試験当日の朝は、思っていたより静かだった。
高瀬悠人は、いつもより少し早く目を覚ました。
窓の外はまだ冬の色をしている。
空気は冷たく、部屋の中もどこか硬い。
机の上には、前日の夜に確認したものが並んでいた。
受験票。
時計。
消しゴム。
予備の筆記具。
交通経路を書いたメモ。
小さな個包装のチョコレート。
そして、伊集院レイからもらったペンケース。
悠人はそれを手に取った。
中には、去年のクリスマスに伊集院からもらったペンが入っている。
黒く、落ち着いたデザインのペン。
進路希望調査を書いた時も使った。
模試の自己採点にも使った。
資料室でメモを取る時にも使った。
そして今日、入試に持っていく。
ペンケースも、今年のクリスマスに伊集院からもらったものだった。
受験期における筆記具管理の補助。
伊集院はそう言った。
記念品だとも言った。
悠人は小さく笑った。
「補助、ね」
受験票をもう一度確認する。
時計を鞄に入れる。
予備の消しゴムも入れる。
個包装のチョコを二つだけ、小さな袋に入れる。
一度に食べる必要はない。
試験前日に食べすぎるな。
当日の朝に初めて食べるのは避けろ。
伊集院の声が、頭の中に浮かぶ。
細かい。
本当に細かい。
けれど、その細かさが今は少しありがたかった。
試験会場へ向かう電車の中で、悠人は窓の外を見ていた。
車内には、同じように受験生らしい生徒が何人かいる。
参考書を開いている者。
目を閉じている者。
スマートフォンを見ている者。
ひたすら手元の単語帳をめくっている者。
悠人は、鞄の中のペンケースに手を触れた。
緊張していないわけではない。
心臓はいつもより少し速い。
手も少し冷たい。
頭の中では、忘れ物がないか何度も確認している。
受験票。
時計。
筆記具。
消しゴム。
交通費。
チョコ。
大丈夫。
全部ある。
それでも、不安は消えない。
入試というのは、そういうものなのだろう。
普段通りに解答すればよい。
伊集院はそう言った。
頑張れ、とは言わなかった。
でも、たぶん同じような意味だった。
悠人はその言葉を思い出し、ゆっくり息を吐いた。
試験会場に着くと、周囲の空気はさらに張り詰めていた。
掲示を確認する。
教室を探す。
受験番号を確認する。
席に座る。
悠人はペンケースを机の上に置いた。
中からペンを取り出す。
伊集院からもらったペン。
それを握ると、資料室の空気が少しだけ蘇る。
「普段通りでいい」
最後に伊集院が言った言葉。
悠人は、問題用紙が配られるのを待ちながら、その言葉を胸の中で繰り返した。
普段通り。
難しいことは考えない。
伊集院のためでもない。
誰かに見せるためでもない。
自分の進路を、自分で進むために。
試験開始の合図があった。
悠人は問題用紙を開いた。
最初の一問を読む。
鉛筆を動かす。
緊張は、完全には消えない。
それでも手は動いた。
何度も解いた形式。
何度も間違えた種類の問題。
ノートに書き直した解法。
過去問で見た流れ。
頭の中に、少しずつ普段の感覚が戻ってくる。
わからない問題もあった。
迷う選択肢もあった。
時間配分に焦る瞬間もあった。
それでも、止まらなかった。
一つずつ解く。
取れる問題を取る。
深追いしすぎない。
確認する。
最後まで、解答欄を埋める。
試験が終わった時、悠人はしばらく机の上を見ていた。
終わった。
その実感は、すぐには来なかった。
教室の中では、周囲の受験生たちが荷物をまとめ始めている。
誰かが小さくため息をつく。
誰かが友人と目を合わせる。
試験監督が注意を告げる。
悠人も、ペンをペンケースに戻した。
受験票をしまう。
時計をしまう。
鞄を持つ。
廊下に出た瞬間、肩から少し力が抜けた。
合格したかどうかは、まだわからない。
手応えが完璧だったわけでもない。
あの問題は合っていただろうか。
時間配分は正しかったか。
もっと見直せたのではないか。
考えれば、いくらでも不安は出てくる。
けれど、それでも。
やることはやった。
そう思えた。
帰り道、駅へ向かう途中で、悠人は鞄から小さなチョコを一つ取り出した。
伊集院からもらった個包装のチョコ。
受験期間中の糖分補給。
そういう名目だった。
包装を開けて、口に入れる。
甘さがゆっくり広がる。
試験前に食べた時よりも、少しだけ味が濃く感じた。
「……終わったよ」
誰に言うでもなく、悠人は小さく呟いた。
家に帰ると、玄関で家族に声をかけられた。
「どうだった?」
「とりあえず、終わった」
それ以上は、すぐにはうまく言えなかった。
自分の部屋へ戻る。
鞄を置き、コートを脱ぐ。
机の前に座ると、一気に疲れが出た。
緊張していたのだと、そこでようやくわかった。
悠人はペンケースを机の上に置いた。
開ける。
ペンはちゃんと入っている。
試験で使った。
最後まで使った。
伊集院に報告したら、何と言うだろう。
筆記具の使用状態は良好か。
そんなことを言いそうだ。
悠人が少し笑った時、家の固定電話が鳴った。
居間から呼ばれる。
「悠人、電話」
「誰?」
「伊集院さんって方」
悠人は少しだけ驚いた。
だが、すぐに受話器を取った。
「はい、高瀬です」
「高瀬か」
いつもの声だった。
「伊集院?」
「そうだ」
「もしかして、受験終了確認?」
「当然だ」
即答だった。
悠人は思わず笑った。
「やっぱり」
「本日、君の受験日程が一つ終了したはずだ。確認する必要がある」
「終わったよ」
電話の向こうで、ほんの少しだけ間が空いた。
「……そうか」
その声は、普段より少し柔らかかった。
「ならよい」
短い言葉。
けれど、そこに安堵がにじんでいた。
悠人には、それがわかった。
「心配してた?」
「確認対象の受験状況は、今後の予定に影響する」
「そういう言い方になるよな」
「事実だ」
「でも、ありがとう」
「礼を言われる内容ではない」
「でも、電話くれたし」
「受験終了確認だ」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
いつものやり取りだった。
そのことが、妙に安心した。
悠人は受話器を持ったまま、少しだけ壁にもたれた。
「ペン、使ったよ」
伊集院が黙る。
「去年もらったやつ。ペンケースに入れて持っていった」
「……筆記具の使用状態は」
「良好」
「ならよい」
「消しゴムも二つ持っていった」
「当然だ」
「受験票も忘れなかった」
「当然だ」
「チョコも食べた」
また、少し間が空いた。
「一度に食べすぎてはいないだろうな」
「一つだけ。帰りに」
「なら問題ない」
「美味かった」
「味の報告は不要だ」
「でも報告する」
「君は本当に扱いづらい」
「よく言われる」
「主に私が言っている」
「知ってる」
電話越しに、伊集院が小さく息を吐いたような気がした。
悠人は少しだけ真面目な声に戻る。
「合否はまだわからないけど、やることはやったと思う」
伊集院は、すぐには返事をしなかった。
それから静かに言った。
「それならよい」
「それだけ?」
「今の段階で評価できるのは、君が受験を予定通り完了したという事実だ」
「評価は?」
「適切だ」
「褒めてる?」
「評価だ」
「だと思った」
悠人は笑った。
試験が終わった直後は、何となく気が抜けていた。
でも伊集院と話していると、少しずつ本当に一区切りついた気がしてきた。
「伊集院」
「何だ」
「普段通りに解答すればいいって言ってくれただろ」
「言ったな」
「あれ、助かった」
電話の向こうが静かになった。
「……事実を述べただけだ」
「そういうことにしておく」
「その言い方はやめろ」
「でも、本当に助かった」
今度は、伊集院は否定しなかった。
沈黙が返ってくる。
悠人はその沈黙を、悪いものとは感じなかった。
「次の予定は」
伊集院が言った。
「まだ試験が残ってるところもあるけど、大きいのは今日で一つ終わった。あとは結果待ちと、少しだけ残ってる日程」
「無理をするな」
「うん」
「終わった直後に気を抜きすぎるな」
「それも確認?」
「体調管理だ」
「今年はずっと管理されてるな」
「必要な時期だからな」
「そっか」
悠人は窓の外を見た。
夕方の空が少しずつ暗くなっている。
受験が終わった。
完全にすべてが終わったわけではない。
合否も出ていない。
まだ次の予定もある。
けれど、一つ大きな山を越えた。
それは確かだった。
「高瀬」
「何だ?」
「今日は早く休め」
「わかった」
「自己採点をするなら、明日でもよい」
「そこまで?」
「疲労状態で行う自己採点は精度が落ちる」
「本当に細かいな」
「必要な判断だ」
「でも、そうする」
「ならよい」
また少し沈黙があった。
伊集院が何かを言おうとしている気がした。
けれど、言葉にはならない。
悠人は待った。
急かさなかった。
やがて、伊集院は言った。
「……受験終了確認は、以上だ」
「了解」
「今後の予定については、必要に応じて確認する」
「わかった」
「では」
「あ、伊集院」
「何だ」
「あらためて、電話ありがとな」
「礼は不要だ」
「でも、嬉しかった」
今度こそ、電話の向こうで伊集院が完全に黙った。
悠人は少し笑う。
「じゃあ、また」
「……また、必要があれば連絡する」
「うん」
電話は切れた。
受話器を置く。
部屋へ戻る。
机の上には、ペンケースがある。
悠人は椅子に座り、ペンケースをもう一度開いた。
去年のペン。
今年のペンケース。
今日の試験で使ったもの。
そして鞄の中には、伊集院からもらったチョコがまだいくつか残っている。
高瀬悠人は、自分の進路を自分で進んでいる。
それは変わらない。
今日、試験を受けたのは自分だ。
問題を解いたのも自分だ。
答案を書いたのも自分だ。
結果を待つのも自分だ。
けれど、その中に伊集院からもらったものがあった。
ペン。
ペンケース。
チョコ。
普段通りに解答すればよい、という言葉。
それらは、代わりに進んでくれるものではない。
でも、自分が進む時に、そばにあった。
悠人は予定表を開き、今日の日付の横に小さく書いた。
受験終了。
書いてから、少しだけ息を吐く。
一つ、終わった。
そう思った。
そして同時に、何か別のものが近づいている気もした。
入試が終われば、卒業が近づく。
卒業が近づけば、伊集院が答えられなかったことも、いつか答える時が来るのかもしれない。
卒業後。
連絡。
伊集院家。
まだ何もはっきりしていない。
けれど、少なくとも今日、高瀬悠人は自分の受験を終えた。
そのことだけは確かだった。
悠人はペンをペンケースへ戻した。
机の上には、静かな疲れと、少しだけ軽くなった空気が残っていた。