伊集院レイは、伝説の木の下で少女になる   作:エーアイ

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高瀬悠人は、二度目のホワイトデーに返す

 三月に入ると、学校の空気はさらに薄くなった。

 

 三年生の登校日は限られている。

 

 教室に全員がそろう日は少なくなり、机の上に置かれた教材も、以前より少ない。

 進路が決まった生徒は少し肩の力が抜けている。

 まだ結果を待っている生徒は、落ち着かない顔をしている。

 

 高瀬悠人も、その間にいた。

 

 入試は終わった。

 

 合否を待つものもある。

 まだ完全にすべてが片づいたわけではない。

 

 けれど、一番大きな山は越えた。

 

 やることはやった。

 

 そう思えるくらいには、受験というものを自分の手で終えた。

 

 机の中には、もう受験票のコピーは入っていない。

 鞄の中には、伊集院レイからもらったペンケースが入っている。

 中には去年もらったペン。

 

 そして、伊集院からもらった個包装のチョコレートは、もうほとんど残っていなかった。

 

 受験勉強の合間に一つ。

 試験前日に一つ。

 試験後に一つ。

 

 伊集院が言った通り、一度に食べすぎないようにした。

 

 受験期の糖分補給。

 

 伊集院はそう言い張った。

 

 だが、悠人にはわかっていた。

 

 あれは、伊集院なりの応援だった。

 

 頑張れとは言えない。

 だから、糖分補給と言った。

 

 体調管理と言った。

 必要な計算だと言った。

 

 去年のバレンタインのチョコとは違う。

 

 去年は、渡したい気持ちを隠すためのチョコだった。

 

 今年は、受験期の自分を支えるために選んでくれたチョコだった。

 

 個包装で、食べやすくて、手が汚れにくくて、少しずつ食べられる。

 

 そこまで考えて選ばれていることが、嬉しかった。

 

 だから、返したいと思った。

 

 ホワイトデー。

 

 去年も返した。

 

 あの時は、「この前の糖分補給のお返し」と言って、落ち着いた包装の焼き菓子を渡した。

 

 伊集院が紅茶を飲んでいたことを覚えていて、紅茶に合いそうなものを選んだ。

 

 今年も同じでいいのか。

 

 悠人は、駅前の店先で少し迷っていた。

 

 ホワイトデーの売り場には、今年も色々な菓子が並んでいる。

 

 可愛らしい包装。

 高価そうな箱。

 小さな焼き菓子の詰め合わせ。

 チョコレート。

 クッキー。

 紅茶とセットになったもの。

 

 去年と同じように、焼き菓子は自然だと思う。

 

 伊集院は紅茶を飲む。

 甘すぎるものより、落ち着いたものの方が合う。

 高価すぎるものは違う。

 恋人向けに見えすぎるものも、伊集院が困る。

 

 そのあたりの考え方は去年と同じだった。

 

 けれど、今年は去年と少し意味が違う。

 

 今年のこれは、ただの糖分補給への返礼ではない。

 

 去年も受け取った。

 

 今年も受け取った。

 

 そして今年のチョコには、明らかに自分への気遣いが入っていた。

 

 受験前の不安。

 試験中の疲れ。

 勉強の合間。

 当日の体調。

 

 伊集院は、それらを全部「必要な計算」と呼んだ。

 

 でも、悠人にはそれが気遣いだとわかった。

 

 嬉しかった。

 

 だから、返したかった。

 

 「……今年も焼き菓子かな」

 

 悠人は小さく呟いた。

 

 去年と同じものではない。

 

 けれど、つながっているもの。

 

 棚の中に、落ち着いた包装の焼き菓子の詰め合わせがあった。

 

 小さなフィナンシェとクッキーが入っている。

 一つずつ包まれていて、食べやすそうだった。

 甘すぎず、紅茶にも合いそうだ。

 

 派手ではない。

 

 でも、雑ではない。

 

 伊集院が受け取りやすい。

 

 悠人はそれを選んだ。

 

 帰り道、袋を持ちながら、少しだけ笑った。

 

 去年も同じように悩んだ。

 

 今年も同じように悩んでいる。

 

 けれど、去年よりも迷い方が自然だった。

 

 伊集院がどう受け取るか。

 どう言い訳するか。

 どこまで言えば困らせないか。

 

 そういうことを考えるのに、もう慣れている。

 

 そして、そのことを嫌だとは思わなかった。

 

 放課後。

 

 机の中には、白いカードが入っていた。

 

 放課後、資料室へ。

 受験終了後の状況確認。

 伊集院レイ

 

 悠人はカードを見て、少しだけ息を吐いた。

 

 受験終了後の状況確認。

 

 これもまた、伊集院らしい。

 

 鞄の中には、ホワイトデーの包みが入っている。

 

 今日渡すには、ちょうどいい。

 

 旧校舎へ向かう。

 

 三月の空気は、冬より少しだけ柔らかかった。

 けれど、卒業式が近いことを思うと、どこか落ち着かなかった。

 

 資料室の扉を叩く。

 

 「入れ」

 

 悠人は扉を開けた。

 

 伊集院はいつもの席に座っていた。

 

 机の上には確認用の紙。

 筆記具。

 それから、小さな水筒。

 

 紅茶だろうか。

 

 悠人は椅子に座る。

 

 「遅い」

 

 「時間通りだ」

 

 「私より後に来た」

 

 「三月でもそれなんだな」

 

 「当然だ」

 

 いつものやり取り。

 

 それだけで、ここがまだ続いているように思えた。

 

 卒業式が近い。

 

 登校日も減っている。

 

 この資料室に来る回数も、もう数えるほどしかないのかもしれない。

 

 そのことは、今は口にしなかった。

 

 伊集院は紙を手に取る。

 

 「受験終了後の状況を確認する」

 

 「電話でもしただろ」

 

 「継続確認だ」

 

 「本当に確認多いな」

 

 「必要だからだ」

 

 「体調は問題なし。自己採点は一応した。まだ結果待ちのところはあるけど、やることはやった」

 

 「睡眠は」

 

 「戻ってきた」

 

 「食事は」

 

 「普通」

 

 「普通という表現は曖昧だ」

 

 「三食食べてる」

 

 「よろしい」

 

 伊集院は真面目に記録している。

 

 悠人はその様子を見ながら、鞄の中の包みを意識した。

 

 いつ渡すか。

 

 去年は、確認の終わり際だった。

 

 今年もそのくらいでいい。

 

 伊集院は、確認項目を一通り聞き終えると、紙を揃えた。

 

 「受験終了後の状況に大きな問題はないと判断する」

 

 「評価は?」

 

 「適切だ」

 

 「褒めてる?」

 

 「評価だ」

 

 「だと思った」

 

 いつもの形で会話が終わりかけた。

 

 悠人はそこで、鞄から包みを取り出した。

 

 「そうだ、これ」

 

 伊集院の視線が止まる。

 

 「何だ」

 

 「今年も返す」

 

 伊集院は、ほんの少しだけ目を見開いた。

 

 「今年も、か」

 

 その言い方に、悠人は少しだけ笑った。

 

 「去年も返しただろ」

 

 「……覚えているのか」

 

 「去年のも覚えてるし」

 

 伊集院は黙った。

 

 その沈黙が、去年と今年をつないでいるようだった。

 

 悠人は包みを机の上に置く。

 

 「この前のチョコのお返し」

 

 「糖分補給だと言ったはずだ」

 

 「だから、去年は糖分補給のお返しって言った」

 

 「なら、今年もそうだろう」

 

 「今年は少し違う」

 

 伊集院の指が、紙の端で止まった。

 

 「違う?」

 

 「去年のも覚えてる。去年のチョコも嬉しかった」

 

 伊集院は何も言わない。

 

 悠人は続けた。

 

 「でも今年のは、受験のことを考えて選んでくれただろ」

 

 「……受験期の糖分補給用だ」

 

 「うん」

 

 「集中力維持のために必要な措置だ」

 

 「うん」

 

 「一度に食べる必要がないように、個包装を選んだだけだ」

 

 「うん」

 

 「手が汚れにくい方が、試験勉強中に扱いやすい」

 

 「うん」

 

 「試験前に過剰摂取しないように、量を調整しやすい形式にした」

 

 「うん」

 

 伊集院はそこまで言って、少しだけ表情を変えた。

 

 自分で説明しながら、それがどれほど高瀬のことを考えたものだったかを認めてしまっている。

 

 悠人は、そこを責めなかった。

 

 ただ、静かに言った。

 

 「そういうのが、嬉しかったから返したかった」

 

 伊集院は動かなかった。

 

 資料室の空気が、少しだけ止まったように感じた。

 

 「……礼を言われる内容ではない」

 

 ようやく返ってきた声は、小さかった。

 

 「でも、助かった」

 

 「それは前にも聞いた」

 

 「何度でも言う」

 

 「君は、時々本当に扱いづらい」

 

 「よく言われる」

 

 「主に私が言っている」

 

 「知ってる」

 

 いつもの返し。

 

 けれど、伊集院の声には揺れが残っていた。

 

 悠人は包みを少しだけ押し出す。

 

 「焼き菓子。紅茶に合いそうだったから」

 

 「去年も似たようなことを言っていたな」

 

 「覚えてるんだ」

 

 「確認事項だ」

 

 「じゃあ、今年も確認事項だな」

 

 伊集院は目を伏せた。

 

 「……君は、本当に覚えているな」

 

 「覚えてるよ」

 

 短く答えた。

 

 伊集院はその言葉にまた揺れたように見えた。

 

 去年のバレンタイン。

 去年のホワイトデー。

 今年のバレンタイン。

 そして今年のホワイトデー。

 

 一年越しに、同じ季節が繰り返されている。

 

 でも、同じではない。

 

 去年は、互いに言い訳を残しながら渡した。

 

 今年は、言い訳を使いながらも、もうかなり意味が見えている。

 

 伊集院は包みを見つめる。

 

 「受け取っていいのか」

 

 「もちろん」

 

 「確認協力への補助に対する返礼としては、過剰ではないな」

 

 「今年もその評価なんだな」

 

 「評価だ」

 

 「褒めてる?」

 

 「評価だ」

 

 悠人は笑った。

 

 伊集院は包みを手に取った。

 

 その動作は、少しだけ丁寧だった。

 

 去年もそうだった。

 

 手元の包みを、言葉よりずっと大切そうに扱う。

 

 悠人は、それを見るだけで十分だった。

 

 「一つ確認しておく」

 

 伊集院が言った。

 

 「何?」

 

 「君は、私が渡したチョコを適切に消費したのか」

 

 「消費状況確認?」

 

 「そうだ」

 

 「勉強の合間に食べた。試験の日にも持っていった。食べすぎてない」

 

 「ならよい」

 

 「美味かった」

 

 「味の報告は不要だ」

 

 「でも報告する」

 

 「去年も聞いた気がする」

 

 「今年も言う」

 

 伊集院は少しだけ困ったような顔をした。

 

 それでも、拒まなかった。

 

 「……好きにしろ」

 

 「うん」

 

 悠人は、もう一つ言うか迷った。

 

 好き。

 

 その言葉が頭をよぎった。

 

 でも、まだそこまでは言わなかった。

 

 今は、返したかったから返した。

 

 それで十分だった。

 

 けれど、受け取ってほしい気持ちは本物だった。

 

 「伊集院」

 

 「何だ」

 

 「今年も受け取ってくれて、ありがとな」

 

 伊集院は、すぐには返事をしなかった。

 

 「……返礼として受理する」

 

 「確認として?」

 

 「返礼として、だ」

 

 悠人は少しだけ驚いた。

 

 伊集院は視線を逸らす。

 

 「何だ」

 

 「いや。確認って言わなかったなと思って」

 

 「すべてを確認に分類する必要はない」

 

 「かなり進歩だな」

 

 「余計な評価だ」

 

 「評価じゃなくて感想」

 

 「どちらでも同じだ」

 

 伊集院はそう言ったが、包みを机の端ではなく、自分の鞄のそばへ置いた。

 

 帰る時に忘れない位置。

 

 それを見て、悠人は少しだけ嬉しくなった。

 

 確認は終わった。

 

 と言っても、二人はすぐには立たなかった。

 

 資料室には、三月の夕方の光が入っている。

 

 冬より少しだけ柔らかい光。

 

 もうすぐ卒業式だ。

 

 その言葉は、まだ口にしない。

 

 けれど、二人ともわかっていた。

 

 この資料室で、同じように包みを渡したり、確認だと言い張ったりする時間は、もう長くはない。

 

 伊集院が水筒から紅茶を注いだ。

 

 紙コップを一つ、悠人の前へ置く。

 

 「長時間の確認ではないが、糖分摂取後の水分補給は必要だ」

 

 「今日は俺が渡した方なのに?」

 

 「今はまだ食べていない」

 

 「じゃあ、これは?」

 

 「受験終了後の体調管理だ」

 

 「お茶会じゃないのか」

 

 伊集院の目が鋭くなる。

 

 「違う」

 

 「即答だな」

 

 「当然だ」

 

 悠人は紅茶を受け取った。

 

 温かかった。

 

 去年は、ホワイトデーにお返しを渡した時、伊集院が紅茶を飲んでいたことを理由に焼き菓子を選んだ。

 

 今年も、紅茶がある。

 

 偶然かもしれない。

 

 偶然ではないのかもしれない。

 

 どちらでもよかった。

 

 「じゃあ、紅茶に合うか確認してくれ」

 

 悠人が言うと、伊集院は包みを見た。

 

 「今か」

 

 「今じゃなくてもいいけど」

 

 「……確認としては、後日でも可能だ」

 

 「じゃあ後日感想聞く」

 

 「味の報告は不要だ」

 

 「俺は聞きたい」

 

 伊集院は黙った。

 

 その後、小さく言う。

 

 「……必要があればな」

 

 「必要、あるといいな」

 

 言ってから、悠人は少しだけ自分で驚いた。

 

 伊集院も、明らかに反応した。

 

 資料室の空気が、また少しだけ変わる。

 

 悠人はすぐに言葉を足した。

 

 「味の確認の話だけど」

 

 「わかっている」

 

 伊集院はそう言った。

 

 本当にわかっていたのかは、わからない。

 

 だが、彼女はそれ以上追及しなかった。

 

 紅茶を一口飲む。

 

 温かい。

 

 外はまだ寒いが、資料室の中だけは少し落ち着いている。

 

 伊集院は、包みを丁寧に鞄の中へしまった。

 

 「高瀬」

 

 「何だ」

 

 「受験の結果が出たら、報告しろ」

 

 「もちろん」

 

 「進路に関わる重要事項だ」

 

 「確認対象だから?」

 

 「そうだ」

 

 「それだけ?」

 

 伊集院は少しだけ黙った。

 

 「……それだけではないかもしれない」

 

 悠人は伊集院を見た。

 

 伊集院は視線を逸らしたままだった。

 

 それ以上は言わなかった。

 

 だが、悠人には十分だった。

 

 「わかった。ちゃんと報告する」

 

 「ならよい」

 

 その日の確認は、そこで本当に終わった。

 

 資料室を出る時、悠人は振り返った。

 

 伊集院は机の上を片づけている。

 

 鞄の中には、悠人が渡した焼き菓子が入っている。

 

 去年も今年も、受け取ってくれた。

 

 そのことが、静かに嬉しかった。

 

 廊下に出ると、三月の空気が少しだけ冷たかった。

 

 鞄の中にもうチョコはほとんど残っていない。

 

 けれど、今年も返せた。

 

 去年も覚えている。

 

 今年も覚えている。

 

 伊集院から送られた気遣いが嬉しかったから、返したかった。

 

 それだけは、はっきりしていた。

 

 高瀬悠人は旧校舎の階段を下りながら、もうすぐ卒業なのだと思った。

 

 その前に、まだ何かがある気がした。

 

 でも今は、二度目のホワイトデーに、ちゃんと返せたことだけを考えていた。

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