二月の学校は、どこか落ち着かなかった。
受験の空気が濃くなっている。
三年生の教室には、登校している生徒と自宅学習に入っている生徒が混じり、日によって席の埋まり方も違う。
廊下には進路関係の掲示が残り、職員室前では最後の相談をしている生徒もいる。
それでも、その日だけは少し違った。
バレンタイン。
下級生たちの廊下は特に騒がしい。
女子生徒たちは紙袋や小さな箱を持ち歩き、教室の隅では誰かが誰かに包みを渡している。
男子生徒たちは、気にしていないふりをしながら、明らかに気にしていた。
高瀬悠人は、教室の窓際で参考書を閉じた。
受験はまだ完全には終わっていない。
入試日程の途中で、落ち着かない時期だった。
けれど、学校の空気はバレンタインの色に染まっている。
「高瀬、今日なんかもらった?」
友人が聞いてきた。
「いや」
「即答か」
「もらう予定ないし」
「去年もそんなこと言ってなかったか?」
悠人は少しだけ言葉に詰まった。
去年。
資料室。
伊集院が、糖分補給と言い張ってチョコを渡した日。
悠人は、その時のことを覚えていた。
伊集院はなかなか渡せず、確認だと言い張り、最後に「糖分補給」「確認協力への補助」と言って差し出した。
自分は茶化さず礼を言った。
あれは、伊集院くんが女子生徒たちからもらっていたチョコとは違うものだった。
そう感じたことも覚えている。
「高瀬?」
友人に呼ばれ、悠人は軽く首を振った。
「いや、何でもない」
「怪しいな」
「怪しくない」
「また知り合いか?」
「何がだよ」
「お前の周り、何でも知り合いで済ませるからな」
悠人は返答に困り、参考書を鞄にしまった。
廊下へ出ると、少し先がざわついていた。
伊集院くんがいた。
女子生徒たちに囲まれている。
それ自体は、去年も見た光景だった。
けれど今年は、少し空気が違う。
三年生の卒業が近い。
伊集院くんに直接チョコを渡せる機会は、もう最後かもしれない。
そういう熱が、女子生徒たちの表情に混じっている。
「伊集院様、受け取ってください」
「卒業前に、どうしても」
「ご迷惑でなければ」
伊集院くんは、完璧に対応していた。
礼を言い、必要以上に近づかず、相手の気持ちを傷つけない距離で受け取る。
その姿は、相変わらず隙がない。
悠人は少し離れた場所から見ていた。
去年は、その光景に少し複雑な気持ちになった。
今年も、ないわけではない。
けれど、去年と同じではなかった。
女子生徒たちが見ている伊集院くんと、資料室で「お茶会ではない」と言い張る伊集院レイ。
バルコニーでブックカバーを受け取り、去年の栞を使っていると漏らした伊集院レイ。
受験前に、普段通りに解答すればよいと言った伊集院レイ。
それらが、悠人の中ではもう別々ではなかった。
同じ人だ。
だから、周囲から見える伊集院くんの完璧さが、少しだけ遠く見えて、同時に少しだけ近くも見えた。
伊集院が一瞬、こちらを見た。
目が合う。
すぐに逸らされた。
何か言いたそうにも見えたが、女子生徒たちの前でそれを出すことはない。
悠人も何も言わなかった。
放課後。
机の中に、白いカードが入っていた。
放課後、資料室へ。
受験期間中の糖分補給確認。
伊集院レイ
悠人はカードを見て、少し笑いそうになった。
糖分補給確認。
去年より、言い訳が雑になっているような気もする。
いや、伊集院としては極めて真面目なのだろう。
悠人はカードを鞄にしまい、旧校舎へ向かった。
資料室の扉を叩く。
「入れ」
いつもの声だった。
悠人は扉を開ける。
伊集院は窓際の席に座っていた。
机の上には確認用の紙。
筆記具。
そして、小さな箱が一つ。
箱は落ち着いた包装だった。
派手すぎない。
けれど、明らかに普段の糖分補給用菓子よりは丁寧だった。
悠人は椅子に座る。
「遅い」
「時間通りだ」
「私より後に来た」
「バレンタインでもそれなんだな」
「当然だ」
伊集院は平然としているように見えた。
だが、悠人にはわかった。
少しだけ落ち着きがない。
視線が箱の方へ行きかけては戻る。
去年もそうだった。
いや、去年よりは自然に見せようとしている。
でも、その分だけ余計にわかりやすい。
伊集院は確認用の紙を手に取った。
「受験期間中における糖分補給について確認する」
「今日はそれなんだ」
「試験前後は集中力の消耗が大きい。適切な糖分補給は重要だ」
「バレンタインだからじゃなくて?」
伊集院の視線が鋭くなる。
「偶然、時期が重なっただけだ」
「本当に?」
「当然だ」
「去年もそう言ってたな」
伊集院の手が止まった。
「……覚えているのか」
「覚えてるよ」
短く答えた。
伊集院は、一瞬だけ言葉を探すように黙った。
「覚えている必要は――」
そこまで言って、止まる。
必要はない。
そう言おうとしたのだろう。
けれど、言えなかった。
悠人は、それを聞き逃さなかった。
「覚えてるよ」
もう一度、静かに言った。
「去年のも、美味かったし」
伊集院は目を逸らした。
「味の確認は不要だ」
「今年のも確認する」
「……好きにしろ」
その声は、少しだけ弱かった。
伊集院は箱を悠人の方へ押し出した。
「糖分補給だ」
「うん」
「受験期の糖分補給用だ。一度に食べる必要はない」
悠人は箱を受け取る。
開けると、中には小さな個包装のチョコレートがいくつも入っていた。
一つずつ食べやすい大きさ。
手が汚れにくそうで、包装も開けやすい。
受験勉強の合間に食べるにはちょうどよさそうだった。
だが、包装はきちんとバレンタインらしい。
実用的でありながら、ただの菓子ではない。
伊集院らしい選び方だった。
「去年より多くないか?」
「試験期間中は消費が増える」
「消費って」
「集中力維持には糖分が必要だ。試験前日や当日の朝に一度に摂取しすぎるのは好ましくない。必要な時に少量ずつ使う方がよい」
「それ、ずいぶん考えてくれたんだな」
「必要な計算だ」
「伊集院らしいな」
「どういう意味だ」
「ちゃんと俺のこと考えて選んでくれたって意味」
伊集院は固まった。
「……誤認だ」
「そうか?」
「確認対象の状態管理だ」
「そっか」
悠人はそれ以上追及しなかった。
伊集院が言い訳できる余地を、残しておきたかった。
でも、受け取る側としてはわかっている。
これはただの糖分補給ではない。
去年と同じ言葉を使っていても、去年とは少し違う。
去年のチョコは、バレンタイン当日に渡すためのものだった。
今年のチョコは、受験期間を通して食べられるように選ばれている。
伊集院は、悠人の受験を考えていた。
どのタイミングで食べるか。
食べやすいか。
集中力の邪魔にならないか。
手が汚れないか。
一度に食べなくていいか。
それらを考えたうえで、チョコを選んだ。
それを「必要な計算」と呼ぶのが、伊集院らしかった。
「一度に食べるな」
伊集院が言った。
「わかった」
「試験前日は食べすぎるな」
「わかった」
「当日の朝に初めて食べるのは避けろ。体調への影響が読めない」
「そこまで?」
「当然だ」
「じゃあ、今日一つ食べて確認しておく」
伊集院の眉が動いた。
「今か」
「味の確認」
「味の確認は不要だと言った」
「俺には必要」
悠人は個包装を一つ取り出した。
伊集院は何か言いたげだったが、止めなかった。
悠人は包装を開け、チョコを一つ口に入れる。
甘すぎない。
でも、ちゃんと甘い。
疲れた頭に少し染みるような味だった。
「美味い」
伊集院は視線を逸らした。
「……そうか」
「去年のも美味かったけど、今年のは勉強中に食べやすそうだな」
「当然だ。そのために選んだ」
言ってから、伊集院はわずかに表情を変えた。
そのために選んだ。
自分で言ってしまったことに気づいたのだろう。
悠人は気づいたが、指摘しなかった。
「助かる」
素直に言った。
伊集院は少しだけ黙る。
「礼を言われる内容ではない」
「でも、助かる」
「……なら、適切に使用しろ」
「使用って言うのか」
「糖分補給用だからな」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
いつものやり取り。
けれど、いつもより少しだけ柔らかかった。
資料室の窓の外は、冬の夕方だった。
卒業まで、もうそれほど時間はない。
受験も続いている。
伊集院家の事情も、卒業後の話も、まだそこにある。
それでも今は、チョコがあった。
去年も渡されたチョコ。
今年も、別の形で渡されたチョコ。
覚えている。
悠人はそう言った。
伊集院は「覚えている必要はない」と言いかけて、言えなかった。
そのことが、悠人の胸に少し残った。
「伊集院」
「何だ」
「去年のことも、今年のことも、ちゃんと覚えてるよ」
伊集院は、今度こそ明らかに動揺した。
「……確認としては、不要な情報だ」
「そうか」
「そうだ」
「でも、俺には必要だから」
伊集院は何も言わなかった。
黙ったまま、確認用の紙に視線を落とす。
だが、ペンは動いていない。
悠人は、箱を丁寧に鞄へしまった。
「受験終わったら、ちゃんと報告する」
「当然だ。受験終了確認が必要だ」
「それも確認か」
「当然だ」
「じゃあ、その時にチョコの消費状況も報告する」
「そこまでは不要だ」
「味の確認も?」
「不要だ」
「でも今年のも美味かったって言うと思う」
伊集院は小さく息を吐いた。
「君は、本当に扱いづらい」
「よく言われる」
「主に私が言っている」
「知ってる」
少しだけ、伊集院の表情が緩んだ気がした。
確認はそれで終わりだった。
と言っても、実際には受験予定の確認も少しだけ行われた。
体調。
試験日。
前日の睡眠。
移動時間。
チョコの摂取量。
最後だけは、伊集院が追加した。
「摂取量って」
「一度に過剰摂取するな」
「わかったよ」
「試験当日に腹部不調を起こされても困る」
「そこまで考えたチョコなのか」
「当然だ」
「やっぱり考えてくれてるな」
「必要な計算だ」
伊集院は同じ言葉で押し切った。
悠人はそれに乗った。
「じゃあ、必要な計算に感謝しておく」
「礼は不要だ」
「でも、ありがとう」
伊集院は返事をしなかった。
その沈黙を、悠人は答えとして受け取った。
資料室を出る時、伊集院が言った。
「高瀬」
「何だ」
「受験前に、無理をするな」
「うん」
「普段通りに解答すればよい」
「わかってる」
「それから」
伊集院は一瞬だけ言葉を止めた。
「……糖分補給も、必要に応じて行え」
悠人は笑った。
「わかった」
「笑うところではない」
「いや、ちゃんと使うよ」
「ならよい」
悠人は資料室を出た。
廊下は静かだった。
鞄の中には、伊集院からもらった個包装のチョコが入っている。
受験期の糖分補給。
集中力維持。
必要な計算。
そういうことになっている。
でも、悠人にはわかっていた。
これは、伊集院レイなりの「頑張れ」だ。
そしてたぶん、もう一つ。
今年も覚えていてほしい。
そんな言葉にならない気持ちも、少しだけ入っている。
悠人は階段を下りながら、鞄の中の箱に手を触れた。
去年も覚えている。
今年も覚えている。
忘れるほど前ではない。
忘れていいほど、軽いものでもない。
まだそんな言葉を、はっきり誰かに言うつもりはなかった。
けれど、高瀬悠人の中では、伊集院レイとの記憶がまた一つ増えていた。