伊集院家の屋敷は、いつも静かだった。
高い門。
よく手入れされた庭。
磨き上げられた玄関。
足音さえ吸い込まれていくような広い廊下。
駅前のざわめきとは、まるで違う。
本屋の紙の匂いもない。
喫茶店のコーヒーの香りもない。
学生たちの笑い声もない。
あるのは、整えられた静けさだった。
伊集院レイは、屋敷の玄関をくぐった。
「お帰りなさいませ、レイ様」
使用人が丁寧に頭を下げる。
その声は、いつもと同じだった。
敬意を含み、余計な感情を含まず、伊集院家の者に向けるべき距離を正確に保っている。
レイはいつものように答えた。
「ああ」
声は落ち着いていた。
少なくとも、そう聞こえたはずだった。
使用人は何も気づかない。
今日、レイがどこへ行ったのか。
誰と歩いたのか。
本屋で何を見ていたのか。
喫茶店で何を食べたのか。
そして、何を思わず笑ってしまったのか。
誰も知らない。
知る必要もない。
レイは廊下を歩いた。
壁にかけられた絵。
磨かれた床。
等間隔に置かれた花瓶。
すべてがきちんとしている。
伊集院家らしい。
そう思った。
この家にいると、何もかもが定められた場所に置かれているような気がする。
物も。
言葉も。
振る舞いも。
自分の立つ位置さえも。
街とは違う。
駅前では、誰もレイを伊集院家の者として見なかった。
誰も「伊集院くん」と呼ばなかった。
誰も、彼女の立場にひれ伏すような視線を向けなかった。
ただ、一人の学生として通り過ぎた。
そのはずだった。
なのに、胸の奥にはまだ、あの喫茶店での記憶が残っている。
高瀬悠人が、ケーキを不器用に切ろうとして、クリームを皿の端へ滑らせた瞬間。
それを見て、自分が笑ってしまった瞬間。
レイは、部屋へ戻るまでの間、その記憶を何度も振り払おうとした。
けれど、振り払えば振り払うほど、かえって鮮明になる。
「……馬鹿馬鹿しい」
小さく呟いた声は、静かな廊下に溶けた。
自室に入ると、レイは扉を閉めた。
屋敷の中でも、この部屋だけは少しだけ息ができる。
それでも、完全に自由な場所ではない。
机の上にはきちんと並べられた書類。
本棚には整然と収められた本。
クローゼットの中には、学校で着る制服と、外出用の服が規則正しく並んでいる。
乱れたものはない。
乱れているのは、自分の内側だけだった。
レイは今日着ていた上着を脱いだ。
落ち着いた色のシャツ。
中性的に見えるよう選んだ服。
少女に寄りすぎず、かといっていつもの伊集院くんにも見えすぎない服。
そのはずだった。
鏡の前に立つ。
そこに映っているのは、誰なのだろう。
きらめき高校の伊集院くんではない。
街で高瀬と歩いた少女でもない。
どちらとも言えない自分が、鏡の中に立っていた。
レイは鏡を見つめた。
あれは監視だった。
高瀬悠人の口の堅さを確認するための外出だった。
彼が、自分の秘密を外でどう扱うか。
私服姿を見て、余計な反応をするか。
街で誰かに何かを聞かれた時、不自然な態度を取らないか。
それを確かめる必要があった。
だから連れ出した。
それだけだ。
それ以上の意味はない。
レイは、鏡の中の自分にそう言い聞かせた。
けれど、その言葉は思ったより薄かった。
いつものように、ぴたりと自分の中に収まらない。
監視。
確認。
利用。
その言葉を並べれば、今日の行動は説明できる。
説明はできる。
けれど、喫茶店でケーキを見ていた時の胸の落ち着かなさまでは、説明できなかった。
本屋で雑誌の棚に目を止めた時の、ほんの少しの後ろめたさも。
高瀬に「似合ってる」と言われた時、胸の奥が一瞬だけ跳ねたことも。
説明できなかった。
「……不要な感想だ」
レイは鏡から目を逸らした。
机の上に、今日買った本を置く。
外国文学の文庫。
本屋で迷いなく手に取ったものだ。
伊集院レイが読んでいても不自然ではない本。
誰に見られても困らない本。
レイは椅子に座り、本を開いた。
一行目を読む。
二行目へ進む。
そのはずだった。
けれど、文字が頭に入ってこない。
代わりに浮かぶのは、本屋の棚だった。
文庫本の隣にあった、柔らかい色合いの雑誌。
流行の服を着たモデル。
明るい表紙。
自分には関係がないはずの世界。
ほんの一瞬、目を止めただけだった。
それなのに、高瀬は気づいた。
――それ、見るのか?
レイは本を閉じた。
「見てなどいない」
誰に向けるでもなく言う。
だが、その言葉は自分でも少し弱く聞こえた。
高瀬は気づいた。
けれど、それ以上は踏み込まなかった。
「今、見てただろ」と言った後、無理に雑誌を手に取らせようとはしなかった。
からかわなかった。
面白がらなかった。
なぜ見るのかと聞かなかった。
ただ、気づいただけだった。
そして、それ以上は見なかったふりをした。
レイは、それがどうにも落ち着かなかった。
彼女は、見られることには慣れている。
廊下を歩けば視線が集まる。
女子生徒たちは憧れを込めて見る。
男子生徒たちは反感を込めて見る。
教師たちは伊集院家の名を意識して見る。
見られることなら、慣れている。
けれど、見られた上で暴かれないことには慣れていなかった。
高瀬は気づいた。
けれど、踏み込まなかった。
それが、妙に胸に残っている。
「……扱いづらい男だ」
レイは椅子の背にもたれた。
そして次に思い出したのは、喫茶店だった。
落ち着いた店内。
向かいの席に座った高瀬。
紅茶の香り。
運ばれてきたケーキ。
自分は、あれを食べたかったわけではない。
ただ、メニューを確認していただけだ。
ケーキセットの欄に視線が止まったのも、偶然だ。
高瀬が勝手に勘違いし、勝手に注文した。
だから、自分は少し味を確認しただけだ。
それだけだ。
レイはそう結論づけようとした。
けれど、やはり言葉が薄い。
高瀬が「じゃあ俺が頼む」と言った時。
正直に言えば、少しだけ安心した。
自分で頼まずに済んだ。
欲しがったことを認めずに済んだ。
それでも、少しだけ食べることができた。
高瀬は、そこまで考えていたのだろうか。
いや、きっと考えていない。
彼はそこまで器用な人間ではない。
ただ、何となくそうしただけだ。
けれど、その「何となく」が腹立たしかった。
まるで、自分が彼にうまく逃がされたみたいではないか。
言えない欲しいものを、彼が勝手に形にしてくれたみたいではないか。
「……甘やかされたわけではない」
レイは眉を寄せた。
甘やかされる。
その言葉が、ひどく似合わない。
伊集院レイは、誰かに甘やかされる存在ではない。
命じる側だ。
与える側だ。
距離を置かれる側であり、仰がれる側だ。
少なくとも、学校ではそうだった。
それなのに、高瀬は。
彼は伊集院を特別扱いしすぎなかった。
女の子として大げさに扱うこともしなかった。
かといって、伊集院くんとしてだけ扱うわけでもなかった。
ただ、そこにいる相手として接していた。
それが一番、厄介だった。
レイは本を閉じたまま、机の上に置いた。
そして、思い出したくない場面が戻ってくる。
ケーキを切ろうとした高瀬。
フォークの先でクリームが滑った。
ほんの少し不格好な失敗。
その間の抜けた顔。
それを見て、レイは笑ってしまった。
ほんの一瞬。
だが、確かに笑った。
高瀬にも見られた。
――今、笑った?
――笑っていない。
――いや、笑っただろ。
――見間違いだ。
見間違いではない。
レイ自身が、一番よくわかっている。
問題は、笑ったことではない。
笑い方だった。
学校で見せる笑みは、作れる。
余裕を見せるための笑み。
相手をかわすための笑み。
自分を守るための笑み。
伊集院レイとして、必要な時に浮かべる笑み。
それなら慣れている。
だが、喫茶店でこぼれた笑いは違った。
作っていなかった。
整えていなかった。
守るためでも、見せるためでもなかった。
ただ、出てしまった。
普通の少女のように。
その事実が、レイをひどく動揺させていた。
「なぜ……」
声が漏れた。
なぜ、あんなふうに笑った。
なぜ、高瀬の前で。
なぜ、あれほど簡単に。
昨日までは、ただの同級生だった。
秘密を知られた危険人物だった。
監視対象で、利用価値のある相手で、それ以上ではないはずだった。
なのに。
高瀬悠人の前で、伊集院レイは一瞬だけ伊集院くんではなくなった。
そのことが、腹立たしい。
怖い。
そして。
少しだけ、もう一度思い出したいと思ってしまう。
レイはその感情に気づき、すぐに否定した。
「……楽しかった、などと」
言いかけて、唇を閉じる。
口に出してはいけない言葉だった。
だが、閉じたところで、もう遅かった。
自分の中に、その言葉があったことを知ってしまった。
楽しかった。
高瀬と本屋へ行ったことが。
雑誌を見ていたことを見抜かれたことが。
喫茶店でケーキを少しだけ食べたことが。
彼が不器用にクリームを落としかけたことが。
それを見て、自分が笑ってしまったことが。
楽しかった。
そう認めてしまえば、何かが崩れる気がした。
あれは監視だった。
高瀬を試すためだった。
彼の口の堅さを確認するためだった。
普通の少女として街を歩きたかったわけではない。
あの時間を、もう一度欲しいと思っているわけではない。
高瀬が必要だったわけではない。
そう言い聞かせる。
けれど、胸の奥で何かが静かに反発した。
「馬鹿な」
レイは短く吐き捨てた。
椅子から立ち上がり、机の上を片付けようとした。
その時、ポケットから白い紙片が落ちた。
喫茶店のレシートだった。
高瀬が会計を済ませようとした時、レイが半ば強引に支払った。
借りを作る理由がない、と言って。
その時に受け取ったものだ。
ただの紙切れ。
残す意味はない。
監視の記録でもない。
伊集院家の書類でもない。
必要な領収書でもない。
捨てればいい。
レイはそれを指先でつまみ、屑入れの上へ持っていった。
そこで、手が止まった。
本当に、ただのレシートだ。
日付。
店名。
紅茶。
コーヒー。
ケーキセット。
それだけ。
それだけの紙。
なのに、指を離せなかった。
捨てなかった理由は、自分でもわからなかった。
ただ、捨てるには少しだけ惜しかった。
レイはしばらく無言でレシートを見つめた。
そして結局、屑入れではなく、机の引き出しを開けた。
何も言い訳をしないまま、その中へそっと入れる。
折り目もつけなかった。
乱暴に押し込むこともしなかった。
ただ、静かにしまった。
引き出しを閉める音が、部屋に小さく響く。
レイはその音を聞いて、少しだけ眉を寄せた。
まるで、自分が何か大切なものをしまったようだった。
違う。
ただ捨て忘れただけだ。
今度まとめて処分すればいい。
そう思った。
思うことにした。
窓の外は、もう薄暗くなり始めていた。
屋敷の庭には静かな影が落ちている。
レイは机の前に立ったまま、深く息を吐いた。
高瀬悠人は、まだ信用できない。
当然だ。
秘密を知った危険人物であることに変わりはない。
だから、また呼ぶ。
監視する。
確認する。
彼が本当に口が堅いのか。
不用意な反応をしないのか。
秘密を守れるのか。
伊集院レイの前で、これからどう振る舞うのか。
見極めなければならない。
それだけだ。
次も呼ぶ。
監視のために。
口の堅さを確認するために。
それ以外の理由など、あるはずがない。
伊集院レイはそう結論づけた。
その結論は、いつもの彼女らしく、冷静で、正しく、隙がないはずだった。
けれど机の引き出しの中には、捨てるはずだった喫茶店のレシートが、折り目もつけられないまま残っていた。