年が明けた。
高瀬家の正月は、特別に騒がしいわけではない。
居間ではテレビの正月番組が流れている。
テーブルの上には、年賀状が何枚かまとめて置かれている。
台所の方からは、家族の話し声が聞こえてくる。
いつもの家が、少しだけ正月らしくなっていた。
だが、高瀬悠人の机の上には参考書が開かれている。
受験生にとって、正月は完全な休みではなかった。
もちろん、少しは休む。
家族と食事もする。
初詣の話も出た。
それでも、三年生の一月であることは変わらない。
模試の結果。
過去問。
志望校。
入試日程。
机の上には、正月らしさよりも受験生らしさの方が強く残っていた。
悠人はシャープペンを置き、窓の外を見た。
今年の三月には卒業する。
その事実が、年が明けた途端に急に近くなった気がした。
去年までは、新しい年と言えば新学期だった。
また学校が始まる。
また一年が進む。
そんな感覚だった。
けれど今年は違う。
三学期が始まる。
けれど、三年生の三学期は短い。
登校日も限られる。
入試があり、卒業式があり、それで高校生活は終わる。
終わる。
その言葉を考えた時、悠人は自然と伊集院レイのことを思い出した。
資料室。
確認。
クリスマスパーティ。
バルコニー。
ペンケース。
ブックカバー。
そして、卒業後も連絡くらいは取れるんじゃないのか、と聞いた時の伊集院の顔。
今は、答えられない。
伊集院はそう言った。
悠人は、それ以上聞かなかった。
いつか答えられる時に聞く。
自分はそう返した。
その「いつか」が、年が明けたことで少し近づいたような気がした。
その時、居間の固定電話が鳴った。
悠人は顔を上げる。
家族の誰かが出るかと思ったが、近くにいた悠人の方が早かった。
受話器を取る。
「はい、高瀬です」
一拍の沈黙。
それから、聞き慣れた声がした。
「高瀬か」
「伊集院?」
「そうだ」
悠人は少し驚いた。
正月に伊集院から電話が来るとは思っていなかった。
いや、少しだけ思っていたのかもしれない。
伊集院なら、年始も何かを確認にするかもしれない。
そんな気がした。
悠人は受話器を持ち直した。
「あけましておめでとう」
電話の向こうで、伊集院が少し黙った。
「……年始における所在確認だ」
「明けましておめでとうでいいだろ」
「年始の挨拶も、所在確認に含まれる」
「便利だな、確認」
「必要な手続きだ」
いつもの調子だった。
受話器越しでも、伊集院が少しだけ真面目な顔をしているのが想像できる。
悠人は少し笑った。
「それで、所在確認の結果は?」
「高瀬悠人は、年始に自宅にいることを確認した」
「そのままだな」
「問題はない」
「そっか」
少し間が空く。
電話越しに、伊集院のいる場所の静けさが伝わってくる気がした。
伊集院邸なのだろう。
あの大きな屋敷のどこかで、伊集院は固定電話を使っているのかもしれない。
悠人はふと思い出して言った。
「ペンケース、使ってる」
また、少しだけ沈黙があった。
「当然だ。受験期における筆記具管理の補助だからな」
「去年のペン、入れてる」
今度の沈黙は、さっきより少し長かった。
「……そうか」
「うん。ちょうどよかった」
「去年のペンを紛失されては困るからな」
「困るのか?」
「確認上、継続使用されている物品の管理状態は重要だ」
「本当に何でも確認になるな」
「事実だ」
悠人は机の上を見る。
伊集院からもらったペンケースは、すでに机の端に置いてある。
中には去年もらったペンが入っている。
クリスマスの時、伊集院が渡してくれたペンケース。
受験期における筆記具管理の補助。
そう言い張っていた。
でも、悠人にはわかっている。
伊集院は、去年のペンを自分が使っていることを覚えていた。
だから、それを入れるものを選んだ。
「伊集院」
「何だ」
「ブックカバー、使えそうか?」
電話の向こうで、伊集院がまた少しだけ黙る。
「……サイズは問題なかった」
「それはよかった」
「本に使用している」
その言い方が、いかにも伊集院らしかった。
悠人は小さく笑う。
「そっか」
「何だ」
「いや。使ってくれてるならよかったと思って」
「使えるものだから使っているだけだ」
「そういうことにしておく」
「その言い方はやめろ」
いつものやり取り。
電話越しでも、資料室と同じように続いている。
そのことが、少しだけ嬉しかった。
「三学期、すぐ始まるな」
悠人が言うと、伊集院の声が少し落ち着いたものになった。
「そうだな」
「でも三年の三学期って、ほとんどないよな」
「登校日も限られる」
「卒業まで早そうだな」
その言葉の後、電話の向こうが静かになった。
悠人は、その沈黙を感じ取った。
卒業。
その言葉は、伊集院にとって軽くない。
卒業後。
渡米。
伊集院家。
連絡。
答えられないこと。
電話越しだからこそ、踏み込みすぎるべきではないと思った。
今は、正月の電話だ。
年始における所在確認。
伊集院はそう言った。
それなら、そういうことにしておく。
伊集院は少し間を置いてから言った。
「高瀬」
「何だ?」
「受験日程を確認する」
「やっぱりそれか」
「確認対象の行動予定に関わる」
「俺の受験まで確認するんだな」
「当然だ」
悠人は苦笑しながら、机の上の予定表を引き寄せた。
「一応、第一志望が二月の頭。滑り止めがその前。会場は駅から少し歩くところ」
「移動時間は」
「一時間ちょっと見てる」
「余裕を持て」
「わかってる」
「前日の睡眠は」
「寝るよ」
「曖昧だ」
「じゃあ、寝るようにする」
「体調管理は」
「風邪ひかないようにしてる」
「人混みは避けろ。無用な外出も控えた方がいい」
「これ、確認というより心配してるだろ」
「管理だ」
「今年もそれか」
「今年もそれだ」
伊集院は即答した。
悠人は思わず笑った。
年が変わっても、伊集院は伊集院だった。
確認。
管理。
必要な手続き。
言葉はいつも硬い。
でも、その奥にあるものは、以前よりわかるようになっている。
「不必要な無理はするな」
伊集院が言った。
「それ、応援?」
「体調管理上の注意だ」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
「でも、ありがとな」
電話の向こうで、伊集院が黙った。
「礼を言われる内容ではない」
「でも、助かる」
「……そうか」
伊集院の声は、少しだけ小さかった。
悠人は予定表に目を落とす。
二月。
入試。
三月。
卒業。
その先は、まだ空白が多い。
「伊集院は、年明けも忙しいのか?」
少しだけ聞いた。
伊集院はすぐには答えなかった。
「家の予定と、卒業後の準備がある」
「そっか」
「……今は、それ以上話す必要はない」
その言葉には、いつもの強さがあまりなかった。
悠人は受話器を持ったまま、少しだけ間を置いた。
「じゃあ、話せる時に聞く」
電話の向こうが静かになる。
資料室で言った言葉。
いつか答えられる時に聞く。
それと同じ意味だった。
悠人は、伊集院が答えられないことを責めるつもりはなかった。
でも、忘れたふりをするつもりもなかった。
聞く。
いつか。
伊集院が答えられる時に。
「高瀬」
「何だ?」
「君は、時々本当に扱いづらい」
「正月からそれか」
「年始における評価だ」
「評価か」
「そうだ」
「褒めてる?」
「褒めていない」
「だと思った」
少しだけ空気が緩んだ。
電話越しでも、伊集院がわずかに息を吐いたように感じた。
「受験前に確認が必要な場合は、連絡する」
「固定電話で?」
「状況による」
「学校でカードでもいいけど、登校日少なくなるしな」
「方法は検討する」
「相変わらずだな」
「当然だ」
悠人は受話器を握り直した。
「あらためて、明けましておめでとう、伊集院」
伊集院は一瞬黙った。
今度は、年始における所在確認だとは言わなかった。
「……あけましておめでとう、高瀬」
その言葉は、少しだけぎこちなかった。
けれど、確かに新年の挨拶だった。
「今年もよろしく」
悠人が言うと、伊集院はまたわずかに間を置いた。
「確認が必要な限りはな」
「そこは普通によろしくでいいだろ」
「必要な言い回しだ」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
いつものやり取りで、電話は終わった。
受話器を置く。
居間のテレビの音が戻ってくる。
家族の声。
正月番組の笑い声。
台所から聞こえる食器の音。
さっきまで伊集院の声があった場所に、普通の正月が戻ってきた。
悠人は机へ戻った。
ペンケースを開ける。
中には、去年伊集院からもらったペンが入っている。
黒く、落ち着いたデザインのペン。
クリスマスにもらったペンケースに、去年のペンを入れている。
それだけのことなのに、何かが続いているように感じた。
悠人はペンを取り出し、予定表を開く。
今年最初に書く予定は、受験日だった。
二月の入試日。
会場。
集合時間。
前日の準備。
ペン先が紙に触れる。
年が明けた。
卒業は近い。
入試も近い。
それでも、伊集院からの確認は続いている。
直接会わなくても、電話一本でそれがわかった。
高瀬悠人は、予定表に入試の日付を書き込んだ。
その横に、小さく余白がある。
そこに何を書くか、少しだけ迷う。
確認。
そう書きかけて、やめた。
まだ、次の確認日は決まっていない。
それでも、きっとまた何かの形で連絡が来るのだろう。
年始における所在確認。
伊集院はそう言った。
けれど悠人には、それがただの確認ではなかったことくらい、もうわかっていた。