伊集院レイは、伝説の木の下で少女になる   作:エーアイ

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幕間:伊集院レイは、返された意味を受理できない

 伊集院レイは、屋敷へ戻ると、そのまま自室へ向かった。

 

 廊下は静かだった。

 

 三月の夜は、冬ほど冷たくはない。

 けれど、春と呼ぶにはまだ早い。

 

 屋敷の中には、いつもの整えられた静けさがある。

 

 レイは自室の扉を閉め、鞄を机のそばへ置いた。

 

 そして、鞄の中から小さな包みを取り出す。

 

 高瀬悠人から渡されたもの。

 

 ホワイトデーの焼き菓子。

 

 机の上に置く。

 

 落ち着いた包装だった。

 

 派手ではない。

 高価すぎるわけでもない。

 けれど、適当に選んだものではないことはわかる。

 

 去年も、焼き菓子だった。

 

 今年も、焼き菓子だった。

 

 だが、同じではない。

 

 去年、高瀬はこう言った。

 

 この前の糖分補給のお返し。

 

 伊集院が、バレンタインのチョコを糖分補給だと言い張ったから。

 高瀬も、その建前に乗って返した。

 

 それは、優しい返し方だった。

 

 意味を暴かない。

 けれど、ちゃんと返す。

 

 今年は違った。

 

 今年も返す。

 

 高瀬はそう言った。

 

 去年のも覚えてるし。

 

 そう言った。

 

 そして。

 

 そういうのが、嬉しかったから返したかった。

 

 レイは、机の前で動きを止めた。

 

 嬉しかったから。

 

 その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。

 

 高瀬は、ただ義務で返したのではなかった。

 

 バレンタインにもらったから、ホワイトデーに返す。

 そういう形式だけではなかった。

 

 嬉しかったから返したかった。

 

 高瀬は、そう言った。

 

 レイは椅子に座る。

 

 目の前には、焼き菓子の包み。

 

 その隣には、今日の確認記録を書くための紙がある。

 

 受験終了後の状況確認。

 体調。

 自己採点。

 睡眠。

 食事。

 受験日程終了後の状態。

 

 そこまでは書ける。

 

 高瀬の状態には大きな問題はなかった。

 受験は予定通り進んでいる。

 体調も崩していない。

 進路に関する報告は、結果待ち。

 

 確認としては、それで十分だった。

 

 だが、焼き菓子のことは、どこに書けばいいのか。

 

 返礼として受理する。

 

 自分は、そう言った。

 

 確認として受理する、ではなかった。

 

 なぜ、そう言ったのか。

 

 レイは、自分の言葉を思い返す。

 

 返礼として。

 

 それは、つまり。

 

 高瀬の行為を、確認の一部ではなく、返礼として受け取ったということではないのか。

 

 去年なら、確認として受理する、と言ったかもしれない。

 

 確認協力への補助に対する返礼。

 糖分補給に対する形式上の返礼。

 そう処理できた。

 

 今年も、そう言えたはずだ。

 

 なのに、言わなかった。

 

 返礼として受理する。

 

 その言葉は、少しだけ正直すぎた。

 

 「……形式上の返礼だ」

 

 レイは呟く。

 

 だが、その言葉は弱かった。

 

 高瀬は、形式だけで返したのではない。

 

 嬉しかったから返したかった。

 

 そう言った。

 

 なら、これは単なる形式ではない。

 

 レイは包みを見つめた。

 

 今年のバレンタインに、自分が渡したもの。

 

 小さな個包装のチョコレートの詰め合わせ。

 

 受験期の糖分補給用。

 集中力維持。

 一度に食べる必要はない。

 手が汚れにくい。

 試験前に過剰摂取しないように、量を調整しやすい。

 

 必要な計算。

 

 そう言った。

 

 実際、計算はした。

 

 高瀬が勉強の合間に食べやすいものを選んだ。

 試験当日に邪魔にならないように考えた。

 甘すぎないものを選んだ。

 個包装にした。

 

 全部、理由はあった。

 

 けれど高瀬は、その理由の奥にあるものを受け取ってしまった。

 

 受験期を考えて選んだこと。

 

 個包装にしたこと。

 

 食べやすくしたこと。

 

 一度に食べなくていいようにしたこと。

 

 それらを、高瀬は「嬉しかった」と言った。

 

 レイは顔を伏せた。

 

 逃げ場がなかった。

 

 糖分補給だと言い張ることはできる。

 

 必要な計算だと言うこともできる。

 

 確認対象の状態管理だと整理することもできる。

 

 だが、高瀬はそれを全部聞いたうえで、嬉しかったと言った。

 

 建前を否定しないまま、その奥の気遣いを受け取った。

 

 それが、嬉しかった。

 

 そして、苦しかった。

 

 「……君は、いつもそうだ」

 

 レイは小さく呟いた。

 

 高瀬は、意味を押しつけない。

 

 急かさない。

 暴かない。

 無理に言葉にさせない。

 

 けれど、見ている。

 

 受け取っている。

 

 自分が隠したはずのものを、まるで乱暴に扱うことなく、静かに拾い上げる。

 

 そして、こう言う。

 

 嬉しかったから返したかった。

 

 レイは、焼き菓子の包みに手を伸ばした。

 

 食べるものだ。

 

 高瀬は、食べるために渡した。

 

 紅茶に合いそうだったから、と言った。

 

 ならば、食べるべきだ。

 

 贈り物として受け取った以上、食べて感想を持つのは自然である。

 

 確認としても、味の確認は可能だ。

 

 高瀬が後日聞くと言っていた。

 

 必要があればな。

 

 自分はそう返した。

 

 必要、あるといいな。

 

 高瀬はそう言った。

 

 あの言葉を思い出し、レイの指が止まる。

 

 必要があるといい。

 

 味の確認の話だった。

 

 そう言い訳することはできる。

 

 だが、高瀬が本当にそれだけを言ったのかどうか、レイにはわからなかった。

 

 いや、わからないふりをしているだけかもしれない。

 

 レイは包みを解いた。

 

 中には、個包装の焼き菓子が入っている。

 

 小さなフィナンシェとクッキー。

 

 どれも食べやすそうだった。

 

 紅茶に合う。

 

 見ただけでわかる。

 

 高瀬は、今年もちゃんと見て選んでいた。

 

 去年と同じように。

 

 いや、去年よりも自然に。

 

 レイは紅茶を淹れた。

 

 湯気が静かに立つ。

 

 焼き菓子を一つ取り出す。

 

 すぐに食べるのが、少し惜しい。

 

 食べたらなくなる。

 

 去年の焼き菓子の空き箱は、まだ引き出しの奥にある。

 

 本来なら、空き箱など残す必要はない。

 

 けれど、捨てられなかった。

 

 今年も残すのか。

 

 そんなことを考えて、レイは自分に呆れた。

 

 焼き菓子は食べるものだ。

 

 残すためのものではない。

 

 高瀬も、食べてほしいと思って渡したはずだ。

 

 レイは一つだけ口にした。

 

 甘さは控えめだった。

 

 紅茶に合う。

 

 本当に、合った。

 

 「……また、見ていたのか」

 

 小さく呟く。

 

 高瀬は、紅茶を飲む自分を覚えていた。

 

 去年も。

 

 今年も。

 

 本を読むことを覚えていて、栞を渡した。

 今年はブックカバーを渡した。

 紅茶を飲むことを覚えていて、焼き菓子を選んだ。

 受験期の気遣いを受け取って、今年も返した。

 

 高瀬は、本当に覚えている。

 

 レイは焼き菓子をもう一つ手に取ろうとして、やめた。

 

 全部は食べられなかった。

 

 今食べてしまうのが惜しい。

 

 そう思ってしまう。

 

 レイは包みを丁寧に戻した。

 

 その時、机の端に置かれた封筒が視界に入った。

 

 卒業後移行準備資料

 外部関係整理に関する確認事項

 

 呼吸が少しだけ止まる。

 

 ホワイトデーの焼き菓子。

 

 その隣に、外部関係整理の資料。

 

 高瀬が「返したかった」と言ってくれたもの。

 高瀬に「忘れるかどうか」を提示する資料。

 

 同じ机の上に、その二つがある。

 

 あまりにも、意味が違った。

 

 レイは資料へ手を伸ばさなかった。

 

 だが、中身は覚えている。

 

 高瀬様への説明時期について、正式な検討が始まりました。

 

 倉橋の声。

 

 秘密保持。

 接触継続の可否。

 必要措置。

 本人への選択提示。

 強制ではない。

 

 記憶処理。

 

 高瀬は覚えている。

 

 去年のチョコを。

 去年のホワイトデーを。

 今年のチョコを。

 今年のホワイトデーを。

 伊集院が受験期のことを考えて選んだことを。

 

 それを全部覚えている高瀬に、もうすぐ忘れる選択肢が提示される。

 

 どうして。

 

 レイは、机の上の焼き菓子と資料を見比べた。

 

 どうして、覚えてくれている人に、忘れる選択肢を差し出さなければならないのか。

 

 高瀬は、忘れたがっているわけではない。

 

 少なくとも、今の高瀬はそう見えなかった。

 

 去年も覚えている。

 今年も覚えている。

 嬉しかったから返したかった。

 

 そう言った高瀬に、伊集院家は言うのだろう。

 

 忘れることも選べる、と。

 

 それは高瀬本人のためだと。

 

 高瀬の人生を守るためだと。

 

 伊集院家の事情から離れる道だと。

 

 強制ではない、と。

 

 レイは唇を結んだ。

 

 理屈はわかる。

 

 高瀬は秘密を知っている。

 卒業後は学校という管理された環境を離れる。

 自分は渡米する。

 高瀬が普通の大学生活を送るために、伊集院家から離れる選択肢を与える。

 

 そう説明されれば、完全には否定できない。

 

 高瀬の意思を確認する。

 

 それも正しい。

 

 強制ではない。

 

 その点だけを見れば、伊集院家は高瀬を尊重しているようにも見える。

 

 だが、感情は拒否していた。

 

 忘れてほしくない。

 

 その言葉は、もう胸の中でははっきりしている。

 

 けれど、それを高瀬に言うことが、彼の選択を縛るのだとしたら。

 

 自分のために、忘れないでほしいと言うことが。

 

 高瀬の人生から、伊集院家の影を切り離す機会を奪うことになるのだとしたら。

 

 レイは動けなかった。

 

 今すぐ資料を破り捨てることはできない。

 

 伊集院家の決定に、正面から反発することもできない。

 

 高瀬へ先にすべてを話すことも、まだできない。

 

 強制ではない。

 

 本人の意思確認。

 

 その理屈がある限り、レイは完全には止められない。

 

 だが、それでも。

 

 机の上の焼き菓子を見る。

 

 高瀬は、今年も返してくれた。

 

 去年も覚えていると言った。

 

 嬉しかったから返したかったと言った。

 

 それなのに、次に高瀬に差し出されるものは、返礼ではない。

 

 忘れるかどうかの選択肢だ。

 

 レイは、焼き菓子の包みを閉じた。

 

 まだ、全部は食べられなかった。

 

 食べればなくなる。

 

 けれど、高瀬は覚えている。

 

 去年のチョコも、今年のチョコも、食べてなくなったはずなのに、覚えている。

 

 なら、この焼き菓子も、いつか食べてなくなっても、覚えていられるのだろうか。

 

 自分は。

 

 高瀬は。

 

 レイは目を伏せた。

 

 覚えていてほしい。

 

 声には出さない。

 

 まだ、出せない。

 

 その言葉は、高瀬に言うには重すぎる。

 

 けれど、もう胸の中では誤魔化せなかった。

 

 覚えていてほしい。

 

 去年も。

 今年も。

 チョコも。

 ホワイトデーも。

 資料室も。

 紅茶も。

 焼き菓子も。

 嬉しかったから返したかった、と言ってくれたことも。

 

 全部。

 

 伊集院レイは、返された意味さえ受理できないまま、机の上の資料を見つめるしかなかった。

 

 包みの中の焼き菓子は、まだ一つしか減っていない。

 

 紅茶は、少し冷め始めている。

 

 そして外部関係整理の資料だけが、静かにそこにあった。

 

 まるで、次に高瀬へ差し出されるものが何であるかを、もう知っているかのように。

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