伊集院レイは、伝説の木の下で少女になる   作:エーアイ

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幕間:伊集院レイは、保留が終わることを知る

 高瀬悠人の受験が終わった。

 

 その報告を受けた時、伊集院レイは電話越しに短く言った。

 

 「ならよい」

 

 それだけだった。

 

 本当は、もっと言うべきことがあったのかもしれない。

 

 よくやった。

 お疲れ。

 無事に終わってよかった。

 頑張ったな。

 

 どれも、普通の言葉だ。

 

 けれどレイは、そのどれも言えなかった。

 

 代わりに、確認を終えた。

 

 受験終了確認。

 

 体調。

 筆記具。

 受験票。

 チョコレート。

 自己採点の時期。

 休息。

 

 必要なことは確認した。

 

 高瀬は「終わった」と言った。

 「やることはやったと思う」とも言った。

 

 それを聞いて、レイは確かに安心した。

 

 高瀬が、自分で選んだ進路へ向かって、一つ大きな山を越えた。

 

 そのことが、少しだけ嬉しかった。

 

 だが、その安堵は長く続かなかった。

 

 その夜。

 

 レイが自室で確認記録を整理していると、扉が控えめに叩かれた。

 

 「入れ」

 

 扉が開き、倉橋が姿を見せた。

 

 黒く整えられた髪。

 静かな立ち姿。

 いつもと変わらない丁寧な所作。

 

 だが、その表情には、わずかに重さがあった。

 

 「失礼いたします、レイ様」

 

 「何だ」

 

 倉橋は一礼し、机の前へ進んだ。

 

 「高瀬様の件でございます」

 

 その一言で、レイの手が止まった。

 

 机の上には、高瀬の受験終了確認の記録がある。

 

 受験日程一部終了。

 筆記具使用状態良好。

 体調に大きな問題なし。

 本人申告:やることはやった。

 

 整った文字。

 

 確認としては問題ない。

 

 だが、倉橋が持ってきた話は、それとは別のものだとすぐにわかった。

 

 「続けろ」

 

 レイはそう言った。

 

 声は、自分でも少し硬かった。

 

 倉橋は静かに告げた。

 

 「高瀬様への説明時期について、正式な検討が始まりました」

 

 部屋の空気が、急に冷えた気がした。

 

 「説明時期」

 

 レイは、その言葉を繰り返す。

 

 「はい」

 

 「何を説明する」

 

 わかっていた。

 

 わかっていて、聞いた。

 

 倉橋は少しだけ目を伏せた。

 

 「卒業後における秘密保持、接触継続の可否、ならびに必要措置の選択肢についてでございます」

 

 必要措置。

 

 その言葉が嫌だった。

 

 資料の中で何度も見た言葉。

 

 外部者。

 秘密保持対象者候補。

 卒業後接触継続。

 通信管理。

 関係整理。

 記憶処理。

 

 それらが、ついに高瀬本人へ向かおうとしている。

 

 「記憶処理か」

 

 レイは、自分からその言葉を出した。

 

 倉橋はすぐには答えなかった。

 

 だが、否定もしなかった。

 

 「選択肢の一つとして、提示される可能性がございます」

 

 「可能性」

 

 「はい。現時点では、実行ではございません」

 

 「当然だ」

 

 レイは即座に言った。

 

 自分でも、声が強すぎたとわかった。

 

 倉橋は静かに頭を下げる。

 

 「強制ではございません」

 

 その言葉に、レイは倉橋を見た。

 

 「強制ではない?」

 

 「はい。あくまで、高瀬様ご本人の意思を確認する形になります」

 

 「本人に選ばせると言うのか」

 

 「そのように伺っております」

 

 レイは言葉を失った。

 

 強制ではない。

 

 それは、伊集院家側からすれば譲歩なのだろう。

 

 高瀬の意思を尊重する。

 本人に選択肢を提示する。

 負担から離れる道も示す。

 秘密を抱え続ける道も、本人が選ぶなら認める。

 

 そういう形にするつもりなのだろう。

 

 理屈はわかる。

 

 だが、その理屈がひどく苦しかった。

 

 「高瀬の受験が終わったからか」

 

 レイは言った。

 

 倉橋は頷く。

 

 「はい。受験期に余計な負担をおかけするべきではない、という理由で保留されておりました」

 

 保留。

 

 その言葉が、胸に引っかかった。

 

 保留されていた。

 

 つまり、なくなっていたわけではない。

 

 延期されていただけだ。

 

 高瀬が入試に向かっている間、伊集院家側は待っていた。

 

 高瀬本人に余計な負担を与えないため。

 

 高瀬の人生を邪魔しないため。

 

 それは、正しいように聞こえる。

 

 けれど、その正しさが、ひどく冷たい。

 

 「高瀬本人の人生を守るため、ということか」

 

 「そのような意見もございます」

 

 倉橋の声は慎重だった。

 

 「高瀬様は、レイ様の秘密を知っておられます。伊集院家の事情の一端にも触れておられます。卒業後は、学校という管理された環境を離れることになります」

 

 「……」

 

 「レイ様は、卒業後、渡米のご予定がございます。高瀬様との接触継続は、双方にとって負担となる可能性もございます」

 

 「双方?」

 

 レイの声が低くなる。

 

 倉橋はわずかに目を伏せた。

 

 「高瀬様にとっても、でございます」

 

 それも、理解できてしまう。

 

 高瀬は普通の高校生だ。

 

 地元か近隣の大学へ進む。

 自分の進路を自分で選び、自分の生活を始める。

 伊集院家のしきたりも、後継者問題も、外部への印象操作も、本来なら関係がない。

 

 秘密を知ってしまった。

 

 それだけで、彼の普通の卒業後に影が差す可能性がある。

 

 ならば、その負担から解放する選択肢を提示する。

 

 伊集院家側の理屈は、完全に間違ってはいない。

 

 だから余計に、レイは反発しきれなかった。

 

 「……高瀬に、忘れる道を選ばせるのか」

 

 「選択肢として、でございます」

 

 「選択肢なら許されると思っているのか」

 

 「私には、そのようには」

 

 倉橋は言葉を切った。

 

 そして、静かに続ける。

 

 「ただ、伊集院家としては、高瀬様の意思を確認せずに決めることは避けるべきだと判断されたようです」

 

 「本人に選ばせる方が残酷なこともある」

 

 レイは言った。

 

 倉橋は答えなかった。

 

 その沈黙が、同意にも聞こえた。

 

 レイは椅子に座ったまま、机の上の確認記録を見下ろした。

 

 高瀬の受験終了確認。

 

 その横には、別の封筒がある。

 

 卒業後移行準備資料。

 

 外部関係整理に関する確認事項。

 

 その中に、高瀬悠人の名前がある。

 

 秘密保持対象者候補。

 卒業後接触継続の可否。

 必要措置。

 未定。

 

 そして、記憶処理。

 

 レイは目を閉じた。

 

 高瀬は、受験を終えたばかりだった。

 

 やることはやった、と言った。

 

 自分で選んだ進路を、自分で進もうとしている。

 

 その高瀬に、今度は何を選ばせるのか。

 

 忘れるか。

 覚えているか。

 

 伊集院家から離れるか。

 秘密を抱え続けるか。

 

 そんな選択を。

 

 「高瀬は、何も知らない」

 

 レイは言った。

 

 「はい」

 

 「受験が終わったことを、ただ報告してきた」

 

 「はい」

 

 「私は、ならよい、と言った」

 

 「はい」

 

 「その裏で、保留が終わる」

 

 倉橋は何も言わなかった。

 

 レイはゆっくりと息を吐いた。

 

 保留が終わる。

 

 その言葉が、胸に重く落ちた。

 

 高瀬と過ごした時間が、いよいよ何かに裁かれるような気がした。

 

 秘密を知ったあの日から始まった。

 

 高瀬が、自分の正体を知った日。

 

 本来なら、すぐに切り離すべきだったのかもしれない。

 

 伊集院家の基準で言えば、管理すべき外部者だった。

 

 だから、確認が始まった。

 

 秘密保持の確認。

 行動確認。

 資料室への呼び出し。

 

 最初は、本当に監視だった。

 

 高瀬を信用していなかった。

 圧をかけた。

 退学という言葉まで使った。

 

 高瀬は巻き込まれただけだった。

 

 それなのに。

 

 いつから変わったのだろう。

 

 資料室で向かい合う時間が、少しずつ変わっていった。

 

 本屋へ行った。

 喫茶店へ行った。

 夏祭りへ行った。

 クリスマスパーティへ招いた。

 チョコレートを渡した。

 ホワイトデーに返された。

 水族館へ行った。

 花火を見た。

 雨の日に傘を渡した。

 資料室で紅茶を出した。

 お茶会ではないと主張した。

 進路の話をした。

 卒業後の連絡を聞かれて、答えられなかった。

 クリスマスにブックカバーをもらった。

 ペンケースを渡した。

 年明けに電話をした。

 受験前に、普段通りに解答すればよいと言った。

 今年もチョコレートを渡した。

 

 それらを全部、確認と呼んできた。

 

 だが、今ならわかる。

 

 すべてを確認と呼ぶには、もう無理がある。

 

 高瀬との日々だけは、本物だった。

 

 伊集院くんとして過ごした高校生活は、偽りだった。

 

 伊集院家のしきたり。

 男装。

 外部への印象。

 後継者としての役割。

 

 それらは必要だったのかもしれない。

 

 自分は、その形を保ってきた。

 

 きらめき高校で、伊集院くんとして立ってきた。

 

 笑みも。

 挨拶も。

 女子生徒たちへの対応も。

 優等生としての振る舞いも。

 

 すべて、整えられた役割だった。

 

 けれど、高瀬との時間だけは違った。

 

 最初は偽りの延長だった。

 

 確認という名の監視だった。

 

 それでも、いつしかそこには、自分でも制御できない本当のものが混じっていた。

 

 資料室で紅茶を出したこと。

 

 高瀬の好みを覚えていたこと。

 

 水族館の前に電話をかけるのをためらったこと。

 

 花火の後、忘れるほど前ではないと言われて揺れたこと。

 

 高瀬が不在を「少しだけ」不満だと言ったことに、不満を覚えたこと。

 

 おかえりを受理できなかったこと。

 

 ブックカバーを、本にかけたこと。

 

 去年の栞を、まだ使っていること。

 

 今年のチョコを、高瀬が覚えていると言ってくれたこと。

 

 それらは、伊集院くんの役割ではなかった。

 

 伊集院家の命令でもなかった。

 

 確認体制の維持でもなかった。

 

 伊集院レイ自身が、高瀬悠人へ向かって選んできたものだった。

 

 その記憶を、高瀬に選ばせる。

 

 忘れるか、忘れないか。

 

 レイは唇を結んだ。

 

 「レイ様」

 

 倉橋が静かに呼ぶ。

 

 レイは目を開けた。

 

 「何だ」

 

 「高瀬様への説明は、まだ日程が確定しておりません」

 

 「……」

 

 「ですが、卒業式前には行われる可能性が高いかと存じます」

 

 卒業式前。

 

 その言葉が、また重く響く。

 

 高校生活が終わる前に。

 伊集院くんとしての時間が終わる前に。

 伝説の木の下へ向かう前に。

 

 高瀬は選択を提示される。

 

 レイは、静かに言った。

 

 「高瀬に、私から話すことは許されるのか」

 

 倉橋はすぐには答えなかった。

 

 「内容によります」

 

 「便利な言葉だな」

 

 「申し訳ございません」

 

 「謝る必要はない。お前が決めたことではない」

 

 「……はい」

 

 倉橋は目を伏せた。

 

 レイは倉橋を見た。

 

 「お前はどう思う」

 

 倉橋はわずかに驚いたようだった。

 

 「私でございますか」

 

 「そうだ」

 

 倉橋は少しだけ沈黙した。

 

 そして、静かに答える。

 

 「高瀬様は、知らぬまま選べる方ではないと存じます」

 

 「以前もそう言ったな」

 

 「はい」

 

 「高瀬なら、知った上で選ぶと?」

 

 「少なくとも、知らぬまま処理されることを望まれる方ではないと存じます」

 

 レイは目を伏せた。

 

 それは、たぶん正しい。

 

 高瀬は、軽く流すようでいて、肝心なことからは逃げない。

 

 わかったふりはしない。

 

 知らないことを、知らないと言える。

 

 そして、自分で選ぶ。

 

 進路もそうだった。

 

 自分の現実を見て、自分の足で進もうとしている。

 

 だから、記憶についても、きっと選ぶのだろう。

 

 忘れるか。

 

 忘れないか。

 

 レイは、その選択を想像して、胸が痛んだ。

 

 もし高瀬が忘れることを選んだら。

 

 それは高瀬の意思だ。

 

 尊重しなければならない。

 

 彼の人生を守る選択なのかもしれない。

 

 伊集院家の事情から離れる選択なのかもしれない。

 

 普通の大学生活へ進むための選択なのかもしれない。

 

 それを止める権利が、自分にあるのか。

 

 ない。

 

 たぶん、ない。

 

 では、忘れないでほしいと言う権利はあるのか。

 

 それも、わからない。

 

 レイは、今まで散々高瀬を確認対象と呼んできた。

 

 秘密保持のためと言い、管理だと言い、必要だと言ってきた。

 

 それなのに今さら、忘れないでほしいなどと言えるのか。

 

 高瀬の選択を縛る言葉を。

 

 自分のために。

 

 言えるのか。

 

 「……言えない」

 

 小さく漏れた声に、倉橋が反応した。

 

 「レイ様」

 

 「何でもない」

 

 レイはすぐに言った。

 

 だが、倉橋は何も追及しなかった。

 

 それがありがたくもあり、苦しくもあった。

 

 倉橋は静かに一礼した。

 

 「正式な日程が決まり次第、改めてお伝えいたします」

 

 「わかった」

 

 「失礼いたします」

 

 扉が閉まる。

 

 部屋に一人になる。

 

 レイは机の上の資料を見下ろした。

 

 高瀬の受験終了確認。

 

 卒業後移行準備資料。

 

 二つの紙束。

 

 片方には、高瀬が自分で進路へ向かった記録がある。

 

 もう片方には、高瀬の記憶をどう扱うかという検討がある。

 

 同じ高瀬悠人に関するものなのに、あまりに違う。

 

 レイは受験終了確認の紙に手を置いた。

 

 高瀬は、終わったと言った。

 

 やることはやったと言った。

 

 その声を聞いて、自分は安心した。

 

 その安心は本物だった。

 

 確認ではなく、本物だった。

 

 そして今。

 

 保留が終わる。

 

 伊集院家が、高瀬へ選択肢を提示しようとしている。

 

 高瀬が忘れるかもしれない。

 

 資料室も。

 本屋も。

 喫茶店も。

 夏祭りも。

 クリスマスも。

 バレンタインも。

 ホワイトデーも。

 水族館も。

 花火も。

 雨の日の傘も。

 お茶会ではないと主張した時間も。

 ペンも。

 栞も。

 ブックカバーも。

 ペンケースも。

 今年のチョコも。

 

 全部。

 

 あるいは、その意味を。

 

 レイは強く目を閉じた。

 

 忘れてほしくない。

 

 その言葉が、胸の中ではっきり形を取った。

 

 だが、まだ声にはできなかった。

 

 高瀬に言えば、選択を縛る。

 

 言わなければ、高瀬は知らないまま選ぶかもしれない。

 

 どちらも、怖かった。

 

 伊集院レイは、確認記録の上に置いた手を握りしめた。

 

 確認なら、いくらでもしてきた。

 

 けれど、これは確認では済まない。

 

 高瀬悠人との日々は、処理すべき記録ではない。

 

 保留されていた問題が動き出す。

 

 その先に何があるのか、まだわからない。

 

 ただ一つだけ、レイにはわかっていた。

 

 高瀬との日々だけは、本物だった。

 

 偽りの伊集院くんとして過ごした高校生活の中で、あの確認という名の時間だけは、確かに伊集院レイ自身のものだった。

 

 そして今、そのかけがえのない日々が、高瀬自身の選択に委ねられようとしている。

 

 レイは机の上の資料を閉じた。

 

 部屋は静かだった。

 

 だが、その静けさの中で、終わりへ向かう足音だけが、確かに近づいているように感じられた。

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