高瀬悠人が資料室を出ていった後、伊集院レイはしばらく机の上の確認記録を見ていた。
受験前体調管理確認。
そう書かれた紙には、必要事項が整然と並んでいる。
受験日程。
試験会場。
移動経路。
所要時間。
前日の就寝予定。
体調。
食事。
筆記具。
受験票。
時計。
予備の消しゴム。
どれも必要な確認だった。
三年生の一月下旬。
受験前に確認対象の状態を把握することは、秘密保持上も、今後の行動予定管理上も、十分に意味がある。
高瀬の進路が滞れば、卒業後の予定にも影響する。
卒業後の予定に影響すれば、確認体制にも影響する。
したがって、受験前の体調管理確認は必要だった。
そう説明できる。
いくらでも説明できる。
レイはペンを持ち、記録の末尾に一文を書き加えた。
結果:受験前準備に重大な不備なし。筆記具管理状態も良好。
そこまで書いて、手が止まる。
筆記具管理状態も良好。
高瀬は、ペンケースを使っていた。
クリスマスに自分が渡したもの。
その中に、去年渡したペンを入れていた。
受験当日も、それを持っていくつもりだと言った。
使い慣れた筆記具を使うのは妥当だ。
予備の筆記具も必要だ。
消しゴムは二つ。
時計も持っていく。
受験票は鞄に入れた。
当日朝に再確認する。
すべて確認済みだ。
問題はない。
なのに、胸の奥が落ち着かない。
レイは小さく息を吐いた。
高瀬の受験が近い。
それは当たり前のことだった。
三年生なのだから。
進路を決めたのだから。
高瀬自身が選んだ道なのだから。
自分がどうにかできることではない。
代わりに試験を受けることはできない。
問題を解くこともできない。
結果を保証することもできない。
高瀬が自分で決めた進路を、高瀬自身が進む。
それは正しい。
むしろ、そうでなければならない。
だからレイにできることは、確認だけだった。
体調管理。
筆記具管理。
移動経路確認。
就寝時間の確認。
糖分補給。
それだけだ。
それだけのはずだった。
だが、資料室で高瀬が言った言葉が残っている。
――ちゃんと受けてくる。
その時、何かを言うべきだった。
レイは、そう思った。
頑張れ。
たった四文字。
普通の言葉だ。
同級生同士なら、何気なく言える言葉だ。
受験前なら、なおさら自然だろう。
だが、レイは言えなかった。
言えば、確認ではなくなる気がした。
確認対象への管理ではなく、高瀬悠人という一人の人間を応援していることになる。
いや、すでにそうなのかもしれない。
レイは、その考えをすぐに押し戻した。
違う。
確認対象の進路が滞ると、今後の確認体制に影響する。
高瀬が予定している大学へ進めなければ、卒業後の行動範囲が変わる。
行動範囲が変われば、連絡手段や接触可能性にも影響する。
伊集院家側の資料にも、何らかの修正が必要になるかもしれない。
だから、高瀬の受験が予定通り進むことは重要だ。
頑張れ、ではない。
普段通りに解答すればよい。
そう言った。
それなら、まだ確認として成立する。
励ましではない。
事実の提示だ。
高瀬が普段通りに解答できれば、問題はないはずだ。
そういう意味だ。
レイは確認記録を見下ろした。
しかし、その紙の上に「頑張れ」とは書けなかった。
書く必要もない。
確認記録に感情を書くものではない。
レイはペンを置き、ビスケットの袋が入っていた小さな紙袋を見た。
高瀬に持たせた残りだった。
試験当日に持っていくなら、鞄の中で潰れないようにしろ。
自分はそう言った。
あまりに細かい。
言ってから、少しだけ自分でもそう思った。
けれど、本当にそう思ったのだから仕方ない。
潰れたビスケットでは食べにくい。
試験前に手が汚れる可能性もある。
気分転換の効果も落ちる。
糖分補給の目的が十分に果たせない。
合理的な指摘だ。
決して、試験当日の高瀬が少しでも落ち着けるように、などと考えたわけではない。
レイはそこで目を伏せた。
考えていた。
たぶん、自分は考えていた。
試験会場へ向かう高瀬を。
朝、受験票を確認する高瀬を。
ペンケースを開ける高瀬を。
去年のペンを取り出す高瀬を。
試験前に少しだけ緊張している高瀬を。
そして、普段通りに問題へ向かう高瀬を。
そこに、自分は同行できない。
確認対象の横に立つことはできない。
資料室でなら、いくらでも確認できる。
電話なら、いくらでも注意事項を並べられる。
だが、試験会場の席に座るのは高瀬だ。
解答用紙に向かうのも高瀬だ。
だから、本当は一言でよかったのかもしれない。
頑張れ。
でも、言えなかった。
「……不必要な無理はするな」
レイは、資料室で言った自分の言葉を小さく繰り返した。
それが限界だった。
応援の代わり。
頑張れの代わり。
素直ではない、遠回りな言葉。
高瀬は、それでも受け取った。
ありがとな。
そう言った。
礼を言われる内容ではない、と返した。
でも、助かる、と高瀬は言った。
レイは、その時少し言葉に詰まった。
助かる。
その一言だけで、自分の不器用な確認が、ただの管理ではなかったことを見抜かれたような気がした。
レイは机の上の確認記録を閉じた。
だが、すぐには立ち上がらなかった。
高瀬は、自分の進路を自分で決めた。
それは、レイにとって少し眩しいことだった。
家から通える。
学費が現実的。
地元で学びながら将来を考える。
高瀬らしい、堅実な理由。
伊集院家のしきたりでもなく、親族の意向でもなく、後継者としての印象操作でもない。
高瀬自身の現実から出た選択。
その道を進む高瀬を、レイは止めたいわけではない。
むしろ、進んでほしいと思っている。
ちゃんと受けてほしい。
ちゃんと実力を出してほしい。
ちゃんと、自分で選んだ場所へ進んでほしい。
その願いを何と呼ぶのか。
確認ではない。
管理でもない。
では何か。
レイは考えそうになって、やめた。
名前をつける必要はない。
今は、高瀬の受験が無事に終わればよい。
それだけでいい。
レイは確認記録の余白に、もう一文を書き加えようとした。
試験当日、普段通りに解答すればよい。
そこまで書いて、止める。
これは記録ではない。
本人に言った言葉だ。
紙に書く必要はない。
レイはペンを戻した。
その代わり、別の紙を取り出す。
次回確認予定。
試験後。
受験終了後の状態確認。
体調確認。
試験会場からの帰宅確認。
筆記具の使用状況確認。
理由はいくらでもある。
試験が終わった後、高瀬を呼び出す理由。
いや、呼び出す必要。
レイはそこで、少しだけ自分に呆れた。
試験が終わった高瀬に、まず何を聞きたいのか。
受験票を忘れなかったか。
ペンは使えたか。
体調は崩さなかったか。
試験はどうだったか。
そして、たぶん。
終わった、と高瀬の口から聞きたい。
それだけなのだろう。
レイは目を閉じた。
「……確認だ」
いつもの言葉を口にする。
だが、その声はとても小さかった。
机の上には、高瀬の受験日程が書かれた記録がある。
その先には、卒業がある。
卒業後がある。
伊集院家の資料がある。
高瀬の名前が載った、外部関係整理の資料がある。
そこへ向かう前に、高瀬はまず受験を終えなければならない。
高瀬自身の人生のために。
レイはそのことを、はっきりとわかっていた。
だから今は、言えなかった言葉を胸の中だけで繰り返す。
頑張れ。
高瀬。
声には出さない。
確認記録にも書かない。
誰にも聞かせない。
けれど、その言葉だけは、確かにそこにあった。
伊集院レイは、閉じた確認記録の上にそっと手を置いた。
そして、最後にもう一度だけ、自分に言い聞かせるように呟いた。
「普段通りに解答すればよい」
それは確認だった。
管理だった。
体調管理上の注意だった。
そういうことにしておく。
けれど本当は、伊集院レイなりの、不器用な応援だった。