高瀬悠人が資料室を出ていった後、伊集院レイはしばらく動けなかった。
机の上には、確認用の紙が残っている。
受験期間中における糖分補給確認。
体調管理。
試験日程。
移動時間。
前日の睡眠。
糖分摂取量。
どれも確認事項として整理できる。
高瀬に渡したチョコレートも、確認対象の集中力維持に必要な補助物資として説明できる。
受験期である。
集中力は重要である。
糖分補給は合理的である。
個包装であれば、一度に食べる必要がない。
手も汚れにくい。
試験勉強の合間に使いやすい。
必要な計算だ。
そう言った。
実際、嘘ではない。
高瀬の受験が近いことは事実だった。
彼が疲れていることもわかっていた。
試験前に無理をしてほしくないとも思っていた。
だから、選んだ。
甘すぎないもの。
手が汚れにくいもの。
鞄に入れても邪魔にならないもの。
少しずつ食べられるもの。
それでいて、ただの菓子には見えないもの。
バレンタインの贈り物としても、不自然ではないもの。
そこまで考えて、レイはペンを置いた。
「……糖分補給だ」
小さく呟く。
去年も、そう言った。
糖分補給。
確認協力への補助。
あの時の自分は、チョコレートを渡すだけで精一杯だった。
なかなか差し出せず、確認だと何度も言い訳し、最後には高瀬に気づかれながらも、どうにか渡した。
高瀬は茶化さなかった。
ただ、礼を言った。
そして今年。
また、同じ言い訳を使った。
糖分補給だ。
けれど、去年と同じではなかった。
去年は、渡すための理由が必要だった。
今年は、渡したいことを隠すための理由が必要だった。
その違いに気づいてしまい、レイは少しだけ顔をしかめた。
高瀬は覚えていた。
去年もそう言ってたな。
そう言った。
レイは、すぐには返せなかった。
覚えているのか。
そう聞いてしまった。
本当は、聞く必要などなかった。
高瀬が覚えていることくらい、もう何度も知っている。
夏祭りのこと。
水族館のこと。
花火のこと。
クリスマスのこと。
資料室でのやり取り。
高瀬は、思っている以上に覚えている。
忘れるほど前じゃないだろ。
あの花火の日にも、そう言った。
そして今日も。
覚えてるよ。
去年のチョコのことも。
その味も。
自分が糖分補給と言い張ったことも。
高瀬は覚えていた。
それが、嬉しかった。
レイはその事実を認めそうになり、すぐに目を伏せた。
違う。
確認対象の記憶保持状態が良好であることを確認しただけだ。
過去の確認事項を正しく保持している。
秘密保持上の大きな問題はない。
記憶の混乱もない。
言動の整合性も保たれている。
だから、これは確認として有意義だった。
そう整理できる。
けれど、高瀬が「覚えてるよ」と言った時、レイの中に生じた感情は、そんな分類には収まらなかった。
覚えていてくれた。
去年の自分を。
去年のチョコを。
渡せずにいた時間を。
糖分補給という苦しい言い訳を。
全部ではないとしても、確かに覚えていた。
それが、胸の奥に残っている。
レイは確認記録の紙を閉じた。
その横には、別の資料がある。
卒業後移行準備資料
外部関係整理に関する確認事項
見たくないと思いながら、視線はそこへ向かった。
高瀬悠人の名前が、そこにはある。
秘密保持対象者候補:高瀬悠人
卒業後接触継続の可否:要検討
必要措置:未定
そして、その資料の中には、以前から冷たい言葉が並んでいる。
外部者との接触継続。
通信管理。
関係整理。
必要措置。
記憶処理。
記憶処理。
その言葉が、今日ほど嫌に見えたことはなかった。
高瀬は覚えていた。
去年のバレンタインを。
それを、消す可能性がある。
資料の上では、それは処理なのだろう。
秘密保持のため。
高瀬本人の将来のため。
伊集院家の事情から離すため。
卒業後に余計な負担を背負わせないため。
理屈はある。
理屈だけなら、理解できる。
高瀬が自分と関わったことで、伊集院家の問題に巻き込まれる。
秘密を知ったことで、普通の卒業後から少し外れてしまう。
ならば、記憶を整理し、負担を減らすという考え方は、完全に間違っているとは言い切れない。
そのことが、余計に苦しかった。
レイは資料の文字を見つめる。
記憶処理。
それは、ただ秘密を忘れさせるだけなのか。
伊集院家の事情だけを消すのか。
自分が男装していたことだけを消すのか。
資料室の確認だけを消すのか。
では、バレンタインはどうなる。
去年のチョコは。
今年のチョコは。
糖分補給という言い訳は。
高瀬が「覚えてるよ」と言ったことは。
どこからが処理対象なのか。
どこまでが、消してよい記憶なのか。
レイは息を詰めた。
そんな区別が、本当にできるのか。
高瀬にとって、伊集院家の秘密と、資料室で過ごした時間は別々のものなのか。
秘密を知らなければ、資料室には来なかった。
資料室がなければ、本屋も喫茶店もなかったかもしれない。
夏祭りも、クリスマスも、バレンタインも、ホワイトデーも、水族館も、花火も、今のようには続かなかった。
秘密を消すということは、どこかで、それらの意味も変えてしまうのではないか。
去年のチョコを覚えている高瀬が、もしそれを忘れたら。
今年のチョコを受け取った意味も、ただの菓子になるのか。
糖分補給という言い訳を笑ったことも、消えるのか。
覚えてるよ。
その言葉まで、消えるのか。
レイは資料を閉じた。
強く閉じすぎて、紙が小さな音を立てる。
「……まだ決定ではない」
自分に言い聞かせる。
まだ候補だ。
まだ検討段階だ。
必要措置は未定だ。
高瀬本人に提示されてもいない。
今、考えても仕方がない。
仕方がないはずなのに、考えてしまう。
高瀬は、今年のチョコをどう食べるだろう。
勉強の合間に一つずつ食べるだろうか。
試験前日に食べすぎないだろうか。
個包装だから、鞄に入れて持っていくかもしれない。
味を確認すると言って、その場で一つ食べた。
美味い。
そう言った。
去年のも美味かった、とも言った。
レイは、椅子の背に身を預けた。
高瀬は、味まで覚えていた。
本当に、何を覚えているのだ。
そんなことまで覚えている必要はない。
そう言いかけた。
覚えている必要は――
その先を言えなかった。
なぜか。
答えはわかっている。
覚えていてほしかったからだ。
去年のことを。
今年のことを。
チョコレートのことを。
糖分補給という言い訳のことを。
資料室で二人きりだったことを。
自分が素直に渡せなかったことを。
それでも高瀬が茶化さず受け取ってくれたことを。
覚えていてほしい。
その言葉が、胸の奥に現れた。
レイは、すぐに否定しようとした。
だが、否定の言葉は出てこなかった。
代わりに、机の上の確認記録へ視線が戻る。
受験期間中における糖分補給確認。
その項目の中に、高瀬とのやり取りは記録されていない。
去年もそうだった。
記録に残すのは、確認事項だけ。
感情は書かない。
嬉しかったことも書かない。
覚えていてくれたことも書かない。
覚えていてほしいと思ったことも書かない。
だから、何もなかったことになるのか。
そんなはずはない。
高瀬は覚えていた。
自分も覚えている。
記録しなくても、残っている。
だからこそ、記憶処理という言葉が怖い。
レイは引き出しを開けた。
そこには、捨てられなかったものがある。
喫茶店のレシート。
夏祭りの景品。
ホワイトデーの焼き菓子の空き箱。
他にも、小さな記憶の残骸のようなもの。
本棚には、去年の栞を挟んだ文庫がある。
その文庫には、今年のブックカバーをかけている。
高瀬からもらったもの。
高瀬と過ごした時間。
それらは、少しずつ日常の中に入っている。
そして今日、また一つ増えた。
自分が渡したチョコレート。
高瀬が覚えていると言った記憶。
それは物としてはここに残らないかもしれない。
高瀬が食べてしまえば、チョコはなくなる。
けれど、なくなったからといって消えるわけではない。
去年のチョコも、もう残っていない。
それでも高瀬は覚えていた。
今年のチョコも、きっと残らない。
だが、覚えていてほしい。
レイは、引き出しを静かに閉じた。
「……不合理だ」
小さく呟く。
食べ物は残らない。
消耗品だ。
糖分補給として渡したものなら、食べられて当然だ。
消費されることが目的だ。
それなのに、記憶だけは残ってほしいと思っている。
矛盾している。
不合理だ。
でも、そう思ってしまう。
レイは確認記録の備考欄に何かを書こうとして、やめた。
そこに書ける言葉はない。
去年と同様、糖分補給を実施。
受験期につき、個包装形式を選択。
確認対象の集中力維持に配慮。
そんな言葉なら書ける。
けれど、本当に書きたいことは別だった。
今年も渡した。
今年も受け取ってくれた。
今年も覚えていてくれた。
そして、自分は今年も、その意味を認められない。
レイはペンを置いた。
窓の外は暗い。
冬の夜は静かで、屋敷の中の音も遠い。
高瀬は今頃、家で勉強しているだろうか。
あのチョコを一つ食べるだろうか。
それとも試験前まで取っておくだろうか。
去年のことを思い出すだろうか。
今日、自分が「覚えている必要はない」と言いかけてやめたことに気づいただろうか。
きっと気づいている。
高瀬は、そういうところに気づく。
そして、気づいたうえで急かさない。
それがまた、苦しい。
レイは、閉じた外部関係整理の資料に手を置いた。
高瀬悠人の名前が、そこにある。
秘密保持対象者候補。
卒業後接触継続の可否。
必要措置。
記憶処理。
その言葉のどれもが、今日の高瀬とは合わなかった。
去年のチョコを覚えていた高瀬。
今年のチョコを受け取った高瀬。
「今年のも確認する」と言った高瀬。
「覚えてるよ」と言った高瀬。
その高瀬を、資料の言葉で処理できるはずがない。
レイは資料から手を離した。
「……覚えている必要はない」
ようやく口にした。
だが、その言葉はあまりに遅かった。
資料室では言えなかった言葉。
今さら一人で呟いても、意味はない。
それに、本心でもない。
レイは目を伏せる。
「覚えていてほしい」
声には出さなかった。
まだ、出せなかった。
けれど、その言葉は確かに胸の奥にあった。
去年の意味も。
今年の意味も。
チョコレートも。
糖分補給という言い訳も。
高瀬が覚えていると言ってくれたことも。
全部、覚えていてほしい。
伊集院レイは、その本音をまだ認められない。
けれど、もう知らないふりもできなかった。