一月の終わりが近づくと、学校の空気は少しずつ薄くなっていった。
三年生の教室にいる人数が、日によって違う。
推薦で進路が決まった生徒。
一般入試を控えている生徒。
補習に出る生徒。
自宅学習に入る生徒。
同じ教室にいても、全員が同じ方向を向いているわけではなかった。
高瀬悠人も、その中の一人だった。
机の上には、過去問。
ノート。
単語帳。
受験票のコピー。
試験会場までの経路を書いたメモ。
三年生の二学期までは、まだ少し先のことのように思えていた入試が、今はもう目の前にある。
「高瀬、緊張してる?」
友人が声をかけてきた。
悠人はノートから顔を上げる。
「少し」
「少しで済むのかよ」
「かなり、って言った方がいいか?」
「その方が普通っぽい」
「じゃあ、かなり」
「適当だな」
友人は笑った。
悠人も少し笑ったが、完全に気が抜けたわけではない。
緊張していないと言えば嘘になる。
進路希望調査を書き直した時、自分の進路は自分で決めると思った。
その気持ちは今も変わらない。
地元か近隣の大学。
家から通える場所。
現実的な選択。
伊集院レイのために選んだ進路ではない。
自分の生活、自分の将来、自分の力で進むための選択だ。
だからこそ、ちゃんと結果を出したかった。
放課後。
自分の机の中を確認すると、白いカードが入っていた。
放課後、資料室へ。
受験前体調管理確認。
伊集院レイ
悠人はカードを見て、少しだけ肩の力が抜けた。
「体調管理確認、か」
いかにも伊集院らしい。
受験前に呼び出す理由としては、かなり自然だった。
自然すぎて、逆に少し笑ってしまう。
旧校舎へ向かう。
冬の旧校舎は、いつもより静かだった。
廊下には冷たい空気が残っている。
窓の外の光も弱い。
それでも資料室の前に立つと、そこだけはいつもの場所のように思えた。
扉を叩く。
「入れ」
悠人は扉を開けた。
伊集院は、いつもの席に座っていた。
机の上には確認用の紙。
小さな水筒。
それから、個包装のビスケットが二つ。
悠人は椅子に座る前に、それを見る。
「今日は受験前体調管理確認に、糖分補給付きか」
「長時間の確認ではないが、試験前の集中力維持は重要だ」
「つまり、お茶会ではない」
伊集院の眉が動いた。
「当然だ」
「まだ気にしてるのか?」
「気にしていない」
「そうか」
「遅い」
「今さら?」
「言っていなかったからな」
「時間通りだ」
「私より後に来た」
「受験前でもそれなんだな」
「当然だ」
いつものやり取りだった。
それだけで、少しだけ気持ちが落ち着く。
悠人は椅子に座った。
伊集院は紙を一枚取る。
「受験日程を再確認する」
「年明けにも電話で確認しただろ」
「直前確認だ。変更がないか把握する必要がある」
「変更はないよ。第一志望が来週。会場は前に言ったところ」
「移動経路は」
「確認済み」
「所要時間は」
「一時間ちょっと。余裕を見て早めに出る」
「前日の就寝予定は」
「早く寝る」
「具体性が足りない」
「十時半」
「遅くとも十一時までには寝ろ」
「はい」
「体調は」
「今のところ問題なし」
「無用な外出は」
「控えてる」
「食事は」
「普通に食べてる」
「普通という表現は曖昧だ」
「三食食べてる」
「よろしい」
悠人は苦笑した。
「これ、本当に体調管理確認だな」
「そう言ったはずだ」
「心配してるわけじゃないんだ」
伊集院は紙から目を上げた。
「確認対象の状態管理だ」
「管理か」
「そうだ」
「じゃあ、ありがたく管理されておく」
「妙な言い方をするな」
伊集院は不満そうに言った。
だが、いつものような強さは少し薄い。
本当に心配しているのだろう。
そう思っても、悠人は口には出さなかった。
言えば伊集院は否定する。
それはもうわかっている。
悠人は鞄を開けた。
中からペンケースを取り出す。
クリスマスに伊集院からもらったものだった。
落ち着いた色で、派手ではなく、使いやすい。
中には、去年のクリスマスにもらったペンが入っている。
悠人はそれを机の上に置いた。
「これ、ちゃんと使ってる」
伊集院の視線が、ペンケースへ向いた。
ほんの少しだけ、動きが止まる。
「見ればわかる」
「去年のペンも入れてる」
「筆記具の管理状態が良好で何よりだ」
「評価は?」
「適切だ」
「褒めてる?」
「評価だ」
「だと思った」
悠人はペンケースを軽く開け、ペンを取り出した。
「受験当日もこれ持っていくつもり」
伊集院は目を伏せた。
「使い慣れた筆記具を用いるのは妥当だ」
「うん」
「ただし、予備も用意しろ」
「してる」
「消しゴムは」
「二つ」
「受験票は」
「鞄に入れた」
「当日朝、再確認しろ」
「わかってる」
「時計は」
「持っていく」
「会場で焦らないためには、事前準備が重要だ」
「伊集院」
「何だ」
「本当に心配してるだろ」
伊集院は一瞬だけ黙った。
「受験前の確認対象に不備があれば、確認体制に影響する」
「何の確認体制だよ」
「卒業までの確認体制だ」
「卒業まで、か」
その言葉で、少しだけ空気が変わった。
卒業まで。
もう、その言葉は遠くない。
伊集院もそれに気づいたのだろう。
視線をわずかに逸らした。
悠人はそれ以上触れなかった。
今は受験前の話でいい。
伊集院が自分なりに励まそうとしている。
そのことを、受け取ればいい。
「伊集院は、受験とかないのか?」
悠人が聞くと、伊集院は少しだけ考えた。
「通常の意味での受験とは違う」
「家の予定?」
「そうだ。進路というより、卒業後の準備に近い」
「そっか」
「今は、君の受験の確認が優先だ」
「俺の?」
「そうだ」
伊集院はまっすぐに悠人を見た。
「高瀬。君は、自分の進路を自分で決めた」
悠人は少し驚いた。
「急に何だよ」
「確認だ」
「それも確認なのか」
「重要事項だ」
伊集院は、静かに続ける。
「家から通える。学費が現実的。地元で学びながら将来を考える。君はそう整理した」
「うん」
「なら、その進路に向けて、普段通りに解答すればよい」
悠人は、すぐには返事をしなかった。
伊集院の言葉は、いつものように少し硬い。
けれど、意味はわかった。
頑張れ。
そう言えない代わりに、伊集院はそう言っている。
普段通りに解答すればよい。
それは、彼女なりの励ましだった。
「……ありがとな」
悠人が言うと、伊集院は少しだけ目を伏せた。
「礼を言われる内容ではない」
「でも、助かる」
「私は事実を述べただけだ」
「そういうことにしておく」
「その言い方はやめろ」
少しだけ、いつもの空気が戻った。
悠人はペンを手に取る。
このペンで、進路希望調査を書いた。
このペンケースに入れて、受験会場へ持っていく。
伊集院からもらったものを、自分の受験に使う。
それは、依存ではない。
伊集院に代わりに進路を決めてもらうわけでもない。
試験を受けるのは自分だ。
答えを書くのも自分だ。
結果を受け止めるのも自分だ。
それでも、その道具を持っていくことが、自分を少し落ち着かせてくれる気がした。
「伊集院」
「何だ」
「ちゃんと受けてくる」
伊集院は少しだけ目を見開いた。
それから、静かに頷いた。
「当然だ」
「そこは普通に頑張れでいいだろ」
「……不必要な無理はするな」
「それ、前にも聞いた」
「必要なことだから何度でも言う」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
悠人は笑った。
ビスケットを一つ手に取る。
「これ、もらっていい?」
「そのために置いた」
「糖分補給?」
「そうだ」
「受験前の?」
「当然だ」
「じゃあ、ありがたく」
悠人はビスケットを鞄に入れた。
伊集院はそれを見て、小さく言う。
「試験当日に持っていくなら、鞄の中で潰れないようにしろ」
「そこまで管理するのか」
「当然だ」
「本当に心配性だな」
「管理だ」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
確認は、短かった。
けれど、十分だった。
悠人は立ち上がる。
「じゃあ、今日は帰る」
「早く帰れ。試験前に無駄な寄り道をするな」
「わかった」
「前日は早く寝ろ」
「わかった」
「当日は余裕を持って出ろ」
「わかってる」
「忘れ物は」
「しない」
「再確認しろ」
「する」
伊集院はそこで少しだけ黙った。
そして、最後に言った。
「普段通りでいい」
悠人は、もう一度その言葉を受け取った。
「うん」
それだけ答えた。
資料室を出る。
旧校舎の廊下は寒い。
けれど、入る前より少しだけ気持ちは軽かった。
受験は近い。
卒業も近い。
伊集院との関係がこの先どうなるのかも、まだわからない。
けれど今、自分がやるべきことははっきりしている。
自分の進路を、自分で進むこと。
悠人は鞄の中のペンケースに手を触れた。
伊集院からもらったペン。
今年もらったペンケース。
そして、受験前の糖分補給だと言い張って渡されたビスケット。
どれも伊集院らしい。
言葉は硬い。
建前も多い。
素直ではない。
それでも、励まされた。
高瀬悠人はそう感じていた。
教室へ戻る途中、窓の外に冬の空が見えた。
入試まで、あと少し。
悠人は小さく息を吐き、階段を下りた。
普段通りに解答すればよい。
伊集院の声が、まだ耳に残っていた。