伊集院レイは、伝説の木の下で少女になる   作:エーアイ

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幕間:伊集院レイは、忘れてほしくないと言えない

 高瀬悠人に、選択肢が提示された。

 

 その報告を受けた時、伊集院レイは何も言えなかった。

 

 倉橋は、いつものように静かに告げた。

 

 高瀬様へのご説明は終了いたしました。

 本日中に結論を求めることはしておりません。

 卒業式までに、改めてご意思を確認する予定でございます。

 

 レイは、その言葉を聞きながら、自室の机の前に座っていた。

 

 机の上には、卒業後移行準備資料がある。

 

 外部関係整理。

 秘密保持。

 接触継続の可否。

 必要措置。

 記憶処理。

 

 何度も見た言葉だった。

 

 そして今、その言葉はもう紙の上だけのものではない。

 

 高瀬に向けられた。

 

 高瀬は聞いたのだ。

 

 記憶処理という言葉を。

 

 忘れるという選択肢を。

 

 「……高瀬は、何と」

 

 レイが問うと、倉橋は少しだけ間を置いた。

 

 「本日は、持ち帰って考えたいと」

 

 「そうか」

 

 「はい」

 

 「当然だな」

 

 「はい」

 

 当然だ。

 

 高瀬は、軽く答える人間ではない。

 

 忘れない。

 

 そう言ってほしいと、レイは思ってしまった。

 

 だが、それをその場で軽く言ってしまう高瀬ではないことも知っていた。

 

 彼は考える。

 

 自分の進路を。

 伊集院家の事情を。

 自分の未来を。

 レイのことを。

 これまでの記憶を。

 

 そのうえで、選ぶ。

 

 そういう人間だ。

 

 だからこそ、怖かった。

 

 倉橋は静かに頭を下げた。

 

 「強制ではございません」

 

 「わかっている」

 

 「高瀬様の意思を尊重する形でございます」

 

 「わかっている」

 

 「高瀬様にとって、秘密を抱え続けることが負担になる可能性もございます。伊集院家の事情から離れる道を示すことも、必要な配慮かと」

 

 「……わかっている」

 

 レイは三度、同じように答えた。

 

 わかっている。

 

 本当に、わかっている。

 

 高瀬に選ばせるという形式に、正面から反論できない。

 

 強制ではない。

 本人の意思確認。

 高瀬の人生を尊重する。

 負担から解放する選択肢を与える。

 

 理屈としては正しい。

 

 高瀬は伊集院家の人間ではない。

 

 本来なら、伊集院家のしきたりも、後継者問題も、外部への印象操作も、卒業後の渡米も、関係がない。

 

 彼には彼の進路がある。

 

 地元か近隣の大学へ進む。

 自分の生活を始める。

 普通の卒業後を迎える。

 

 そこに伊集院家の秘密を背負わせることが、本当に正しいのか。

 

 そう問われれば、レイは答えられない。

 

 だから、反論できない。

 

 けれど、感情はそれを拒否していた。

 

 倉橋が部屋を出ていった後、レイは一人になった。

 

 机の上の資料を見つめる。

 

 記憶処理。

 

 その言葉が、ひどく冷たく見えた。

 

 レイは椅子に座ったまま、ゆっくりと目を閉じた。

 

 高校生活。

 

 その言葉を考える。

 

 自分の高校生活は、どんなものだったのだろう。

 

 高校二年生の春まで、レイは伊集院くんとして過ごしていた。

 

 完璧な伊集院くん。

 

 女子生徒たちに囲まれ、教師から信頼され、周囲から特別な存在として見られる。

 

 立ち居振る舞い。

 言葉遣い。

 笑み。

 距離。

 視線。

 すべてを整えた。

 

 伊集院家のしきたり。

 

 高校を卒業するまでは、外では男子として振る舞う。

 

 家の体面。

 後継者としての印象。

 外部への見せ方。

 卒業までの暫定的な役割。

 

 それは、最初から決まっていたことだった。

 

 だから、レイは演じた。

 

 伊集院くんとして。

 

 間違えずに。

 崩さずに。

 疑われずに。

 

 それが、自分の高校生活だった。

 

 偽り。

 

 そう言い切るには、少し乱暴かもしれない。

 

 その時間にも努力はあった。

 責任もあった。

 守らなければならないものもあった。

 

 だが、伊集院レイという一人の少女として過ごしていたかと問われれば、答えは明白だった。

 

 違う。

 

 あの頃の自分は、伊集院くんだった。

 

 伊集院家の者だった。

 

 役割だった。

 

 そして、高校二年生の春。

 

 高瀬悠人に正体を知られた。

 

 本来なら、最悪の出来事だった。

 

 秘密が破られた。

 外部者に知られた。

 管理すべきリスクが生まれた。

 

 だから、確認が始まった。

 

 秘密保持の確認。

 行動確認。

 資料室への呼び出し。

 

 高瀬は、巻き込まれただけだった。

 

 自分は、高瀬を確認対象と呼んだ。

 

 監視し、警告し、追及し、必要だと言い張った。

 

 最初は、それだけだったはずだ。

 

 それなのに。

 

 いつから、ただの確認ではなくなったのだろう。

 

 資料室。

 

 旧校舎の奥にある、少し古い部屋。

 

 最初は冷たい場所だった。

 

 机を挟んで、高瀬を問いただした。

 秘密を漏らしていないか確認した。

 余計な行動をしていないか監視した。

 

 だが、いつの間にか、そこには紅茶が置かれるようになった。

 

 紙コップ。

 小さな菓子。

 確認用の紙。

 高瀬の席。

 

 お茶会ではない。

 

 そう言い張った。

 

 高瀬は笑った。

 

 お茶会みたいだな、と言った。

 

 違うと否定した。

 

 けれど、本当は少しだけ楽しかった。

 

 高瀬が来ると、資料室の空気が変わった。

 

 遅い。

 時間通りだ。

 私より後に来た。

 

 何度も繰り返したやり取り。

 

 そのたびに、自分は伊集院くんではなく、少しだけ伊集院レイになっていたのかもしれない。

 

 夏祭り。

 

 人混み。

 屋台。

 ラムネ。

 射的の景品。

 花火。

 

 去年は、来年も確認できるなと言えた。

 

 今年は言えなかった。

 

 遠くから見た花火。

 

 忘れるほど前じゃないだろ。

 

 高瀬はそう言った。

 

 あの言葉は、まだ残っている。

 

 水族館。

 

 青い水槽。

 クラゲ。

 限定のゼリー。

 高瀬が隣にいた時間。

 

 あの日、自分は一度も伊集院くんとして振る舞わなかった。

 

 伊集院家の者としてではなく、ただ水槽を見ていた。

 

 ただの少女として。

 

 その時間を、忘れられなかった。

 

 クリスマス。

 

 去年の栞。

 

 今年のブックカバー。

 

 高瀬は、本を読む自分を覚えていた。

 

 意味を押しつけず、でもちゃんと見て選んだものを渡してくれた。

 

 自分はペンを渡した。

 

 今年はペンケースを渡した。

 

 高瀬の書く道具を守るもの。

 

 受験期における筆記具管理の補助だと言い張った。

 

 でも本当は、高瀬の受験を支えたかった。

 

 高瀬が自分の進路を進む時、少しでもそばにあるものを渡したかった。

 

 バレンタイン。

 

 去年はチョコを渡すだけで精一杯だった。

 

 糖分補給だと言い張った。

 

 今年も同じ言い訳を使った。

 

 けれど今年は、受験期の高瀬を考えて選んだ。

 

 個包装。

 食べやすさ。

 手が汚れないこと。

 一度に食べなくていいこと。

 

 高瀬は、それを嬉しかったと言った。

 

 ホワイトデー。

 

 去年も返された。

 

 今年も返された。

 

 今年も返す。

 

 去年のも覚えてるし。

 

 嬉しかったから返したかった。

 

 高瀬はそう言った。

 

 レイは返礼として受理すると言った。

 

 確認として、ではなかった。

 

 そのことを、もう自分でも誤魔化せない。

 

 雨の日の傘。

 

 年明けの電話。

 

 受験前の確認。

 

 普段通りに解答すればよい。

 

 頑張れとは言えなかった。

 

 でも、高瀬は受け取った。

 

 そして、受験を終えた。

 

 電話で「終わった」と言った。

 

 その声を聞いた時、自分は安心した。

 

 それも、本物だった。

 

 伊集院くんとしての高校生活は、整えられたものだった。

 

 偽りの形だった。

 

 だが、高瀬と過ごした日々だけは違った。

 

 あの確認という名の生活だけは、確かに本物だった。

 

 始まりは、秘密を知られたから。

 

 本来なら避けるべき事故だった。

 

 でも、その事故から、自分の本当の高校生活が始まったのかもしれない。

 

 レイは目を開けた。

 

 机の上には、資料がある。

 

 卒業後移行準備資料。

 

 外部関係整理。

 

 高瀬悠人への選択肢。

 

 忘れるか。

 

 忘れないか。

 

 レイは、手を握りしめた。

 

 忘れてほしくない。

 

 その言葉は、もう胸の中では疑いようがなかった。

 

 資料室も。

 

 夏祭りも。

 

 クリスマスも。

 

 バレンタインも。

 

 ホワイトデーも。

 

 水族館も。

 

 花火も。

 

 お茶会ではない確認も。

 

 ペンも。

 

 栞も。

 

 ブックカバーも。

 

 ペンケースも。

 

 全部、忘れてほしくない。

 

 高瀬に覚えていてほしい。

 

 最初は嫌々だったことも。

 面倒だと思っていたことも。

 それでも来てくれたことも。

 いつの間にか自分から問いを置いてくれるようになったことも。

 卒業後も連絡くらいは取れるんじゃないのか、と言ってくれたことも。

 

 全部。

 

 忘れてほしくない。

 

 だが、それを言えば、高瀬の選択を縛る。

 

 忘れないでほしい。

 

 そう言われたら、高瀬はどうするだろう。

 

 高瀬は優しい。

 

 だが、その優しさは軽くない。

 

 彼はきっと考える。

 

 伊集院がそう望むなら。

 

 そう思ってしまうかもしれない。

 

 それは、フェアではない。

 

 高瀬は、自分の人生を考えなければならない。

 

 自分の進路。

 自分の家。

 自分の未来。

 自分が背負う秘密。

 

 その上で選ばなければならない。

 

 レイの願いで縛られてはいけない。

 

 だから言えない。

 

 忘れてほしくない。

 

 それだけは言えない。

 

 レイは立ち上がり、本棚へ向かった。

 

 一冊の文庫を取り出す。

 

 去年高瀬からもらった栞が挟まっている本。

 

 そして今年もらったブックカバーをかけた本。

 

 本の内側に、栞。

 

 外側に、ブックカバー。

 

 高瀬の贈り物が、内側と外側にある。

 

 レイはそれを両手で持った。

 

 この本を見るだけで、思い出す。

 

 去年のクリスマス。

 今年のクリスマス。

 バルコニー。

 高瀬の声。

 

 今年も来られてよかった。

 

 確認としては有意義だった。

 

 そう返した。

 

 本当は、自分もそう思っていた。

 

 今年も来てくれてよかった。

 

 レイは本を閉じた。

 

 机に戻る。

 

 引き出しを開ける。

 

 喫茶店のレシート。

 夏祭りの景品。

 焼き菓子の空き箱。

 小さな記憶の残り。

 

 どれも、他人が見れば不要なものだろう。

 

 だが、捨てられなかった。

 

 それらを残している自分がいる。

 

 記録には書けなかったことが、そこにある。

 

 確認ではないものが、そこに残っている。

 

 レイは引き出しを閉じた。

 

 忘れてほしくない。

 

 もう一度、胸の中でその言葉が響く。

 

 けれど、声には出さない。

 

 出せない。

 

 高瀬が選ぶ前に、それを言うことはできない。

 

 では、何ができるのか。

 

 わからない。

 

 高瀬が考える時間を奪わないこと。

 

 高瀬の前に出て、泣きつくようなことをしないこと。

 

 選択を歪めないこと。

 

 それが、高瀬を尊重することなのかもしれない。

 

 だが、それはあまりにも苦しかった。

 

 レイは机の前へ戻り、卒業後移行準備資料を閉じた。

 

 その上に、手を置く。

 

 紙の下には、冷たい言葉が並んでいる。

 

 秘密保持。

 接触継続。

 記憶処理。

 

 そのすべてが、高瀬との日々を整理しようとしている。

 

 だが、整理できるはずがない。

 

 高瀬との日々は、処理すべき記録ではない。

 

 自分の高校生活の中で、唯一、本物だった時間だ。

 

 伊集院くんとしてではなく。

 伊集院家の者としてでもなく。

 ただの伊集院レイとして、少しずつ過ごせた時間だ。

 

 それを忘れられるかどうかを、高瀬は選ぶ。

 

 高瀬の権利だ。

 

 高瀬の人生だ。

 

 だから、レイは言えない。

 

 忘れないでほしいとは言えない。

 

 けれど。

 

 レイは目を閉じた。

 

 言えないだけで、その願いが消えるわけではなかった。

 

 忘れてほしくない。

 

 資料室でのすべてを。

 

 言い訳だらけの確認を。

 

 お茶会ではないと言い張った時間を。

 

 少女として過ごせた、あの短い日々を。

 

 高瀬悠人に、忘れてほしくない。

 

 伊集院レイは、その願いを胸の奥に押し込めた。

 

 押し込めることしかできなかった。

 

 そして、声には出さないまま、静かに机の上の資料を見つめ続けた。

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