだ。

 

 慣れている。

 

 そう言えるはずだった。

 

 だが、今年は去年とは少し違った。

 

 レイは机の上に、小さな包みを置いた。

 

 高瀬悠人から渡されたもの。

 

 ブックカバー。

 

 落ち着いた色の、上品で、目立ちすぎない品だった。

 

 派手ではない。

 高価すぎない。

 けれど、適当に選んだものではないことはわかる。

 

 レイは椅子に座り、包みをもう一度開いた。

 

 バルコニーで一度見たはずなのに、自室で改めて見ると、また違って見える。

 

 「今年も用意したのか」

 

 自分は、そう言った。

 

 予想していなかったわけではない。

 

 高瀬なら、何か用意してくるかもしれない。

 

 そんな考えが、どこかにあった。

 

 いや、正確には違う。

 

 用意していてほしいと、思っていたのかもしれない。

 

 レイは、その考えをすぐに否定しようとして、うまくいかなかった。

 

 高瀬は、今年も何かを用意してくれていた。

 

 正式に招待する前から。

 必要があれば招待するとしか言っていない時から。

 クリスマスパーティに来るかどうかも、完全には決まっていなかった時から。

 

 それなのに、高瀬は選んでいた。

 

 自分のために。

 

 レイはブックカバーの表面を指でなぞった。

 

 「……確認対象の判断としては、妥当だ」

 

 小さく呟く。

 

 だが、その言葉はあまりに弱かった。

 

 妥当。

 

 合理的。

 

 記念品。

 

 確認事項。

 

 どれも使える言葉だ。

 

 しかし、今夜の気持ちを説明するには足りない。

 

 高瀬が用意していた。

 

 自分に渡すものを考えていた。

 

 それが、どうしようもなく嬉しかった。

 

 レイは、その事実に気づいてしまい、少しだけ眉を寄せる。

 

 「……不適切だ」

 

 何が不適切なのかは、自分でもよくわからなかった。

 

 喜んだことか。

 

 期待していたことか。

 

 それとも、プレゼント交換になったことを、去年よりも自然に受け止めてしまったことか。

 

 去年は、予想外だった。

 

 ペンを渡した。

 高瀬が栞を渡した。

 互いに少し固まって、照れ隠しの言葉を並べた。

 

 今年は違う。

 

 高瀬はブックカバーを用意していた。

 自分もペンケースを用意していた。

 

 どちらも、偶然ではなかった。

 

 どちらも、相手のことを考えて選んだものだった。

 

 それを、ただの記念品と呼ぶには、少し無理があった。

 

 レイは席を立ち、本棚へ向かった。

 

 一冊の文庫を取り出す。

 

 外国文学の文庫。

 

 そこには、去年高瀬から贈られた栞が挟まっている。

 

 レイは本を開いた。

 

 栞は、そこにあった。

 

 一年近く前にもらったもの。

 

 捨てずに、引き出しにしまうのでもなく、使っているもの。

 

 使えるものだから使っているだけだ。

 

 そう言い続けてきた。

 

 だが、今はもう、その説明だけでは足りないことを知っている。

 

 高瀬は今年、ブックカバーをくれた。

 

 去年の贈り物は、本の中に挟まった。

 今年の贈り物は、本を包む。

 

 レイは、しばらく文庫とブックカバーを見比べた。

 

 そして、ゆっくりと文庫にブックカバーをかけた。

 

 サイズは合っていた。

 

 偶然だろう。

 

 高瀬は、この本の大きさを知っていたわけではない。

 

 それでも、ぴたりと収まったように見えた。

 

 本の中には、去年の栞。

 

 本の外には、今年のブックカバー。

 

 高瀬から贈られたものが、内側と外側にある。

 

 レイは、その本を両手で持った。

 

 妙な感覚だった。

 

 本を守るためのもの。

 読みかけの場所を示すもの。

 日常の中で使うもの。

 

 高瀬の贈り物は、また自分の日常の中に入ってきた。

 

 レシートや射的の景品のように、捨てられずにしまうものではない。

 栞のように、使うもの。

 ブックカバーもまた、使うもの。

 

 使ってしまうもの。

 

 手元に置くもの。

 

 そのことが、少し怖いほど自然だった。

 

 レイは本を机の上に置いた。

 

 その横に、別の資料がある。

 

 卒業後移行準備資料

 外部関係整理に関する確認事項

 

 そして、その中には高瀬悠人の名前がある。

 

 秘密保持対象者候補:高瀬悠人

 卒業後接触継続の可否:要検討

 必要措置:未定

 

 同じ高瀬悠人。

 

 だが、あまりに意味が違う。

 

 ブックカバーの中の高瀬は、自分の本を読む時間に入り込んでくる。

 

 資料の中の高瀬は、外部者として分類される。

 

 秘密保持対象者候補。

 卒業後接触継続の可否。

 必要措置。

 

 同じ名前なのに、まるで違う人間のように扱われる。

 

 レイは資料を見下ろした。

 

 今夜、高瀬は言った。

 

 「今年、俺が来てよかったのか?」

 

 何となく、見られている気がした。

 

 そう言った。

 

 レイは、その言葉を思い出して、手を止める。

 

 高瀬は気づいていた。

 

 会場の視線に。

 

 去年とは違う、確認するような視線に。

 

 誰が高瀬を見ていたのか。

 

 親族。

 関係者。

 伊集院家に近い者たち。

 

 おそらく、名前を知っている者もいた。

 

 秘密保持対象者候補。

 

 卒業後接触継続の可否。

 

 その言葉を知っている者も、あるいはいたかもしれない。

 

 高瀬は、その中に立っていた。

 

 何も知らないまま。

 

 ただ、招待された客として。

 

 そして、ブックカバーを渡してくれた。

 

 レイは唇を結んだ。

 

 「気にするな」

 

 自分はそう言った。

 

 高瀬に。

 

 だが、本当は自分が一番気にしていた。

 

 高瀬が見られていること。

 高瀬が分類されていること。

 高瀬の名前が資料に載っていること。

 それでも高瀬が、自分に贈り物を用意してきたこと。

 

 そのすべてが、胸の中で矛盾したまま残っている。

 

 倉橋に案内させて、バルコニーへ呼んだ。

 

 去年とは違う場所。

 

 会場から離れ、少しだけ二人になれる場所。

 

 あれも確認だった。

 

 そう言える。

 

 パーティ後の外部者反応確認。

 伊集院家環境下における秘密保持再確認。

 昨年度参加者の継続観察。

 

 言い訳はいくらでもある。

 

 でも、本当は。

 

 会場の視線から、高瀬を少し離したかった。

 

 そして、自分も少し離れたかった。

 

 完璧な伊集院くんから。

 

 伊集院家の年中行事から。

 

 親族や関係者の視線から。

 

 高瀬の前で、少しだけ伊集院レイに戻りたかった。

 

 そのために、バルコニーへ呼んだ。

 

 そう考えかけて、レイは目を閉じた。

 

 「……違う」

 

 声は弱かった。

 

 違わないことを、もう知っていたからだ。

 

 レイは本を手に取った。

 

 去年の栞が中にある。

 

 今年のブックカバーが外側にある。

 

 高瀬はそこまで考えて選んだのだろうか。

 

 おそらく、そこまで象徴的には考えていない。

 

 高瀬はいつもそうだ。

 

 大げさに意味を押しつけない。

 

 けれど、ちゃんと見ている。

 

 伊集院が本を読むことを覚えている。

 少女らしすぎるものは困るだろうと考える。

 高価すぎるものは違うと判断する。

 自分が受け取りやすいものを選ぶ。

 

 意味を押しつけないのに、意味のあるものを選ぶ。

 

 それが、ずるい。

 

 レイは本を胸元に引き寄せそうになって、途中で止めた。

 

 そんなことをする必要はない。

 

 これは本だ。

 これはブックカバーだ。

 これは栞だ。

 

 それ以上ではない。

 

 そう言い聞かせる。

 

 だが、指先はブックカバーの布地を離さなかった。

 

 机の上には、外部関係整理の資料がある。

 

 その資料にある高瀬は、管理すべき対象。

 

 今手にしている本にある高瀬は、自分の日常に入り込んだ記憶。

 

 どちらも同じ高瀬悠人に関するものだ。

 

 しかし、レイにとってはまったく違う。

 

 資料の中の高瀬は、遠ざけられそうになる。

 

 ブックカバーの中の高瀬は、近くに残る。

 

 その違いが、苦しかった。

 

 レイは資料を閉じた。

 

 今夜は見たくなかった。

 

 少なくとも、高瀬からもらったブックカバーを見ている横で、その資料を開きたくはなかった。

 

 「受験期における筆記具管理の補助だ」

 

 自分が高瀬へ渡したペンケースの言い訳を思い出す。

 

 記念品だ。

 

 そうも言った。

 

 去年の言葉を、今年も使った。

 

 高瀬は笑っていた。

 

 プレゼントじゃないのか、と聞いた。

 

 レイは否定した。

 

 だが、ペンケースを選んだ時、自分は何を考えていたか。

 

 去年渡したペンを、高瀬は使っている。

 

 進路希望調査にも。

 受験勉強にも。

 資料室でのメモにも。

 

 なら、そのペンを入れるものがあってもいい。

 

 受験期に役立つものがいい。

 

 高瀬の日常に置けるものがいい。

 

 そう考えて選んだ。

 

 それを、プレゼントではないと言い張るのは、かなり苦しい。

 

 高瀬は自分の本を包むものをくれた。

 

 自分は高瀬の書く道具を守るものを渡した。

 

 それは偶然ではない。

 

 レイは、そこまで考えてしまい、顔を伏せた。

 

 「……確認だ」

 

 いつもの言葉を口にする。

 

 だが、今夜のそれは、ほとんど言い訳にもならなかった。

 

 高瀬がプレゼントを用意していたことが嬉しかった。

 

 去年の栞を覚えているようなものを選んでくれたことが嬉しかった。

 

 自分も高瀬に何かを渡せたことが嬉しかった。

 

 そして、そのどれもを素直に言えない自分に、少しだけ腹が立った。

 

 レイは文庫を本棚に戻そうとして、やめた。

 

 机の上に置く。

 

 ブックカバーをかけたまま。

 

 すぐ手に取れる場所に。

 

 それから、栞の挟まったページを確認する。

 

 高瀬からもらった栞。

 

 高瀬からもらったブックカバー。

 

 二つが同じ本にある。

 

 「……使えるものだから、使うだけだ」

 

 そう呟いた。

 

 だが、その声は以前よりも小さかった。

 

 机の端に置いた資料は、まだそこにある。

 

 高瀬悠人という名前も、そこにある。

 

 けれど今夜、レイはその資料ではなく、本を見た。

 

 資料の中の高瀬ではなく、ブックカバーと栞の中にいる高瀬を見た。

 

 クリスマスの夜。

 

 伊集院家の視線の中で、高瀬は今年も来てくれた。

 

 そして、今年も用意してくれていた。

 

 そのことだけは、どれだけ確認という言葉で包んでも、消えなかった。

 

 レイは本の表紙をそっと撫でる。

 

 去年の栞は、まだ使っている。

 

 今年のブックカバーも、きっと使う。

 

 それは、確認事項ではない。

 

 記録にも残さない。

 

 けれど、伊集院レイの日常の中に、また一つ高瀬悠人の居場所が増えたことだけは、どうしても否定できなかった。

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