伊集院レイは、伝説の木の下で少女になる   作:エーアイ

46 / 60
幕間:伊集院レイは、頑張れと言えない

 高瀬悠人が資料室を出ていった後、伊集院レイはしばらく机の上の確認記録を見ていた。

 

 受験前体調管理確認。

 

 そう書かれた紙には、必要事項が整然と並んでいる。

 

 受験日程。

 試験会場。

 移動経路。

 所要時間。

 前日の就寝予定。

 体調。

 食事。

 筆記具。

 受験票。

 時計。

 予備の消しゴム。

 

 どれも必要な確認だった。

 

 三年生の一月下旬。

 

 受験前に確認対象の状態を把握することは、秘密保持上も、今後の行動予定管理上も、十分に意味がある。

 

 高瀬の進路が滞れば、卒業後の予定にも影響する。

 卒業後の予定に影響すれば、確認体制にも影響する。

 したがって、受験前の体調管理確認は必要だった。

 

 そう説明できる。

 

 いくらでも説明できる。

 

 レイはペンを持ち、記録の末尾に一文を書き加えた。

 

 結果:受験前準備に重大な不備なし。筆記具管理状態も良好。

 

 そこまで書いて、手が止まる。

 

 筆記具管理状態も良好。

 

 高瀬は、ペンケースを使っていた。

 

 クリスマスに自分が渡したもの。

 

 その中に、去年渡したペンを入れていた。

 

 受験当日も、それを持っていくつもりだと言った。

 

 使い慣れた筆記具を使うのは妥当だ。

 

 予備の筆記具も必要だ。

 

 消しゴムは二つ。

 時計も持っていく。

 受験票は鞄に入れた。

 当日朝に再確認する。

 

 すべて確認済みだ。

 

 問題はない。

 

 なのに、胸の奥が落ち着かない。

 

 レイは小さく息を吐いた。

 

 高瀬の受験が近い。

 

 それは当たり前のことだった。

 

 三年生なのだから。

 進路を決めたのだから。

 高瀬自身が選んだ道なのだから。

 

 自分がどうにかできることではない。

 

 代わりに試験を受けることはできない。

 問題を解くこともできない。

 結果を保証することもできない。

 

 高瀬が自分で決めた進路を、高瀬自身が進む。

 

 それは正しい。

 

 むしろ、そうでなければならない。

 

 だからレイにできることは、確認だけだった。

 

 体調管理。

 筆記具管理。

 移動経路確認。

 就寝時間の確認。

 糖分補給。

 

 それだけだ。

 

 それだけのはずだった。

 

 だが、資料室で高瀬が言った言葉が残っている。

 

 ――ちゃんと受けてくる。

 

 その時、何かを言うべきだった。

 

 レイは、そう思った。

 

 頑張れ。

 

 たった四文字。

 

 普通の言葉だ。

 

 同級生同士なら、何気なく言える言葉だ。

 

 受験前なら、なおさら自然だろう。

 

 だが、レイは言えなかった。

 

 言えば、確認ではなくなる気がした。

 

 確認対象への管理ではなく、高瀬悠人という一人の人間を応援していることになる。

 

 いや、すでにそうなのかもしれない。

 

 レイは、その考えをすぐに押し戻した。

 

 違う。

 

 確認対象の進路が滞ると、今後の確認体制に影響する。

 

 高瀬が予定している大学へ進めなければ、卒業後の行動範囲が変わる。

 行動範囲が変われば、連絡手段や接触可能性にも影響する。

 伊集院家側の資料にも、何らかの修正が必要になるかもしれない。

 

 だから、高瀬の受験が予定通り進むことは重要だ。

 

 頑張れ、ではない。

 

 普段通りに解答すればよい。

 

 そう言った。

 

 それなら、まだ確認として成立する。

 

 励ましではない。

 事実の提示だ。

 高瀬が普段通りに解答できれば、問題はないはずだ。

 

 そういう意味だ。

 

 レイは確認記録を見下ろした。

 

 しかし、その紙の上に「頑張れ」とは書けなかった。

 

 書く必要もない。

 

 確認記録に感情を書くものではない。

 

 レイはペンを置き、ビスケットの袋が入っていた小さな紙袋を見た。

 

 高瀬に持たせた残りだった。

 

 試験当日に持っていくなら、鞄の中で潰れないようにしろ。

 

 自分はそう言った。

 

 あまりに細かい。

 

 言ってから、少しだけ自分でもそう思った。

 

 けれど、本当にそう思ったのだから仕方ない。

 

 潰れたビスケットでは食べにくい。

 試験前に手が汚れる可能性もある。

 気分転換の効果も落ちる。

 糖分補給の目的が十分に果たせない。

 

 合理的な指摘だ。

 

 決して、試験当日の高瀬が少しでも落ち着けるように、などと考えたわけではない。

 

 レイはそこで目を伏せた。

 

 考えていた。

 

 たぶん、自分は考えていた。

 

 試験会場へ向かう高瀬を。

 

 朝、受験票を確認する高瀬を。

 ペンケースを開ける高瀬を。

 去年のペンを取り出す高瀬を。

 試験前に少しだけ緊張している高瀬を。

 そして、普段通りに問題へ向かう高瀬を。

 

 そこに、自分は同行できない。

 

 確認対象の横に立つことはできない。

 

 資料室でなら、いくらでも確認できる。

 電話なら、いくらでも注意事項を並べられる。

 

 だが、試験会場の席に座るのは高瀬だ。

 

 解答用紙に向かうのも高瀬だ。

 

 だから、本当は一言でよかったのかもしれない。

 

 頑張れ。

 

 でも、言えなかった。

 

 「……不必要な無理はするな」

 

 レイは、資料室で言った自分の言葉を小さく繰り返した。

 

 それが限界だった。

 

 応援の代わり。

 

 頑張れの代わり。

 

 素直ではない、遠回りな言葉。

 

 高瀬は、それでも受け取った。

 

 ありがとな。

 

 そう言った。

 

 礼を言われる内容ではない、と返した。

 

 でも、助かる、と高瀬は言った。

 

 レイは、その時少し言葉に詰まった。

 

 助かる。

 

 その一言だけで、自分の不器用な確認が、ただの管理ではなかったことを見抜かれたような気がした。

 

 レイは机の上の確認記録を閉じた。

 

 だが、すぐには立ち上がらなかった。

 

 高瀬は、自分の進路を自分で決めた。

 

 それは、レイにとって少し眩しいことだった。

 

 家から通える。

 学費が現実的。

 地元で学びながら将来を考える。

 

 高瀬らしい、堅実な理由。

 

 伊集院家のしきたりでもなく、親族の意向でもなく、後継者としての印象操作でもない。

 

 高瀬自身の現実から出た選択。

 

 その道を進む高瀬を、レイは止めたいわけではない。

 

 むしろ、進んでほしいと思っている。

 

 ちゃんと受けてほしい。

 ちゃんと実力を出してほしい。

 ちゃんと、自分で選んだ場所へ進んでほしい。

 

 その願いを何と呼ぶのか。

 

 確認ではない。

 

 管理でもない。

 

 では何か。

 

 レイは考えそうになって、やめた。

 

 名前をつける必要はない。

 

 今は、高瀬の受験が無事に終わればよい。

 

 それだけでいい。

 

 レイは確認記録の余白に、もう一文を書き加えようとした。

 

 試験当日、普段通りに解答すればよい。

 

 そこまで書いて、止める。

 

 これは記録ではない。

 

 本人に言った言葉だ。

 

 紙に書く必要はない。

 

 レイはペンを戻した。

 

 その代わり、別の紙を取り出す。

 

 次回確認予定。

 

 試験後。

 

 受験終了後の状態確認。

 体調確認。

 試験会場からの帰宅確認。

 筆記具の使用状況確認。

 

 理由はいくらでもある。

 

 試験が終わった後、高瀬を呼び出す理由。

 

 いや、呼び出す必要。

 

 レイはそこで、少しだけ自分に呆れた。

 

 試験が終わった高瀬に、まず何を聞きたいのか。

 

 受験票を忘れなかったか。

 ペンは使えたか。

 体調は崩さなかったか。

 試験はどうだったか。

 

 そして、たぶん。

 

 終わった、と高瀬の口から聞きたい。

 

 それだけなのだろう。

 

 レイは目を閉じた。

 

 「……確認だ」

 

 いつもの言葉を口にする。

 

 だが、その声はとても小さかった。

 

 机の上には、高瀬の受験日程が書かれた記録がある。

 

 その先には、卒業がある。

 卒業後がある。

 伊集院家の資料がある。

 高瀬の名前が載った、外部関係整理の資料がある。

 

 そこへ向かう前に、高瀬はまず受験を終えなければならない。

 

 高瀬自身の人生のために。

 

 レイはそのことを、はっきりとわかっていた。

 

 だから今は、言えなかった言葉を胸の中だけで繰り返す。

 

 頑張れ。

 

 高瀬。

 

 声には出さない。

 

 確認記録にも書かない。

 

 誰にも聞かせない。

 

 けれど、その言葉だけは、確かにそこにあった。

 

 伊集院レイは、閉じた確認記録の上にそっと手を置いた。

 

 そして、最後にもう一度だけ、自分に言い聞かせるように呟いた。

 

 「普段通りに解答すればよい」

 

 それは確認だった。

 

 管理だった。

 

 体調管理上の注意だった。

 

 そういうことにしておく。

 

 けれど本当は、伊集院レイなりの、不器用な応援だった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。