伊集院レイは、伝説の木の下で少女になる   作:エーアイ

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高瀬悠人は、忘れる選択肢を提示される

 ホワイトデーの後、卒業式までは思っていたより短かった。

 

 三月の学校は、もう学校というより、終わりを待つ場所のようになっていた。

 

 登校日は少ない。

 教室に集まる生徒の数もまばらだった。

 黒板の端には卒業式に関する連絡が書かれている。

 廊下には、片づけられた掲示物の跡が残っていた。

 

 高瀬悠人は、自分の机に座りながら、何となく教室を見回した。

 

 ここで授業を受けた。

 友人と話した。

 進路希望調査を書いた。

 バレンタインの騒ぎを聞いた。

 

 けれど、三年生の一年を思い返そうとすると、真っ先に浮かぶのは教室ではなかった。

 

 旧校舎の資料室。

 

 伊集院レイの声。

 

 遅い。

 時間通りだ。

 私より後に来た。

 

 そのやり取りばかりが、妙にはっきり残っている。

 

 その日の放課後、悠人は机の中にカードを見つけた。

 

 いつもの白いカード。

 

 けれど、筆跡は伊集院のものではなかった。

 

 放課後、伊集院邸へお越しください。

 卒業後に関するご説明がございます。

 倉橋

 

 悠人は、しばらくそのカードを見つめた。

 

 伊集院レイではない。

 

 倉橋。

 

 それだけで、いつもの確認とは違うとわかった。

 

 資料室ではない。

 伊集院邸。

 卒業後に関する説明。

 

 悠人はカードを鞄にしまった。

 

 何となく、胸の奥が落ち着かなかった。

 

 伊集院からの呼び出しなら、何かしらの言い訳がある。

 

 確認。

 体調管理。

 行動予定。

 糖分補給。

 受験終了確認。

 

 どんなに変な理由でも、伊集院なら伊集院らしいと思えた。

 

 けれど今回は違う。

 

 倉橋が呼んでいる。

 

 そして、伊集院本人の名前がない。

 

 放課後、悠人は伊集院邸へ向かった。

 

 クリスマスパーティで来たばかりの場所だった。

 

 去年よりは慣れている。

 それでも、普段の街とは空気が違う。

 

 門をくぐると、以前と同じように屋敷は整えられていた。

 

 華やかなパーティの夜とは違う。

 

 静かで、広くて、どこか冷たい。

 

 呼び鈴を押す前に、扉が開いた。

 

 倉橋がそこに立っていた。

 

 黒く整えられた髪。

 隙のない姿勢。

 穏やかな表情。

 

 「高瀬様。お越しいただき、ありがとうございます」

 

 「いえ」

 

 悠人は軽く頭を下げた。

 

 「本日は、レイ様は」

 

 そこまで言って、少し言葉に詰まる。

 

 倉橋は静かに答えた。

 

 「本日のご説明に、レイ様は同席されません」

 

 「……そうですか」

 

 予想していなかったわけではない。

 

 それでも、その一言は重かった。

 

 倉橋は一歩引き、悠人を屋敷の中へ案内した。

 

 「こちらへ」

 

 通されたのは、以前も使った応接室だった。

 

 紅茶が用意されている。

 

 しかし、伊集院はいない。

 

 それだけで、部屋が以前より広く感じた。

 

 倉橋が向かいに座る。

 

 悠人は、少し背筋を伸ばした。

 

 「高瀬様」

 

 倉橋の声は穏やかだった。

 

 けれど、いつもの柔らかさだけではない。

 

 「本日は、卒業後に関する重要なご説明をさせていただきます」

 

 「はい」

 

 悠人は頷いた。

 

 正直、何を言われるのかよくわかっていなかった。

 

 卒業後。

 

 伊集院が答えられなかった言葉。

 

 連絡くらいは取れるんじゃないのか。

 

 そう聞いた時、伊集院は言った。

 

 今は、答えられない。

 

 その答えの続きなのかもしれない。

 

 倉橋はゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。

 

 「高瀬様は、レイ様の秘密をご存じです」

 

 「はい」

 

 「そして、伊集院家の事情の一端にも触れておられます」

 

 悠人は黙っていた。

 

 伊集院が高校卒業までは外で男子として振る舞う必要があること。

 伊集院家のしきたり。

 体面。

 後継者としての印象。

 卒業後の渡米。

 

 全部を知っているわけではない。

 

 でも、何も知らないわけでもない。

 

 「これまでは、学校という環境がございました」

 

 倉橋は続ける。

 

 「レイ様も高瀬様も、同じ学校に在籍されておりました。資料室での確認も、学校生活の延長にございました」

 

 資料室。

 

 その言葉を聞いて、悠人は少しだけ目を伏せた。

 

 「しかし卒業後は、その環境を離れることになります」

 

 「……はい」

 

 「レイ様は、卒業後、渡米の予定がございます」

 

 「聞いています」

 

 「高瀬様も、ご自身の進路へ進まれる」

 

 「はい」

 

 「その上で、伊集院家としては、高瀬様が今後も記憶を持ち続けることについて、リスクがあると判断しております」

 

 悠人は、そこで少しだけ顔を上げた。

 

 「リスク、ですか」

 

 「はい」

 

 倉橋は静かに頷く。

 

 「高瀬様が何かを漏らすと疑っている、という意味ではございません」

 

 「……」

 

 「むしろ、私は高瀬様を信用しております」

 

 その言葉は、以前と同じだった。

 

 倉橋は、高瀬を試すように話したことがある。

 

 しかし、責める人ではなかった。

 

 「ですが、秘密を知るということは、それ自体が負担になる場合がございます。伊集院家の事情に関わることで、高瀬様ご自身の卒業後に影響が及ぶ可能性もございます」

 

 悠人は、まだ理解しきれないまま聞いていた。

 

 言葉はわかる。

 

 秘密。

 負担。

 卒業後。

 影響。

 

 けれど、それが自分に何を求めているのかは、すぐにはわからなかった。

 

 倉橋は、少し間を置いた。

 

 そして言った。

 

 「伊集院家には、記憶処理という選択肢がございます」

 

 部屋の中の音が、そこで止まったように感じた。

 

 記憶処理。

 

 言葉の意味はわかる。

 

 だが、あまりに現実味がなかった。

 

 悠人は倉橋を見た。

 

 「記憶、処理?」

 

 「はい」

 

 「それは……」

 

 言葉が続かなかった。

 

 倉橋は静かに説明する。

 

 「強制ではございません」

 

 最初に、そう言った。

 

 「高瀬様に対して、何かを無理に行うという話ではございません。あくまで、卒業後に向けた選択肢の一つとして、本人の意思を確認させていただきたいというものです」

 

 「選択肢」

 

 「はい」

 

 倉橋の声は、どこまでも丁寧だった。

 

 だからこそ、悠人は余計に混乱した。

 

 「受ければ、高瀬様は伊集院家の事情から離れることができます。レイ様の秘密に関する記憶、伊集院家の内部事情に関わる記憶を整理し、通常の卒業後へ進むことができる」

 

 通常の卒業後。

 

 その言葉が、妙に遠く聞こえた。

 

 「受けなければ」

 

 倉橋は続ける。

 

 「高瀬様は、これまで知ったことを抱えたまま進むことになります。もちろん、その場合も伊集院家として必要な範囲での確認は行われるでしょう。ですが、秘密を知る者としての立場は残ります」

 

 悠人は、手元を見た。

 

 紅茶には手をつけていない。

 

 少し冷め始めている。

 

 「それを、俺に選べと?」

 

 自分の声は、思ったより小さかった。

 

 倉橋は頭を下げる。

 

 「はい」

 

 「伊集院は、知っているんですか」

 

 「レイ様は、説明時期の検討が進んでいることをご存じです」

 

 「今日のことも?」

 

 倉橋は少しだけ沈黙した。

 

 「レイ様には、同席されない形で進める旨をお伝えしております」

 

 つまり、知っている。

 

 けれど、ここにはいない。

 

 悠人は、そのことをどう受け止めればいいのかわからなかった。

 

 伊集院が逃げたとは思わない。

 

 たぶん、逃げたのではない。

 

 同席できなかった。

 

 あるいは、同席しない方がいいと判断された。

 

 高瀬に選ばせるために。

 

 伊集院がそこにいれば、選択が歪むから。

 

 そういうことなのかもしれない。

 

 でも、よくわからなかった。

 

 本当に、何を言われているのか、すぐにはわからなかった。

 

 記憶処理。

 忘れる選択肢。

 強制ではない。

 本人の意思確認。

 伊集院家の事情から離れる。

 秘密を抱え続ける。

 

 単語だけが、頭の中に残る。

 

 「高瀬様」

 

 倉橋が静かに呼ぶ。

 

 「本日、この場でお答えいただく必要はございません」

 

 悠人は顔を上げた。

 

 「いいんですか」

 

 「はい。軽く決められることではございません」

 

 それは、その通りだった。

 

 忘れる。

 

 そんなことを、今すぐ決められるわけがない。

 

 忘れない。

 

 その言葉も、今すぐ軽く言えるものではない。

 

 倉橋は言葉を続けた。

 

 「卒業式までに、改めてご意思を確認させていただくことになるかと存じます。それまでに、お考えください」

 

 「……わかりました」

 

 悠人は、そう答えるしかなかった。

 

 理解したわけではない。

 

 納得したわけでもない。

 

 ただ、今ここで答えるべきではないことだけはわかった。

 

 一度、持ち帰る。

 

 考える。

 

 そうするしかない。

 

 応接室を出る時、倉橋は深く頭を下げた。

 

 「高瀬様」

 

 「はい」

 

 「このようなご説明となりましたこと、お詫び申し上げます」

 

 「倉橋さんが謝ることじゃないと思います」

 

 「いえ」

 

 倉橋は静かに首を振る。

 

 「それでも、申し訳ございません」

 

 悠人は何も言えなかった。

 

 玄関を出る。

 

 伊集院邸の門をくぐる。

 

 外の空気は、思っていたより冷たかった。

 

 三月なのに、夜はまだ冬の名残がある。

 

 悠人は駅へ向かって歩いた。

 

 記憶処理。

 

 忘れる選択肢。

 

 何度も言葉が浮かぶ。

 

 でも、実感がついてこない。

 

 本当に、何を選べと言われているのか。

 

 自分が忘れるということが、どういうことなのか。

 

 伊集院の秘密を忘れる。

 

 伊集院家の事情を忘れる。

 

 それだけで済むのか。

 

 資料室はどうなる。

 

 確認はどうなる。

 

 クリスマスは。

 

 水族館は。

 

 花火は。

 

 バレンタインは。

 

 ホワイトデーは。

 

 高瀬は歩きながら、鞄に手を触れた。

 

 中には、伊集院からもらったペンケースがある。

 

 去年のペンも入っている。

 

 自分の進路希望調査を書いたペン。

 受験に持っていったペン。

 試験会場で使ったペン。

 

 それは、伊集院からもらったものだ。

 

 忘れるということは、このペンの意味も変わるのだろうか。

 

 ペンケースも。

 

 受験期における筆記具管理の補助。

 

 そう言い張って渡されたもの。

 

 チョコもあった。

 

 受験期間中の糖分補給。

 

 高瀬は、それを食べた。

 

 ホワイトデーに返した。

 

 嬉しかったから返したかった、と言った。

 

 あの時の伊集院の顔を覚えている。

 

 それも、忘れるのか。

 

 駅に着くまで、答えは出なかった。

 

 家に帰っても、すぐには誰にも話せなかった。

 

 自分の部屋に入る。

 

 鞄を置く。

 

 机の前に座る。

 

 受験が終わってから、机の上は少し片づいていた。

 

 参考書はまだある。

 ノートもある。

 合否の書類を待つための封筒もある。

 

 自分の未来。

 

 高瀬悠人の進路。

 

 家から通える大学。

 地元か近隣。

 学費が現実的。

 自分で選んだ道。

 

 そのことと、伊集院の事情は別のはずだった。

 

 自分は自分の進路を進む。

 

 伊集院は伊集院家の事情を背負っている。

 

 そう考えていた。

 

 でも、いつの間にか、その二つは完全には切り離せなくなっている。

 

 悠人はペンケースを机の上に置いた。

 

 開く。

 

 中のペンを見る。

 

 伊集院からもらったペン。

 

 それを手に取る。

 

 思い出す。

 

 最初は、巻き込まれただけだった。

 

 秘密を知ってしまった。

 

 資料室に呼び出された。

 

 退学という言葉まで出された。

 

 正直、面倒だった。

 

 何で自分が、と思った。

 

 伊集院の確認に付き合うことが、ただ厄介なことに感じた。

 

 それなのに。

 

 高瀬悠人の高校生活を思い返すと、妙に伊集院とのことばかりが残っている。

 

 旧校舎の資料室。

 

 本屋。

 

 喫茶店。

 

 夏祭り。

 

 クリスマスパーティ。

 

 バレンタイン。

 

 ホワイトデー。

 

 水族館。

 

 雨の日の傘。

 

 花火。

 

 お茶会ではない資料室。

 

 進路を書き直した日。

 

 二度目のクリスマス。

 

 年明けの電話。

 

 受験前の確認。

 

 今年のチョコ。

 

 二度目のホワイトデー。

 

 最初は嫌々だったはずなのに。

 

 面倒だと思っていたはずなのに。

 

 気づけば、一番はっきり残っているのは、伊集院と過ごした時間ばかりだった。

 

 悠人はペンを机に置いた。

 

 「忘れる、か」

 

 声に出してみる。

 

 それでも、実感は薄い。

 

 だが、怖さだけは少しずつ形になってきた。

 

 忘れれば、楽になるのかもしれない。

 

 伊集院家の事情を背負わずに済む。

 秘密を守る必要もなくなる。

 卒業後、普通に大学へ進める。

 伊集院が渡米しても、自分は関係のない人間として進める。

 

 それは、たぶん正しい。

 

 倉橋の説明は、脅しではなかった。

 

 高瀬のため、という理屈も含まれていた。

 

 それはわかる。

 

 でも。

 

 忘れた後の自分は、今の自分と同じなのだろうか。

 

 伊集院との時間を面倒だと思っていた自分だけが残るのか。

 

 それとも、その面倒だった時間が、いつの間にか大事になっていたことまで消えるのか。

 

 悠人は、机の引き出しを開けた。

 

 中には、水族館の半券があった。

 

 何となく財布から出して、ここに入れていたもの。

 

 捨てていなかった。

 

 水槽の青。

 クラゲ。

 限定ゼリー。

 伊集院が確認として有意義だったと言い張ったこと。

 

 それも覚えている。

 

 引き出しの奥には、クリスマスの包装の名残も少し残っている。

 

 ブックカバーを買った時の小さな控え。

 別に残す必要などなかったもの。

 

 それでも、捨てずにいた。

 

 悠人は引き出しを閉じた。

 

 自分は、思っていた以上に残している。

 

 物も。

 

 記憶も。

 

 伊集院との時間を。

 

 忘れない、と言うのは簡単かもしれない。

 

 でも、それは本当に簡単なことではない。

 

 忘れないということは、伊集院家の事情も、秘密も、卒業後の重さも持つということだ。

 

 伊集院のためだけに言う言葉ではない。

 

 自分の未来にも関わる。

 

 自分の進路にも。

 

 家にも。

 

 大学生活にも。

 

 これからの自分にずっとついてくるかもしれない。

 

 だから、軽く言ってはいけない。

 

 悠人は椅子にもたれ、天井を見た。

 

 伊集院は、同席しなかった。

 

 それは、なぜだろう。

 

 自分に自由に選ばせるためか。

 

 それとも、彼女自身がそこにいられなかったのか。

 

 伊集院なら、どう言うだろう。

 

 確認だ。

 

 必要な手続きだ。

 

 高瀬の意思確認だ。

 

 そう言うのかもしれない。

 

 でも、本当はどう思っているのだろう。

 

 忘れてほしいのか。

 

 忘れないでほしいのか。

 

 その答えを、悠人はまだ聞いていない。

 

 聞いてはいけないのかもしれない。

 

 聞けば、選択が揺れる。

 

 でも、聞かないまま選べるのか。

 

 わからなかった。

 

 高瀬悠人は、机の上のペンを見つめた。

 

 伊集院からもらったペン。

 

 ペンケース。

 

 水族館の半券。

 

 ホワイトデーの記憶。

 

 受験前に渡されたチョコ。

 

 普段通りに解答すればよい、という声。

 

 今年も返せた焼き菓子。

 

 どれも、今の自分の中に残っている。

 

 忘れるか。

 

 忘れないか。

 

 その答えは、まだ出なかった。

 

 出してはいけない気がした。

 

 軽く決めることではない。

 

 倉橋の言った通りだった。

 

 悠人はペンをペンケースに戻した。

 

 そして、机の上に置いたまま、しばらく見つめた。

 

 卒業式まで、あと少し。

 

 その前に、自分は選ばなければならない。

 

 伊集院レイとの記憶を、どうするのか。

 

 高瀬悠人は、まだ答えを出せなかった。

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